久々に更新しようと思う。12月に参加した国際学生シンポジウムについて感想文を書く機会があったのでこっちにもアップしておこうと思う。
12月下旬、僕は国際学生シンポジウムに参加した。一番大きな収穫は“あぁ、勉強せなんなぁ”と結構久しぶりに感じたことである。
参加のきっかけはかなり偶発的なものだった。授業に全然でない僕が単位に関係ないのに唯一出ていた「政治思想史」という授業で国際学生シンポジウムの運営スタッフの人がビラを配っていたのである。それをたまたま手にし、そのまま応募した。ドラゴンボール集めたらどうするかという課題文に心が奪われ、そればっかりを考えて応募した。その頃、将来の進路について悩んでおり、ひとつのきっかけになればと思ったというのも動機の一つだろう。
僕は大学の二年半を国際協力関係の勉強といより体験学習というか、要するにほとんどの時間を海外旅行、海外訪問に充てていた。行った国はタイ、マレーシア、カンボジア、インド×2、バングラディッシュ、インドネシア、中国×3。。。ほんとに多くの時間と労力を費やしてきた。いろんな人に会い、見たことのない現状を目の当たりにして。そんな中、日本のよさを感じる機会も多かった。そして、だんだんと、国際協力ばりばりで将来働きたいというよりは、日本という軸をもった上でそうした活動をしていきたいと思うようになった。自分の中に日本というものが結構明確な形で意識された。
そんなこんなで分化会を選ぶとき開発と迷ったのだが、今まで完全に門外漢だった日本外交にすることにした。そこでは驚きの連続だった。自分の考えのまとまりのなさ、知識のなさ、とりあえずの行動しかしてこなかったことへの後悔、その他諸々。“勉強せなんなぁ”と思った。あと、もう一つ強く感じたのは、“戦争は、なんかいやだ”ってことだった。兼ねてから漠然とそういった思いは持っていたのだが、この言葉の無責任さを痛感し、だからこそきちんと強く持っていこうと思った。ここで無責任さを痛感するってことにかなり大きな意義があったように思う。
シンポジウムが終わり、僕は図書館に行くようになった。参考文献を今更読み出し、その他自分が訪れたことのある国についての関連文献を読み、試験期間も間近だったので授業に出るようになって。そこで感じたのは、自分がもんもんと考えていることってのは既に見事に体系化してされていて、それが言いたかったんよ!と叫びたくなること多々あって。自分が漠然と行なってきた客観的説得力のない価値判断というものの不確かさを感じ、論理的裏づけの大切さを感じた。ただ、自分の目でみたいという海外放浪の根拠になった思いだけはやっぱり変わらず、走りまわりもした。鹿児島の祖父の家に行き、焼酎を酌み交わし、戦争の資料をかっぱらってきた。知覧に連れて行ってもらった。
すごく散文的になったが、将来僕は、戦争がなくなるように、もし起こってもその被害を少なくするようにしたい。そうした仕事に関われればいいと思う。経験がないからこそ苦しみを知らないからこそ起こらないようにしなければと責任を持って思う。
なぜ半年振りに?
そこにぼくの大きな過ちがあったのだ。
話をさかのぼること。あれは6月のことだっただろうか。
いつものように僕は属している団体の中での愚痴、不満、不安をぶちまけていた。
その先輩はそれを聞いて、いつももっと頑張ればいいんじゃない?というようなことを言うのだ。確かに足を引っ張られることもある、嫌いな人がいることもある。ただ、お前がもっとこうしたら、こう頑張ったら状況はよくなるんじゃないの?という風にいつも見上げさせてくれるのだ。
決して満足させてくれずでも現状を認めないでもない。冷静に現状の僕を分析して、それにポジティブな方向付けをしてくれる。うつむいた僕にいつも限りない空を見上げさせ、希望と絶望入り混じったわけの分からない場所へと連れて行ってくれるのだった。
その日も先輩と僕ははそんな話をしていた。恋愛話から顔差値、下ネタから政治問題。そして話は自分の将来のことに及んだ。僕は三年生で先輩は四年生。僕は将来国際公務員になりたいのだと、先輩は院に進学するのだと。僕は国際公務員になるためにまず外交官になり世界を知る。現実を知るということをするみたいなことを言った。その頃ちょうど佐藤優の『インテリジェンス 武器なき戦争』がはやっていたのでそれを例に出しながら先輩はらしくないことを言い出した。
“今は薄給激務やよ。普通に就職してそれなりのお金を稼いで、休日は趣味にいそしむ。そんな生活でもいいんじゃない?”
僕はそこで反射的に
“なんかいやだ!!!!!”
と言い放っていた。そこで会話は終わり。なぜ先輩がこんな発言をしたのかは今となっては分かるのだ。というよりそのときの僕が子ども過ぎた。ただそれだけだったのだ。
というのも、僕は進路について二転三転していて、そのたびにもっともらしい理由をつけて、その先輩に話していたのだ。今回もそんな感じで話が進んで。でもそろそろ痺れを切らした先輩がそんな発言を僕にしたのだ。もっと考えろ。お前が本当にしたいことはなんなんだって突きつけられたんです。他にも“お前に国を任せたくない”など僕の甘さを指摘され。僕はそれを直視できず目をそらした。
それから気まずくて会ってなかったのだが昨日無事再会しましたとさ。それは長くなるのでまた次回。
今回は空白の半年についてちょっとまとめとこうと思う。
僕は言葉で伝えるということを大切にしたいと思っている。
言葉は客観的になればなるほど感情を失っていく。でもきちんと伝えようとすればするほど言葉は味気のないものになってしまう。それは愛をささやくときの話ではない。何らかのプロジェクトなどに取り掛かるときとかのことを念頭に置いている。
勢いで突き進みヒトを巻き込む人がいる。僕はいつもそれをうらやましげに眺めていた。どんなにそのものの正当性を訴えようが人の心には響かない。ちょっとした一言がこころを動かす。
僕の友達はそれでも言葉をつむいで伝えるしかないと言い放った。涙でこころを動かす。そんな道には行きたくない。
自分がしていることは間違いなのではないだろうかと悩む。でも僕は伝えるすべを他に知らないから感情とはなれた言葉を使っていく。伝えたいと思えば思うほどに伝えたい熱い思いからはなれた言葉が自分の口から発せられる。まるで防衛線を展開するように。
自分が本当に伝えたいと思っているのか分からなくなる。
でも僕は少しでも伝えようと否定する余地のない完璧な城壁を作り上げる。それが人の侵入を拒むことに気づきながら。心底の賛同より表面上の賞賛が欲しいだけなのかもしれない。王様はお城の中でひとりぼっちなっていた。
日ごろ考えていることをこの際言語化しようと思い立った。
★言い訳という言葉
よく言い訳をするなといわれる。僕は言い訳をすることをいけないことだとは思わない。所詮人は他人の言い訳なんて詳しく聞いていないのだ。カゼをひいたから。それを聞いて真剣に心配する人なんていない。そんなもんなのだ。
ただし無条件に言い訳を許すわけでもない。自分を納得させる言い訳をしなければならないと思う。自分の発した言葉を自分くらいはちゃんと受け止めないと悲しい気がする。でもそれが一番難しい。だって言い訳のほとんどは自分をだますためにされているのだから。
でも他人は全く納得しないけど自分だけは心から納得できる言い訳をしていきたいと思う。
★自分のためという言葉
一回生のとき僕はインドに行った。そこでマザーハウスというところで一週間ボランティアの体験をしてきた。そこで感じたことはいろいろあったのだが長くなるのでここではそこで考えた結論だけ書いておく。そこでの体験はまた後日に。
そこで感じたことは所詮というか結局というか、あんまりネガティブな表現は使いたくないのだけれど、いろんな行為は自己満足、自分のためということがかなり大切な考え方なのではないかということだった。自分がその場でかなり癒されたのである。何か出来ると勘違いをしていたじぶんがそこでしてもらったのである。
それからの約一年半その考え方は自分の根底にあった。今でも変わらない。
しかし、最近、そこに若干の変化があって。それって結構一番甘い言い訳なのではないだろうか。例えばなにかの対象に対して自分がいいと思う行為を実行したとする。それがいわゆるありがた迷惑だったとしよう。自分がそれに満足したからそれでいいのかといったら違うだろう。もっと言うと、なんらかの壁にぶつかったとする。それを越えられなくても自分がベストを尽くしたと思えればそれでいいことになってしまう。そこでのベストというのは自分で発した言葉である以上ベストではありえないのだがそこについては今は言わない。
さて、話を戻して自分でベストであることが本当のベストである場合、果たしてそれで十分なのであろうか。ということを最近考えるのである。僕は将来国際協力に関わろうと思っている。また国会公務員なども視野に入れている。そこで思うのが自分のベストを越えて頑張らないといけないことがあるということである。心底からヒトのために頑張らなければならないときがあるということである。そこで言うかもしれない。仕事だから、でも僕はそんな理由では頑張れないのである。
僕は“自分のしたことで誰かが笑ってくれる、そんな職業についてみたい”という漠然とした思いがあった。でもそれがいつしか独りよがりなことに気づいた。でもまた戻ってきてしまった。ヒトはどうか知らないが、自分が一番頑張れるのはそこに“人”がいるからなのではないだろうかという場所に。
でもよく分からない。ひとつだけいえるのは自分が満足していないのに他人を満足させられるわけがないということである。だから多分、一年生のときのポジティブ自己満足最高というのは、まず自分が満足するものをせよと言い換えられるのであろう。ちょっとした変化であるが自分の中では結構大き目の変化である。
★理論、理屈と感情
眠くなったのでこれはまた次回というか明日に回そうと思う。
自分、乞うご期待。
ブログをつけはじめて二回目の投稿となる。
思ったことが、日ごろ考えているようでもいざとなると言葉に出来ないということである。うーむどうしたものか。
今日昼頃、ベッドの中でなんか素晴らしい考えが浮かんだ。確かに浮かんだ。だがそれは二度寝によって完全に忘却のかなたへといざなわれた。よくあることである。なんか素晴らしかったはずなのに。自分がさも学者になった気分だったのに。。。
考えてみると僕と言う人間はかなり楽観的に生きてるのではないだろうか。実際は思い浮かんでもない考えに一喜一憂し。
思いついたらすぐ書き留めておこうと思う。睡眠時間はひらめきの宝庫だから。というかそう信じていたいから。