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  <title>What am I ?</title>
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  <description>自分を探すというよりは確かめるための散歩。</description>
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    <title>デモについて。</title>
    <description>
    <![CDATA[　なんか、デモが盛り上がっているみたいだ。「～～を占拠せよ」という号令のもとに。<br id="NINJASELECTIONID" style="clear: both" />
　<br />
　結論から言うと、僕はデモ、特に今回のデモに変な嫌悪感を抱く。それは僕が彼らの言う体制の恩恵を受けているからかもしれないし、根っから保守的だからなのかもしれない。ただ、それ以上に彼らの物言いにどこか違和感を覚える。よく指摘されるのが、シュプレヒコールがない、統一的な主張がないなど。別になくてもいいのではないかとは思うが、自分が欲しいものをただ叫んでいるだけのような気がする。システムそのものを批判する、システムそのものと対決する視座に欠けている。そう思う。<br />
　<br />
　呼びかけの方法が、ツイッタ―とかフェイスブックだというのが示唆的なのではないかと思う。おそらくこのようなソーシャルメディアと言われるものにのっけられるメッセージは、反射的なものであろう。そのためなんらかの体系化された言説を生み出しにくい。体系化されていない言説で、体系化の権化たる体制・システムに立ち向かうのは、いささか無謀なのではないか。確かに、こうした体系化の要請に対して、いや、不満という感情が、より一般的には感情のほうが人を突き動かし、説得的ですらあるのだ、という意見はもっともである。それが本当に真摯な感情に突き動かされているのであれば、それは十分に正当なものであるし、説得的であると思う。大いに爆発させてもらいたい。僕がここで断わっておきたいのは、理論・感情の陳腐な二元論の中でどちらかを称揚しようとする意図はないということである。瞬間的な心の動き（気分）に、継続的性格を持つ感情という装いを試みる人の理路、感覚が理解できないと言いたいのである。<br />
　おそらく、感情によって、システムを壊すことはできる。しかし、現在、その代替案が示されることはないし、また、システムを壊すだけの、感情が存在していると思わない。せいぜい愚痴が渦巻いているだけである。<br />
　感情の吐露と愚痴がどう区別できるのかというのはしっかりと考えなければならないが、真剣さという点において、違うのではないか。愚痴は、自分が置かれている文脈への不満の表明ではあるが、変化をもたらすようなポジティブな思考には使われない。愚痴は、その文脈が続くことを前提に文脈への依存の中で生成されるものである。反対に、感情の吐露は、文脈の無視という契機が内包されている。なりふりかまわず、という言葉が似合う。このなりふりかまわずという境地に達していないのであれば、それは感情ではなく打算に浸食された中途半端な体系化の試み、論理、こじつけ、自己弁護、弁解でしかない。要するにあたまでっかちである。あたまでっかちの気分の表明は、ただのわがままとして煙たがれる（自分の経験上。。。）。愚痴は飲み屋で吐かれるが、感情は時に、仕事中にでも爆発する。<br />
　このなりふりかまわずという点において、理論と感情は二分論では捉えきれない未分化の領域に入る。理論のつきつめは一種の狂気に突き動かされているし、それは純粋に感情的な動機である。論理が太刀打ちできる次元の問題ではない。理性を働かせれば、理論を突き詰めることは非合理的だと判断されるだろう。理論と感情は親和的である。けれど、論理と感情は背反的である。<br />
　<br />
　何度も断わっておくが、理論と感情の優劣をつけたいわけではない。そもそもこの二元論を採用しない。今回のデモという現象の中途半端さへの嫌悪を表明しているだけである。]]>
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    <category>徒然</category>
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    <pubDate>Tue, 18 Oct 2011 10:54:28 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>謙虚という逃げ</title>
    <description>
    <![CDATA[能力とか、地位とか人から期待されるものとかそういったものが一定値を超えると、謙虚を放擲して積極的に責任なるもの負っていかなければならないのではないだろうか。<br />
<br />
ただ、この一定値が客観的に決まるのか、主観的に決まるのか、それが微妙なとこだ。その塩梅を間違うと、ちょっと人に嫌われてしまうというか、疎まれてしまいそう。<br />
<br />
椎名林檎とイチローの対談を見ててそんなことを思った。<br />
<br />
まぁ自分はどうなんだと言われると、放擲した謙虚を探してさまよっているって感じかもしらん。<br />
あら、責任はどこいった？<br />
<br />
いかん、論文書かねば。]]>
    </description>
    <category>徒然</category>
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    <pubDate>Tue, 27 Sep 2011 18:00:17 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>死について</title>
    <description>
    <![CDATA[　死について、忘れられない出来事がある。その現象（決して出来事ではなく、こう言ってよければ、一般的に言うある1人の人がその心臓の鼓動を止めたという事実ではなく、その事実とそれに引き続く一連の人々の行動、いや、事実から行動が引き起こされたのかは分からないし、おそらくは&ldquo;死&rdquo;というその事実的事件すらもがある種のそれ以前の出来事の集合からの連続性の中で捉えられる、いや、捉えられるべきだとこの場合は、&ldquo;僕&rdquo;が感じているわけなのだが。そうした一連の繋がりを切り取るでもなく言及するために使う言葉。）によって、僕は～～～～ということを考えた。という表現形態自体が、そぐわない。いや、その現象の中で/それ以来、僕はこのことを考えた/考えているとしたほうがいいのだろうか。ただ、今はちょうどいい（適切でもなく、正確でもなく）書き方を見つけることが出来ないので、このように記す。<br />
　<br />
　おそらくは、一度しかしゃべったことしかないような、言ってしまえば、赤の他人が、赤の他人同士が集まる合宿で死んだ。正確に言えば、おぼれて、意識不明になり、しかる期間の後に心臓が停止した。ここで僕は幾つかの消滅と生成を見た。残された人の人格の消滅。ある種の連帯の消滅。新たな連帯の生成。それらは、常に、僕にとって悩ましい（こう表現するのがこっけいなくらい、本当に悩ましい）ものであった。それは、<br />
　<br />
　死者とは何か。<br />
<br />
この問いを巡るものだったのだと、一連の現象から5年を経た今、内田樹による、｢他者と死者｣を読みながら、明確に意識できるようになった。これは一つには、時が僕を冷静にしてくれたと言う側面もあるだろう。しかし、なんとなくぼんやりと循環していた思考が、この本によって、同一平面化の循環ではなく、次元をことにする、上下運動を伴う螺旋型循環に移行できる気がした。<br />
　<br />
　実際、その現象以降、自分でそれを消化しようと（消化するべきかどうかも分からないし、できるかもしらないが）、ただ単にその問の前に漠然と翻弄される記録をつけてきた。ただ、少し距離を置いて考えられる今となっては、死を巡る問いは僕に違った形で、常に大きな影響を与えているようだ。<br />
　中学校のときの慕っていた先生の死という現象（一連のという意味、単独で死が訪れることはない。常にそれが、生きる僕にとって、存在論のエコノミーの中での出来事である以上、そこには鬱陶しいひだがついて回る）の中で、僕は｢無について｣という小論文を提出し、担任の先生に辟易された。もう1人の候補者が「殺人者の心とは」だった。<br />
　いまでも当時の担任のため息は忘れられない。あの先生は頑張っていたから。おまえが腐っているからだろ。なぜお前が変わりに死なないのだ。本気でそう思った記憶がある（精確かは分からないが、少なくともそれ以降の僕はその担任に対して、そう思いたがっているということだけは確かもしれない）。なぜ、あの先生だったのだろう。それが今でも消えない。<br />
　<br />
　大学で死んだ人は、関心の対象の外にある人だった。人数が多いサークルだったので、そして、その人がほとんど活動に来ていなかったみたいなので、同じ空間にいるというだけだった。いや、狭い意味では、その人が来ている事実も知らなかったので、どう表現したらいいのだろうか。同じ機会に居合わせたといった方が適切なのかもしれない。人が1人おぼれた。なんのことはない、立ち入り禁止区域になっている橋から、雨で増水した川に、着衣で飛び込んだだけだ。時と場合によってこういうことは起こる。そして、それに直接関わった人の苦悩は僕からは分からない。そのあそびを先導した人は、「おれが殺した」という明確な苦しみを自慰と共に繰り返すことだろう。そう苦しむことが一層深い罪への免罪符であるかのように。そして、もっと軽率な、ある者は、組織の危機管理という大義名分で、この現象を技術的な問題へとすりかえるだろう。自分が「殺人者」になってしまったという被害に危機管理不足から｢あってしまった｣被害者であるかのように｢死者の代弁者｣として振舞う。雄弁に。あの人は一緒に居合わせたから、苦しかったに違いない。そう周りから言われることで、その周りも何かを忘れようとする共犯者である。しかし、こうした現象を、罪などの言葉、硬い法律用語のレトリックで語ることはあまり現象を言い表せない。そこにある違和。弔うということの困難さの裏にある違和。それをどう考えればいいのか。何かを言明することで、見えなくなる、失われる何かがそれがとてつもなく大きかったように思う。<br />
　極めて個人的嗜好の話になるが、その現象の中で、僕はずっと奇異の目で見られていた（少なくともあからさまな非難をそれも道徳的非難を受けることが多々あった）。なぜ悲しまないのか。なぜ葬式に行かないのか。なぜ墓参りにいかないのか。当時はよく分からなかった。そして今もよく分からない。その多くの流れに身を委ねると、その死という現象は治癒されるように思う。でも頑なに拒んだ。決して行かなかった。そこに行くことに違和があった。<br />
　組織運営で、合宿などのレクリエーションについても危機管理をするべきだという議論が起こった（ちょうどその頃、海外に人を派遣したりする活動だったので、そこにおける危機管理体制を構築するべきだという議論を僕が先導していた）。もちろん、議論の方向性が違うので対象とはしたくないと言った。赤信号はわたらないようにしましょうという講習会でも開くのだろうか。今回の事件の詳細な分析と妥当性の論証なくしては組織全体として取り組むということは出来ないのではないかと提案したら、道徳的非難を浴びる。あんな出来事があって、そんなことを言うか。いや、あの出来事は、組織的構造的欠陥というより、一種の逸脱として、処理するべきだろう。少なくとも組織として公式に管理すべき類の危機ではない。といったら、味方はいなくなった。そんなに自分の加害性、有責性を構造に解消したいのか。別に組織として取り組もうが取り組まなかろうが、全体として、たいした差はない。しかし当時の僕は、そして今も分野を違えて学問の分野で、過度の道徳的批判に対する決定的な嫌悪を抱いている。道徳が無意味だといっているのではないが、それは判断を構成する一要素でしかないと思う。しかも、道徳はみなに一緒ではない。あの抑圧する気配の中で僕は、何度も息が、文字通り、止まった。<br />
　<br />
　今思えば、もう少し穏健なやり方もあったのかと思ったりもする。未だに、墓参りにはいけていないし、行くべきかも分からない。ただ、僕はまだ、この現象について、自分で言及を避けている部分がある。それに関わる記憶は、それをかつての僕が拒絶したかのように、今、ぽっかりとそれがあったという空白だけが、ある。無ではなく、空白が、ある。それは自己中心性とルサンチマンにかかわるようなことである/あった気がする。自分を中心にしたときの存在の重さの、いや軽さの濃淡。現象学的な存在論/認識論の融解については深い共感を抱くが、この存在の濃淡、自我の中心性、これについて、考えないことには僕自身が前であれ、後ろであれ、歩を始められない気がする。<br />
　僕はあの人に向かってあの時発した、「戦争をなくしたい」という宣言にいまでも囚われている。そして、なぜ、これで、なぜ、あの時だったのか。今その混乱は学術的装飾を身にまとって、自由自在だ。学術的衣でもってもう少し、あの死者を召喚することを控えなければ。僕の問はその装いが変わってきている。人を｢助ける｣とはどういうことか。人を｢助けるため｣に人を｢殺す｣とはどういうことか。死者の問題から離れることは出来ないし、あの現象が自分の形成に深く関わっていることは間違いがない。ただ、現在の苦悩をあのときのルサンチマンに置き換えることは少なくなった。あの現象を見ずには済ませられないが、幸か不幸か、数多ある事例の中に、少なくとも日常では埋もれさせることが出来ている。同じような構造をした現象の列挙には事欠かない。問の質が同じで、その質感が異なる。その奇妙な二重性に、ときたま、稀有な本に出会って、擦られる。]]>
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    <category>徒然</category>
    <link>https://unsunghero.blog.shinobi.jp/%E5%BE%92%E7%84%B6/%E6%AD%BB%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6</link>
    <pubDate>Sun, 25 Sep 2011 12:04:53 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>論理的とはどういうことか</title>
    <description>
    <![CDATA[　学部時代、この人はすごいなぁという先輩がいて、

　「論理的とは嘘をつかないことだ」

と言っていた。論文などを書くとき、自分がまだ十分に理解していないところ、有効な反論が思い浮かばないところ、批判したい対象の瑣末な部分への怒りが執筆者の個人的資質への好き嫌いに由来することでねじまがるところ、などなど、そうした意図が意識できていればいいが、多くは無自覚的にそうした自分のチブを隠すために、論文の表現が冗長になり、修辞的になり、結果、理論が破たんする。迷う。
　
　嘘をつかないとはとっても難しい。たとえば、奨学金の申請で、専門外の人に分かるように書いて下さいとある。こうしたことは得意な方だと思うが、いかんせん、自分の論文の構想がまとまっていない場合、結構大変だ。ある人は、戦略的に嘘をつくとまでは言わないが、うまくごまかしながら書いたらいいんですよと言ってくれるが、昔から戦略的思考というのが著しく苦手である。
　おそらく、そんなことを中途半端に試みると、ぼろが出る。結局、嘘をつかないようにするしかない。そしてたどりつくしかない。あとは持ち前の、人当たりの良さで面接でごまかすしかない。
　
　なぜか、即時的なうそは得意なようだ。質が悪い。]]>
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    <category>徒然</category>
    <link>https://unsunghero.blog.shinobi.jp/%E5%BE%92%E7%84%B6/%E8%AB%96%E7%90%86%E7%9A%84%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8B</link>
    <pubDate>Sun, 21 Aug 2011 10:33:45 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>アホリズム</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>　警句のことをアフォリズムという。ニーチェとかベンヤミンとかが得意なやつである。それに満たないものはアホリズムかなぁとか思っていたら、バカリズムという芸名はもうひとひねりいれたものなのではないかと、そしてそれなら、あのシニカルな芸風も理解できるななどと早合点する。アフォリズムが厳密な論理性を真実性を求められないように、バカリズムの由来を調べることなどしない。<br />
　<br />
　ただ、アフォリズムを言っている気満々なくせに、アホリズムとかするのは屈折した自意識過剰だと妹に叱責されそうである。<br />
<br />
　ということでいくつかのつぶやき。<br />
<br />
　・ある種の運動、行動には情熱と幾分の軽薄さが、沈黙には深慮と無関心とが隠されている。<br />
<br />
　・死ってドーナツみたいだね。私がいないの。真中がぽっかり空いていて。でも空いているからみんなに愛されて食べられ続ける。だってあの真ん中のやつを食べようとはあまりしないでしょう。<br />
<br />
　・弱さも振りかざすと暴力だよ？（by有吉）<br />
<br />
　・決断するものが主権者なら、決断したいものはどれだけいるのだろうか？<br />
<br />
　・日本でさえ管理できなかった原発事故をイタリアが管理できるわけがない（NHKBS1報道）<br />
<br />
　最近の感想。<br />
　最近になってよやく近代的という言葉を発せられるようになってきた。同様に存在論と認識論という言葉も少しのためらいで使えるようになってきた。</p>]]>
    </description>
    <category>徒然</category>
    <link>https://unsunghero.blog.shinobi.jp/%E5%BE%92%E7%84%B6/%E3%82%A2%E3%83%9B%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0</link>
    <pubDate>Tue, 12 Jul 2011 08:49:07 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>半年</title>
    <description>
    <![CDATA[　今日、突然、コソボでの選挙監視で知り合った人から進路相談のメールが届いた。<br />
　正直びっくりした。インターン中は結構しゃべったし、よく物事を考えているというか考え過ぎくらいの勢いの人だったので嬉しい限りである。<br />
<br />
　そして、あぁ選挙監視から半年が経つのだなぁと思った。コソボ以降、何が変わったかといえば、なにか慌ただしく過ぎていった印象がある。そして、あの時感じた疑問を論文に反映させようと思っているが道のりは険しい感じがする。。。先生はコソボに行ったときに感じた問題意識がしっかり出ていますねと言ってくれたし、そこを僕の代わりに、ゼミ中に擁護もしてくれたのだが、まだぼんやりとは見えて消えての繰り返しである。。。<br />
がんばるんば。<br />
<br />
　あの時からすると英語は少ししゃべれるようになって、今行ったらもっとコミュニケーションとれるのにとか、コソボの事もあの時より勉強してもうちょっと話せるのにとかいろいろ思うことはあるが、そうした技術的なことじゃない面で、盛りだくさんの半年だったなぁというのがある。<br />
<br />
　それとやっぱ案外人望あるな。とひとりごつを言ってみたり。]]>
    </description>
    <category>日々の出来事</category>
    <link>https://unsunghero.blog.shinobi.jp/%E6%97%A5%E3%80%85%E3%81%AE%E5%87%BA%E6%9D%A5%E4%BA%8B/%E5%8D%8A%E5%B9%B4</link>
    <pubDate>Wed, 29 Jun 2011 09:42:20 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>Mission Statement</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>　僕は学者を将来の進路として志望している。分野は何かと言うと、よくわからない。聞かれた人によって答えを変えることにしているが、研究テーマについては法律と暴力のはざまに興味があるというのが精確なところだと思う。それでは該当する学問分野は何かと問われれば、国際政治、国際法、国際関係論、憲法学、政治哲学、法哲学、法社会学、などが関連分野としてぱっと挙がってくる。現在、専攻は平和構築ということになっているが、それはそうした法と暴力の問題が極めてアクチュアルな様相を伴って立ち現れるからである。<br />
　<br />
　個人的な興味はこんな感じなのだが、専攻の性格上、そこにはユートピアニズムにどっぷりと浸かった人が一定数存在することもある。そこには、人が分かりあえる日を信じて疑わない人が存在し、時に美辞麗句で持って、その理想を語る。その姿は、対他的というよりは自己中心的で、説得的というよりは陶酔的である。学部のときから、そういった類の人から好かれる存在では決してないが、学部の時から変わったのは、そうした人を目の前にして、ある種のまぶしさを覚えなくなったことだろうか。当初はやっぱりカッコイイと思った時もあった気がする。<br />
　しかし、彼らの一つの傾向性に疑念を抱くようになってから、そうしたものもなくなった。その疑念とは、「人は理解しあえると思っている人たちは、人とは理解し合えないと思っている人たちと、理解し合おうとしない」という傾向性に対するものである。理解できないと思っている人たちに彼らが向けるまなざしと言うのは、時に憐みであり、侮蔑である。そして、時には敵対的な視線である。そしてそうした視線は今の世界で、寛容という名の下の不寛容となって、ときには視線がミサイルに姿を変えて投げかけられることになる。まぁ、話を単純化しすぎたし、レトリックにすぎる言葉になってしまったが、そうした傾向性には注意を向ける必要があるだろう。<br />
　彼らは&quot;Conflict resolution&quot;をあくまで目指すのであって、&quot;Conflict management&quot;なんぞいう悲観的な考え方を受け入れない。その姿勢があらたな&quot;Conflict&quot;の要因になるとはつゆ知らず。僕は前者には与しない。どんなに悲観的だと言われようと、争いは生じるし、それが悪いことだとも思わない。<br />
<br />
　それではそうした原則を持って、学者としての立ち位置をどう考えているのか。これは二つ目の大きな問いである。今までのが、目的に関する議論だとしたら、今からのは手段に関する議論と言えよう。そして、手段としてなぜ、暴力と法のはざまの研究を選ぶのかということにもつながってくる。<br />
<br />
　まず、学者は、道具を作るものだと思っている。だから自分の言説にはプロフェッショナルでなければならない。それではその道具の使用方法についてどの程度責任を持つべきか。それは取扱説明書を作るまでと言わなければなるまい。そのあとはやはり政治家なり、実務家の領域である。それでも、その誤った使用方法で批判が出たならば、甘受しなければならないと思う。その正しいと自分が思う使用方法を広めていくのもまた大きな役割であるように思うのだ。<br />
　そして、現在の状況を鑑みるに、暴力と法のはざまにおかれた人間に用意された道具が極めて少なく、稚拙であるというのが現状に対する認識だ。リビア空爆を批判する人がいたら、それを説得的に果たして展開できただろうか？推進派ですらそれは怪しい。それではその効果は？また、日本において、政治の醜態が露見されるが、代替案を示す力と知性はいずこへ？こうした問い、法に従うでもなく、暴力に訴えるでもなく、そのはざまんで、その両者にぶら下がりつつ、なんらかの&ldquo;正しい&rdquo;もしくは&ldquo;適切な&rdquo;、&ldquo;妥当な&rdquo;方策を考える際の語彙が著しく少ない。特に日本において、そうした語彙は、要するに主体性を持った語彙はないに等しい。そして、それに形を与えることで、先の&quot;conflict management&quot;はもう少し見晴らしのいいものになるのではないか。こうした、動機によって、研究は進められている。</p>]]>
    </description>
    <category>徒然</category>
    <link>https://unsunghero.blog.shinobi.jp/%E5%BE%92%E7%84%B6/mission%20statement</link>
    <pubDate>Thu, 02 Jun 2011 07:14:05 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">unsunghero.blog.shinobi.jp://entry/77</guid>
  </item>
    <item>
    <title>中村淳彦、『名前のない女たち―最終章』</title>
    <description>
    <![CDATA[　AV女優、しかも単体ではなく、企画AV女優へのインタビューを綴った本である。<br />
この最終章で『名前のない女たち』シリーズは終わっている。これは著者の置かれている状況の変化、ひいてはAV業界、アダルト業界が斜陽にあるということを原因としているようだ。<br />
　<br />
　AVやアダルト業界系の本を読むのは別にこれが初めてではなく、興味を持って定期的に読むようにしている。こうした性産業という言われるような領域の問題群には自分がその主な消費者であるということもあろうが、人間社会に存在してきた性を対象とした一つの現象として、結構時間をかけて考えたりしている。<br />
<br />
　AV業界自体が斜陽にあるというのはどういうことだろうか。それはネットの普及によって、あらゆる種類のエロコンテンツが無料で手に入るようになったということと関係しているだろう。2ｃｈなどではユーザーによる自画撮りの画像と動画を投稿するスレが立っているようだし、tube8というような海外動画投稿サイトなどを見ていると、AV業界の生き残りの難しさを垣間見れる。<br />
　<br />
　そうした業界的な動きは素人目にはよくわからないが、<br />
<br />
『現在、芸能人までもが登場するようになったアダルトメディアの中で、企画AV女優はもはや無価値に等しい存在になっている。よほど美しいか、性的に成熟していない限り、自分の生活を支えるだけのギャラを手にすることさえ困難である。～～最終手段を売ることを決意したにもかかわらず、その現実を知らないまま蠢いている企画AV女優は底なし沼の世界になっていた。』(p.3)<br />
<br />
『アダルトビデオが市民権を得て女子の質が良くなっているということではなく、仕事が少なくなって志願者が増えて競争が激しくなり、怠慢な女の子はわれわれが存在を知る前にはじかれてしまっているということである。もう、不真面目な人間は企画AV女優にすらなれない時代なのである。』(p.115)<br />
<br />
など、競争の激しさ、そして、にっちもさっちもいかない状況が記されている。<br />
<br />
　この本の中に登場する一人の女優は<br />
<br />
『生きていて大切なのは好きなことを追求すること。社会的なことなど二の次であり、自分自身には絶対になくてはならない好きなセックスを追求するためにポジティブにAV女優をしている女もいる』(p.188)<br />
<br />
と言いきった。そしてそのあと、自殺している。<br />
<br />
　日本では、二次大戦以降、従軍慰安婦問題と並んでRRAの設置など性の商品化に関する議論が一定程度の厚みの中で展開され続けている。日本のAVは海外のものと比べて、かなり異質だとも言われる。こうした性産業とどう関わるのか、もしくは関わらないのか。いつもそれは複雑な波紋を広げる。<br />
　<br />
　僕は学部生のころ、訳知り顔で、ネットでただでエロ画像、動画をみるのは失礼だし、きちんとお金を払ってAVを借りるなり、買うなりすべきだと思っている時期があった。何様のつもりだったのだろう。ただお金を免罪符として使いたかっただけではないか。<br />
<br />
<br />]]>
    </description>
    <category>雑感</category>
    <link>https://unsunghero.blog.shinobi.jp/%E9%9B%91%E6%84%9F/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%B7%B3%E5%BD%A6%E3%80%81%E3%80%8E%E5%90%8D%E5%89%8D%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%84%E5%A5%B3%E3%81%9F%E3%81%A1%E2%80%95%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%AB%A0%E3%80%8F</link>
    <pubDate>Thu, 26 May 2011 11:32:07 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>東北行脚</title>
    <description>
    <![CDATA[最近更新していたなった。と言っても先日子供云々をアップしたけれど。<br />
<br />
4月はずっと、東北行脚の旅に出ていた。<br />
4月5日から南相馬市で一週間ほどボランティアをした後、岩手宮城と、東北各県を視察し、適宜炊き出しの手伝いをしていた。<br />
<br />
そして帰ってきたのが、確か4月の24日とかだったと思う。<br />
<br />
ボランティアをしていて思ったことが、やはり、普通に働いていない人のクオリティは間違いなく低いということと、そういう人たちが吹きだまりのように集まるという傾向性があるということ。<br />
ボランティアと言えば聞こえがいいが、震災当時に何もしていなかった人たちの集合体である。もちろん、すばらしい人たちもそこにはあふれているが、同程度いやもっと大部分がひどいものだった。<br />
<br />
例をあげると、｢おれはこんな仕事をしに、ボランティアに来たわけじゃない！！｣とキレる人。おい、おまえは何さまだ。じゃあ帰れ。毎晩お酒を飲んで、次の日に二日酔いで作業をする人。そして、飲んでいることを注意されると逆切れする人。頼むから自分ちでやってくれ。<br />
このような人がいるのもまた事実である。そしてこういう人たちにありがちなのが、自分たちは善意でやってきたのにその態度はなんだと、地元の人に言う始末。残念である。<br />
南相馬市のボランティアセンターは恵まれていて、そこにはボランティアのためのボランティアが来ているくらいであった。どういうことかと言うと、ボランティアのために食事を作るボランティア、ボランティアのために、マッサージをするボランティア。僕は南相馬にいた一週間で頭が狂いそうになった。<br />
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それに比べて、東北行脚をした後の2週間は充実したものだった。それは自分の動機が、現地で何かをしたいというよりは、もっと観察とか調査というものに動機づけられていたからだろうが、大きいのは、メディアにあまり大きく取り上げられていないところを回ったからというのもあるだろう。南相馬は最初のうちは風評被害で人もあまりいなかったが、風評被害という報道がなされてから、逆風評被害ともいうべき状況だった。烏合の衆が集まってきたのである。それに比べると、岩手、宮城で行ったところはそこまでではなく、粛々と行われている感じだった。<br />
スリランカに津波が来たときに現地の人が言った言葉は有名である。<br />
私たちの国には、津波が二度来た。一度は水の波で、二度目は人の波だった。<br />
スリランカが外国からの援助を嫌うことは有名であるが、その気質を差し引いても、注目に値する言葉であろう。<br />
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まぁ、そんなこんなで四月は過ぎていき、五月の初旬は道後温泉を含む四国へ彼女と旅行をしていた。香川件には小学生のころ住んでいたのだが、その小学校に行ってきたし、行きつけのうどん屋にも行けた。<br />
楽しかった。<br />
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おお、忘れていた。四月の終わりに修論の中間報告を行った。感触は悪いものではなく、今後も引き続き頑張っていこうと思う。<br />
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最後に、東北の事業が今後も続きそうで、長期的に何らかのかたちで関わるというのはなかなかにできないことだし、いい機会に恵まれたと思っている。<br />
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    </description>
    <category>日々の出来事</category>
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    <pubDate>Tue, 24 May 2011 09:03:44 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>またね、と、バイバイ</title>
    <description>
    <![CDATA[4月8日にパソコンに打ち込んだやつをアップしてみる。<br />
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<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">今、南相馬市にボランティアに来ている。<br />
</span></font></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">昨日までは戸別訪問をしていたのだが、今日から託児所での子供のお世話ということになった。</span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><font size="3"><o:p></o:p></font></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">その託児所というのが、パチンコ屋の二階にあり、普段はパチンコ店の従業員やパチンコにくるお客さんのためのものであるそうだ。極めてクールないや、倫理的ともいえるパチンコ屋の戦略にぞっとした。そしてパチンコ屋らしく、その設備は豪勢そのものである。ゲームの量にはびっくり。</span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><font size="3"><o:p></o:p></font></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">ただ、現在は地域住民に対して解放されていて、と言っても知名度が低いので大人数来るわけではないが、幅広い層の人々がやってくる。</span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><font size="3"><o:p></o:p></font></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><o:p>&nbsp;</o:p></span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">被災地の現時点での役割は少なくとも三つほど考えられる。子供のケア、母親父親のケア、地域ネットワークの構築、促進である。ここで重要なのが子供のケアもだが、両親のケアである。子供を一定時間預けることで、避難生活の苦渋から一定程度解放される部分はあるようである。なのでボランティアの多くは、親御さんの話し相手ということになる。</span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><font size="3"><o:p></o:p></font></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><o:p>&nbsp;</o:p></span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">では残った子供たちをどうするか。僕の出番が訪れた。僕はたぶん、子供の扱いには慣れている、というより、子供一般が僕の扱いに慣れているため、かなり打ちとけられやすい方だと思う。今日もご多分にもれず、その特性を如何なく発揮し、一日を過ごした。</span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><font size="3"><o:p></o:p></font></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">僕の基本的な戦略は、子供の年齢層によっても違うが、子供にとっての共通の悪役を作ること、つまり、僕が子供内に派閥を作らせて、けんかさせるのではなく、僕という敵を子供が協力して倒すという構図を自明な形ではないにしろ、関係性の中に滑り込ませることである。そうすると、結構楽しく、やれる。しかし一つ大きな問題は、その悪役のキャパシティである。これを見誤ると信頼関係は一気に崩れるように思う。何人までなら引き受けられるか、どれくらいの強さの悪役になるか、これは歯ごたえがなさ過ぎてもいけないし、逆に強すぎてもいけない。こうした絶妙な塩梅によってというか、ほぼ一生懸命全力で子供に立ち向かっているだけなのだが。。。。だいたい仲良くなれる。</span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><font size="3"><o:p></o:p></font></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">もうひとつ、重要なのが子供の視線の意味についてきちんと自分なりに解釈しようとする姿勢は見せなければならない。マストである。子供はいわゆる社会化がそこまで進んでいないため、人間関係の中でのグルーピングの基準が極めてシビアである。視線の意味が理解されないことをおそらく理解している、その姿勢を見ているような気さえする。それでは構って視線を出された時、すぐ近寄っていけばいいのか。いやツンデレであることの魅力も捨てがたい。云々。。。</span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><font size="3"><o:p></o:p></font></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">いろいろ書いてきたが、結局そんなことじっさいにかんがえちゃぁいない。一生懸命楽しんでいるだけである。本当に楽しかった。アスレチックで遊んで、マリオカートして。お話して。</span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><font size="3"><o:p></o:p></font></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><o:p>&nbsp;</o:p></span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">本題に入ると。</span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><font size="3"><o:p></o:p></font></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">こうした被災地における子供のケアとはどうあるべきなのだろうかということについてとうとうと悩んでいる。</span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><font size="3"><o:p></o:p></font></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">通常だと、こうした託児所には資格を持った保育士なりが常駐しており、ことは進められる。しかし、そうした人たちが軒並み避難してしまってスタッフがいない、ボランティアだけという状況において、子供が被る影響とはどんなものなのか。こうした問題群に僕は突き当たってしまった。</span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><font size="3"><o:p></o:p></font></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><o:p>&nbsp;</o:p></span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">まず、ボランティアの問題は資格がないことはもちろんのこと、最大の問題は、アドホックであることである。人は初対面の時、緊張する。それが会話・ふれあいを通じて緩和もしくはその逆になったりする。たとえばそれが毎日繰り返されるという状況はどう感じられるだろか？実際に子供に起こっている状況である。今日来る人と明日来る人が違う。毎回ゼロから人間関係を始めて、そして終わる。その繰り返し。ストレスの発散の場としての託児所が深層部分で大きなストレスとして作用することはないのだろうか？</span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><font size="3"><o:p></o:p></font></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">また、震災直後というこの特殊な状況の中で、子供たちに必要なものは他でもない安心感であるように思う。そうした場合、頻繁に入れ替わるメンバーというのは逆効果をもたらしはしないだろうか？人への不信感を深める方向に。おそらく、彼らは分かっている。どうせまた来ることはないし、いつかどっかに行くことを。しかし、大人が避難した状況の中で、ボランティアがそのアドホックさゆえに、不信感を加速させることはないだろうか？</span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><font size="3"><o:p></o:p></font></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">ボランティアが彼らにとっての非日常であるために、彼らを必要以上に刺激してはいないか？高校の時、保育園に行ったが、毎日あなたたちのようなテンションで子供たちに接することはできないし、することがいいとも限らないと言われたことを覚えている。</span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><font size="3"><o:p></o:p></font></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">こうした疑念が頭をぐるぐる回る。</span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><font size="3"><o:p></o:p></font></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">あと、写真に向けた彼らの嫌疑的なまなざし。今日、最後に活動報告用に写真を取らせてもらった。団体からの出資で活動をしている以上、報告義務があるのだが、僕はどうも写真を取ることに抵抗を覚える。ただ、以前からこの託児所でボランティアをやっている人が僕なら快く子供達も受け入れてくれるだろうとお墨付きをくれたし、僕も記念に写真を取っておきたかったので、頼んでみた。実際子供たちに抵抗はなかったし、楽しい感じで撮影が終わった。しかし、そこに映っている顔は僕が最初に来たとき、コミュニケーションの最初に見せた、ないまぜになったものだった。こうした大人の事情を彼らは感知している、どこかで。それが嬉しいと同時にそれを見せなければいけないのがとても嫌だった。子供がピュアだと言いたいわけではない。ただ、関係性の中にそうしたものをしのばせるのが嫌だったのだ。そしてそうした写真が勝手に解釈されることが嫌だ。少女とハゲワシの写真のように。彼らのそのまなざしが容易に震災の苦しみの顕然であるかのように扱われるのが。</span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><font size="3"><o:p></o:p></font></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><o:p>&nbsp;</o:p></span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">別れ際に彼らはとまどいながらまたねと言ってくれた。また明日ねと。そして、あ、週末はここが休みか。じゃあまた、月曜日ねと言ってくれた。しかし彼らのうちの一人がしまったという顔をして、ばつが悪そうにうつむいた。しっかりした女の子が言い直して、じゃあね、バイバイと言った。また月曜ね。と言うとみんながぱっと顔を明るくしてもう一回はっきりとまたねと言ってくれた。</span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><font size="3"><o:p></o:p></font></span></p>
<p class="MsoNormal" align="left" style="text-align: left; margin: 0mm 0mm 0pt; mso-layout-grid-align: none"><font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><o:p>&nbsp;</o:p></span></font><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA"><o:p></o:p></span></p>
<font size="2"><span style="font-family: &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;; font-size: 10.5pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA; mso-fareast-language: JA; mso-bidi-language: AR-SA">僕は決して、日常的な安心感を与えられる存在ではないし、その必要もない。ただ、少しだけでもなにかへの不信を取り除くことはできるのではないだろうか。少なくともその瞬間彼らの心の中が混乱していたことは確かである。それでも、バイバイではなく、またね、が最初に出てきた言葉だったのがせめてもの救いである。それはばいばいを月曜日に先送りしただけなのかもしれない。そして中途半端な情は、かえってマイナスなものなのかもしれない。僕には分からない。分からない。でもまたねとばいばいの間で揺れ続けるしかない。僕はその間に立って訳知り顔で思考停止にはなりたくない。今度は一緒に遊んでいる時のような顔の写真を報告用ではなく彼らとぼくとの写真として取れればいいなぁと思う。</span></font>]]>
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    <pubDate>Mon, 09 May 2011 08:01:37 GMT</pubDate>
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