幼少のころの忘れられない、一場面がある。今でもそれを思い出すと、少し悲しくなる。
小学生の頃の遠足の楽しみといったらなんだろうか?前日の眠れない夜だろうか。授業を受けなくていいあの開放感だろうか。はたまた私服で登校できるえも言えぬ浮遊感であろうか。ともかく小学生のころ特に中学年までは遠足というものはなんとも言えぬ大人公認の秘め事のようなそんなワクワクしたものであった。
そうした遠足の魅力の一つにお菓子を持参できるということがあったと思う。心憎いことに上限300円というなんとも絶妙な金額設定がなされた上で。
そう、あれは僕が多分小学校2年生か3年生くらいの頃だったと思う。遠足を4日後に控え僕はお菓子を買いに近所のスーパーに母と買い物に来ていた。確か、マルナカというスーパーだったと思う。そして僕は遠足に心躍らせ、というより、300円分ものお菓子が買えることに胸を躍らせ、スーパーのお菓子売り場をせわしく動き回っていた。当時一月のお小遣いが100円の僕にとってはこの300円というのは夢のような金額であり、同時にせつない現実感をも与えるものであったのである。三ヶ月分のお小遣いに匹敵する驚きの金額設定なのだが、なんでも買えるというわけではなく、結構シビアに品定めをしなければならないのである。ただ、僕にとってはそのお菓子選び自体ですらが楽しい遠足であったのだ。
時間をかけること10分程度。僕は無事300円分(消費税抜き。ここが小学生の精一杯の抵抗である)のお菓子を買い終えた。なんといっても今回の目玉は300円の半分以上を費やしたドラゴンボールグミである。これはいわゆるおまけつきのお菓子で全く食べる部分がない。カードの悟空とべジータのところにその形のグミが張り付いているだけのものである。しかし、である。月100円のお小遣いでは決して買えない垂涎の一品である。ここは即買いである。しかも、そのグミの少なさ故にそのグミからはまばゆい輝きが発せられていたのであった。
こんな様子で遠足前の前夜祭(お菓子選び)を終え、遠足に繰り出した。遠足の内容は全く覚えていない。まぁ普通の遠足だったのだろう。僕はその日、とうとうあのグミを食べることなく帰宅した。別に遠足で食べる必要はないのである。親の作ってくれたおいしいお弁当があれば、お菓子なんていらない。欲しくなれば友達にもらえばいい。ぶっちゃた話、遠足用のお菓子を遠足で食べるために買ったことなどない。自分が日ごろ買えないお菓子をその日以降の楽しみのために買っていたのである。そんな感じで僕はあのグミを家に帰ってゆっくり食べようと思っていた。僕は食事でも何でもそうだが、楽しみは最後にとっておくタイプの人間である。しかもかなり徹底して。
そして遠足から数日後。
”さぁて、ドラゴンボールグミ食べよっと”
と親に聞こえる声で誇らしげに宣言して、僕はお菓子が入っている戸棚に向かった。そして遠足用お菓子が入っている袋を開けた瞬間、事件は起こった。いや起こったというよりはむしろ僕が”悟空、べジータ失踪事件”の第一発見者となっていた。あろうことかそこにはもういなかったのである。そう楽しみにしていたあおの輝きを放っていた悟空とべジータが。無残に連れ去られた悟空とべジータのあとに残されたのは絵の描かれた台紙と犯人が連れ去り忘れたと思われるスーシンチュウだけであった。僕はその場で立ち尽くした。今にも泣きそうな気持ちになった。というよりほぼ泣いていた。犯人は分かっている。これまでの人生の中(そういっても十年弱であるが;)で幾度となく苦しめ続けられてきた妹という名の着ぐるみを着た怪獣の仕業である。あろうことかこれ食べたやろ?と聞いたところ帰ってきた答が
”覚えてない。食べたかもしれん”
である。あんなに楽しみにしていたお菓子が。自分だけ友達より少ないお菓子しか持っていけないという覚悟の上で買ったあのグミが。やさしい母は同じの買ってあげるからと言う。しかし!この世にあのグミと同じものは存在しないのである。あの遠足前のどきどき、遠足のときも食べるのを我慢するあのお預け感、その他諸々。そういったものがあってはじめてあのグミはあのグミ足りえたのである。代替可能なものでは決してないのである。同じ商品を食べたところで僕の心は満たされないのである。そんなことを小学生の僕が言葉で伝えることが出来ようか。僕は絶望に打ちひしがれ力なく”いいよ”というしかないのである。
思い返すと僕は楽しみをとっておいては妹にそこを持っていかれるということの繰り返しであった。ステーキの脂身、鳥のから揚げの皮、カレーに入っている鶏肉とその骨の軟骨。僕は終ぞ残しておいたおいしいものを食べる機械にたどり着けないのである。それも内的要因ではなく、外的要因によって。
さて、そのあと、母はグミを買ってきてくれた。僕は心にどこか隙間があるような感じがあったもののその優しさに触れるにつけ、少し安らいだ気持ちになった。そして数年後、妹にそうしたことを覚えているかと聞いたら案の定覚えていないとの答が返ってきた。”兄ちゃんが好きなものあとに残しとるけん、人に食べられるつたい。先に食べればいいのに”、というおまけつきで。断じて違う。絶対食べる方が悪いのだ。
そうだ、カム足の話であった。僕は幼少の頃のこうしたアナーキーな状態(常に相手が先制攻撃をかましてくるのではと疑心暗鬼に陥った状態。その状態の中では軍備の拡張を通じて勢力の均衡を図るというのが政治の世界の命題であった)にいたため、ふと残り少ないカム足を見たとき、人に食べられるくらいなら自分で食べてしまえとの防衛本能が働いたのではないだろうか、と思うのである。征服欲うんぬん言ってきたが結局は単純な話で、自分の身を守ろうと無意識的に行動したに過ぎないのかもしれない。でも3日間計算を立てながら食べようとすると言うことはまだ人を信じていることの証で、僕はそんな世界をアナーキーな状態とみる世界観とそんなみんな攻撃してこないよという風に見る世界観の間で行ったりきたりしている。
まずここに分けて投稿した理由を説明したい。なるほど、確かに、征服欲からカム足を全部食べるという暴挙に出た僕であるが、前回は後悔で終わった。それが一番切実に感じたことであり、これから書くことはむしろ後日談だと思っていただきたい。そう、一つの出来事に関する認識が自分の中でいくつも(実際のところ二つだが)出てきたのである。そして時間軸のずれがある以上分けて書いた方がいいのではないかと思い、分割して書くことにした。ちなみに支払いは一括のほうがいいと思われる。
前回は虚しくも、カム足が残り一本のところで終わっていた。さて、僕は自分の限界を感じつつも(要するに思春期の風の強い日、スカートがめくれることを直接的行動では実現することができず、念じるに堕するという限界を思い描いていただければ結構である)、無事最後の一本を食べ終えた(要するにしゃがむなり直接的行動に出たわけである)。そして僕は思っていた通りの、とはいかず、想像以下の達成感、征服感を味わうことになった(要するにスカートがめくれてしまったら別にたいしたことなくて別にむらむらもしなかった、見えることを期待している時分のほうがよっぽど幸福感に満ちていたということである)。ここで言い訳をしておくが僕だって高尚な例を持ち出したい。しかし僕の浅はかな経験の中ではこれくらいしか思い浮かばないのである。申し訳ない限りである。
そう、僕には確かに征服欲があった。そんなの当たり前だろ、とおっしゃられる方もいるかもしれない。しかし僕はSかMかと言われたら限りなく黒色に近いグレーなのである。この表現が使いたかっただけであるが、要するにどちらかといえばMなのである。対象物を征服しようなどという考えが浮かぶことはあっても、実行に移すほど肝が据わっているわけがないのである。おい、待てよ。それでは、Mというよりただの小心者ではないか。ややこしくなるというか傷つくのでそこは見てみぬふりをして先に進みたいと思う。そう、そして僕にも征服欲があることに僕自身ちょっと驚き、安心した。そして、思い返してみると日常的な生活の中にもそうしたものの現れがあることに気づく。ちょっとした収集癖があるのだが、それは征服欲言い換えれば所有欲からくるものであろう。そう、なんのことはないのだ。一つ驚いたことがあった。それは征服(ここではカム足の完食)が達成されたときよりも達成されようとしているその過程における幸福感の方が勝っているということだ。それでは征服欲は征服にとりかかりたい欲と言い換えることが出来てなんともやっかい極まりないものである。僕はそんなことを思いながら一縷の後悔とともにカム足を平らげた。
なぜこうしたことについてつらつらと考えたかというと、アメリカ外交の勉強をしていて、全体としてそうとは言わないが、時代の一部においてなぜあんなにも自分の正しさを信じ、他者に対して介入することができるのか不思議でならなかったからである。確かに必要性から、国益からなどあるだろう。ただその一つの要因というか遠因として、悪く言えば征服欲、自己顕示欲もしくはそれらに通ずるものからきているのだろう、と思っていた。そしてそれを自分にはないもの、あってもきわめて少ないものと思っていたのだが、いや、あるだろ!とひとり突っ込みを入れて、どういうときにそういうなんが具現化されるのか気になっていたため、このような些細な出来事を発端としていろいろ妄想を膨らませていたのである。ここでちょっと調子のり発言をすると、征服欲などそうしたものを無自覚的に実現に移すより、自覚的に認識した上で実行するならしたほうがまだいいと思う自分がいるからである、ということをもっともらしく言ってみるのである。しかしここには思いがけない落とし穴がある。自分は自覚的であるという思い込みによって無自覚的に自分の正当性を信じてしまうことである。ジレンマ。じゃあどうしたらいいねん!間違ったときは謝るしかない。
さて、いたずらに湧いて出た妄念からアメリカ外交まで飛躍したわけであるが、そこで僕はもう一つの政治的概念へと思いを飛躍させるわけである。いわゆるアナーキー(ホッブズが言うところの自然状態。無政府状態)である。それについてはまた投稿を改めることとする。
僕はSかMかと問われるとおそらくMであろうが、Sであると思うなどとよく分からない返答をする気がする。実際に問われたときにはMであると答える。言ってみると黒に近い灰色か白に近い灰色なのだと思う。そんな僕にも確かに隆々たる征服欲というか、達成欲というものがあるのだなと気づいた出来事があった。
先日”カム足”というイカのげそをを干して七味をまぶしたやつ、要するにスルメの足だけバージョン内容量180g を食べていたときの話である。これは結構量が多くて1人酒時間に換算するとおおよそ3日分の量に匹敵する食べ物である。それでお値段700円というのだから、大学生にとってはまぁまぁ手ごろなおつまみなわけである。ここでいう1人酒時間というのは日本酒を飲む1時間に消費するおつまみの量を元に1日=2時間弱としたとても曖昧な単位のことである。
話がそれてしまったが、そのカム足を食べていたときの話である。その日は1人酒時間2日目であった。宴もたけなわ、そろそろ頭の中にベッドの陰がちらつき始めた頃だった。むくむくと、残りおよそ1人酒時間一日分のカム足を食べて、この容器をからにしてしまったらなんと楽しいことかという妄念が、そう、カゼが強くスカートはためく思春期のあのときのようにただただむくむくと沸き起こってきたのである。
僕は必死に抵抗した。まだ見ぬ3日目の楽しみを想像し、噛みすぎであごが痛くなり始めている現実に苛まれ、干物ゆえの特性か胃の中で膨張し続けるカム足の逆襲におびえながら。ただただ必死に抵抗した。しかし、考えても見て欲しい。思春期のあの妄念である。人類に抵抗する術などあるわけがない。いや、しかし、ここは大学生という理性に目覚め、理性的に生きることができるほどまで成長した僕なはずだ、そのような妄念に屈してはならぬと必死に抵抗する。・・・しかし、何度も言う。あの頃の妄念だ。逡巡して五秒後、僕は無残にもその妄念の前にひざまずいた。満足げな笑みを持って。
人は時として合理的、理性的に動くことはできない。あのジョージケナンも言っているではないか。短慮と憎悪に基づく意見(感情的な意見)は、常に最も粗野な安っぽいシンボルの助けを借りることが出来るが、節度ある意見というものは、感情的なものに比べて複雑な理由にも著づいており、説明することが困難なような理由に基づいている、と。そして僕はケナンの批判するところの”安易な成果を摘み取り、その日限りの矮小な勝利を刈り取り、傍若無人な踊りをおどって”いたのである。
なるほど、僕はこれにいくらかの弁明をすることができる。1日目に目測を誤まり、ちょっと多めに食べてしまった。2日目も同様なことが生じた。残量が少ないことを僕が無意識的に認識していた。そのため、中途半端に残すより一気にいってしまおうという潔い気持ちが起こったのだということもできよう。はたまた、そもそも企業の陰謀により、内容量が減らされていて、実は2日目にほとんどかむ足を食べていないのだということも出来よう。しかし前者は、妄念を言い換えただけで本質はなんら変わっていない。後者に関しては偽装が流行のこのご時勢、一考の余地があるものの、そこは執念深い僕のことである。買う際に内容量が多そうなものを選んで買っているため偽装が生じていても無視できるものであろう。それでは前者と後者が融合している可能性はないのだろうか?
もう辞めにしよう。分かっている。僕が妄念に負けて、カム足を食べきるという行為に出たことは紛れもない事実である。主観的客観的要件をともに満たしている。そして僕は後悔していた。度を越してむくむくとお腹をの中で膨れ上がるカム足の気配と、もうかむ力の残っていないあごをルーティンワークのようにただただ動かしながら、容器の中の最後の一本を見つめながら。
サークルが終わって、みんなの前で卒業宣言みたいなものがある。卒業式の答辞みたいなものである。そういう場所で僕は今まで号泣しないことがなかった。ことあるごとに僕は号泣で締めくくってきたのである。だが、そのときの僕は全く泣けなかった。みんながなにに感動しているのかが本当に分からなかったのである。こう言うと非情な人と思われかねないので弁明しておく。僕は自慢じゃないが、2回生の終わり、自分が責任者をしていたプロジェクトの打ち上げのときどっきり色紙を渡され、公衆の面前、居酒屋の真ん中で大泣きしたのである。それについてはまた後日。僕のサークルの全部が詰まった出来事だった。
そう、話を戻すと。僕はサークルが終わる日に泣けなかったのである。なぜか?一言で言うと、自分がその年一年間頑張らなかったという一言に尽きるだろう。
結論に入る前に、それまで特に2回生のときまでの自分について振り返っておこうと思う。
僕のこのサークルでの活動は浮き沈みの激しいものであった。自分がというより、人からの評価がという意味で。僕は前回書いたように、一年生のとき、自分が尊敬する先輩に認められようと必死で頑張った。しかし、そこで僕が尊敬していた先輩というのは、どこかこのサークルに対して、否定的、よく言えば自省的な人たちであった。そのためか、このサークル最高といっている人、もしくはそれに準ずる人(僕がそういう人たちがきらいなのでこういった表現方法を取る)からは若干疎まれていた。類は友を呼ぶとはよく言ったもので、僕の周りにはそういう人たちが集まっていた。そしてそれをよく思わない人もまた多数いたのである。
そうする中で2回生のとき、活動をメンバー全員に承認してもらわないといけないのであるが、そこで僕が責任者のチームは見事つぶされたのである。今となっては納得のいく結果である。組織に対して、否定的で腐った態度をとり、活動はさせてくださいという。そんなの問屋がおろしません。そういった意味で2回生のときの僕の全体的な評価というのは一部を除き、相対的に低いものであっただろう。
そんな周りの評価を尻目に、自分のチームは驚くべき活動成果をあげる。活動の総括において、意義を唱える人は皆無だった。周りの不平を実力でねじ伏せた快感に浸れた。同時にここにこれ以上いても面白くないんだろうな。という気持ちが芽生えた。自分に反対していた人もそれなりの理由で反対していたはずである。それが成果を出した途端手のひらを返したような態度である。そこに失望を覚えた。
2回生までの自分とというのは人のことを省みず、ひたすらに突っ走ってきた。その分充実感があった。いい仲間にも恵まれた。
三回生。2回生までのときとは打って変わって。周りの評価が高かった。それと同時に僕からした周りへの評価は下がっていった。手を抜いてもすごいといわれる。一生懸命がんばってもすごいといわれる。そんな中で最初は頑張った。自分がしたいことがあり、それを実行に移そうと走り回った。ものの、そのアイデアにみんなは賛同するのであるが、そこまでの変化を望まない、そんな状況になった。僕がいた二年間でこの組織はかなりの発展を遂げたと思う。先輩をはじめ黄金期だったのだと思う。しかし、そのあとに残ったのは保守的な集団だった。二年生のときよりも責任が重いポジションについていたこと、そろそろ自分の進路を考えないといけないこととかが手伝って、僕の熱意は失われていった。それらを言い訳にしたといわれればそれまでだが、やはり、そこがそれぞれがサークル活動でやっているということの限界点なのだろうと思う。視点を変えると、そんな調子でも周りの評価はうなぎのぼりである。気持ちいいものである。今まで組織という文脈の中で肯定されることの少なかった人間の言うことをみんなが聞くのである。
僕は手を抜く術を覚えていた。そしてそこに安住していたのである。自分のしたいことより、みんなのためになることをしているんだといういいわけを使って。おかげさまで、僕を慕ってくれる後輩は増えた。サークルを終えた今でも相談をしに来る。ただ、僕が2回生のときまでに築いてきたような全力の人間関係かといわれると、やっぱりちょっと違う。自分が三回生のとき具体的に何を感じて、何が今の自分に繋がっているかといわれると、言葉に詰まる。
さて、だいぶ前に書いたことに戻るのだが、頑張るということは相対的なものではなくて、絶対的なものなんだと今更ながら痛感する。
周りからがんばっているといわれた三回生のときの僕は絶対的にがんばっていたのではない。だから、なにも残らなかった。何も残らないという事実が残った。ほんと目の前のことに全力投球だった1、2回生のときは相対的にはがんばってないという人もいたが、絶対的に頑張った。だから今の自分の根底にあるもののちょっとした土台になっている。
母親によく言われることがある。勉強ができることについてほめてくれたことがない。いつも母はそのときいつも僕に言う。
”あんたがんばってないでしょう。”
その通りである。反対にバスケットを六年間続け、部活でどべのスポーツテストの点数にも関わらず、スタメンになれたとき、そしてその試合が終わったとき、そうしたときはほめてくれた。がんばったねと。顔を見れば真剣さが分かるらしいのである。僕はそういう意味でこの一年間へらへらした顔をしていたのだろうと思う。
自戒を込めて。
頑張るということは相対的なものでなく、絶対的なものである。また、結果によって判断されるものではない。人が評価を下すものでなく、紛れもない自分自身が評価を下すものである。
誤解を招かないように言っておくと、現在進行形の事象について自分でがんばっていると言っている場合、十中八九それはがんばっていない。がんばっている最中に自分ががんばっているか否かなんて判断する余裕なんてないのである。木を見ている最中に森が見えるはずがないのである。あれ?ちょっと違うか。。。
大学の三年間の生活のほとんどを費やしてきたサークルでの活動がこの春無事終わった。どんなサークルに属していたかというと簡単に言えば、国際交流系のサークルである。世界各地にあるところが最大にして唯一の魅力だと思っている。
一年生のとき。
このサークルに入ったきっかけは今思えばなんとも奇妙な、そして当時の自分には運命的な出会いであった。新歓ムード一色にそまったキャンパスの中に、突如表れた変人三人組。この三人に圧倒されて、国際交流系のサークルに入ろうと思っていた僕は、このサークルに入ることをためらったのである。
入門編としてその三人の風貌だけをここに記す。1人は、そう鴨川ホルモーに出てきてもおかしくないよな人だった。着物姿にろんげ、うさんくさいとんがり帽。それに黄色いサングラス。キセル。統一感ゼロ。キーワードがあるとすれば、変ということだけであった。まずその人が僕の行く先をさえぎり、両端から残りの2人が僕の脇をかこった。これは渇上げというには余りに間抜けな、でもどきどきの一回生からしたら、それよりも恐ろしい瞬間であった。残りの2人はというと、全身黒ヘビメファッション、春の温かい日にひたすら熱そうなマフラーの好青年”風”の2人であった。僕はこのまま大学で変人と化してしまうのか。。。それも本望かもしれない。などと逡巡している間に、一向は地下に。。。
この大学は学食が地下にある。いかにも怪しい感じである。この大学の、よく言えばどこか厭世感溢れる、悪く言えばただ陰気臭い雰囲気は食堂が地下にあることに遠因があるのかもしれない。
人は見かけによらぬものである。話が弾む弾む。自分の外見の方がむしろあってないのではないかと不安になり、周りを見渡してちょっと安心する。あっという間に1時間が過ぎ。新歓中だからこの三人もサボるわけにもいかず、ここいらで打ち切り、電話番号を交換して別れる。
僕はというと、サークルを決めかねていた。大学に入るまではバスケに人生をかけていたといっても過言ではない。いや、過言かもしれないが、とりあえずがんばっていた。大学でもバスケを続けたい気持ちがあった。そして国際交流系というのもかねてから大学でしたいことを一つであった。ひたすらに迷っていた。バスケサークルの飲み会もめっちゃ楽しかったのである。掛け持ちすればいいじゃんという声が聞こえそうであるが、僕は不器用なのである。二つのことを同時にできない。だから大学に入るときも浪人した。というとどこからか怒号が響いてきそうであるが。
そんな悶々とした気持ちである日、京都は新京極通りを目下北上し紀伊国屋に差しかかろうとしたときである。どこかで聞き覚えのある声がというより、いでたちが、耳というより目に入ってきたのである。あの人は、なぜ、春のこの日に、雨のこの日に、アロハシャツというひとりバカンスを楽しんでいるのだろ、、、と思うのも束の間。
”飲み行こうぜ”
この一言で僕はこの人がいるサークルに入るしかないと思ったのである。2人で飲んでいるときの会話は本当にいろいろだった。一番びっくりしたのがその人の洞察力である。会話のとき人に合わせるよね?と言ってきたのである。僕の中ではそれが処世術であり、しかもかなり自然に出来ていると自負していたのであるが、完璧に見破られたのである。この人と一緒の団体にいたら楽しいこといっぱいあるかもな。そう思い、僕はこのサークルに入ることを決めた。
と、まぁ書き始めてみたものの、自分が感じたことをというより、事実の羅列になってしまった。これから感じたことを中心に書いてみようと思う。
一回生のときは尊敬できるというかすげぇなって思う先輩ばかりがいて、その人たちに認められようといろいろ活動し、発言し、生意気言って必死に過ごした。その中でもスタツアでインドに行ったことと高校で授業をしたことは忘れられない。
パソコンを整理していたら、スタツアに行ったときの感想文が出てきたのでここに載せて、一回生のとき自分がどれだけ分かりにくい文章を書いていて、で、どんなことを考えていたかを述べることの代わりとする。この感想文を読んでの感想文とか書くとまた面白いんだろうな。と思い、宿題に追加!!!
基本的にこのとき感じたことは自分の中でかなり大きな土台として今も残っている。なんたってはじめて現場に触れた瞬間だったんだもの。
《全体の感想》
僕たちは二週間インドにスタディーツアーに行った。前半の一週間はコルカタに滞在し後半の二週間はハイデラバードに滞在した。
コルカタすごい!の一言だった。この都市に交通ルールというものは存在しないのかと思うほどだった。街の人たちは規則なんてものは破るためにあるんだということを体現しているようだった。日々カーチェイスが行われ、クラクションが鳴り止むことはない、車線なんか無視で逆走のオンパレード。ワクワクしてくる。ドキドキしてくる。慣れてきてそれを普通と思うようになったことは、進歩といっていいのだろうか。
コルカタではボランティアをした。僕はボランティアが好きじゃない。している人がということではなく、自分がすることが嫌いだ。きつそうだし、面白くなさそうだと思うからだ。自分の醜い部分も見ないといけないというのも僕がボランティアから目を背ける理由の一つかもしれない。僕たちは道端で物乞いしてる人には冷たい視線を投げかけ、しかとする。でも一方で、すすんでボランティアをしている。この違いはなんなのだろう。どこで境界線が引かれたのだろう。そんなことを考えたりもした。なんか自分がなにをしているのかがよく分からなくなってしまった。
JICA訪問が一つのきっかけとなった。とてもいい話が聞けた。いい話だった。人生を語ってくれた。その後、僕はちょっと楽になった。ひとつ今のところでの答え。ボランティアってなにかして"あげてる"なんて傲慢なものじゃなくて、自分が楽しむためにやるものだってこと。そう思うと楽になった。自分が日ごろしてることって自分が楽しむためにやってるでしょう?それと同じなんだなぁって思うようになった。一週間足らずのボランティアを体験し、JICAの人の話を聞き、ボランティアが前と比べるとちょっと好きになった。でも今のところ、自分からすることはないんだろうなと思う。それは、僕がハンドボールをするよりバスケットボールをすることが好きなように、ただ単に自分の興味の問題なんだと思う。
ハイデラバード。ハイデラバードではお金持ちの人との交流が多かった気がする。インドアイセッカーはまさしく金持ちだった。他にも、日本語学校に来ている生徒や先生。この人たちは、高級そうなバーに連れて行ってくれたり、日本では高くては入れないような高級レストランに連れて行ってくれたりした。レストランでは生れてはじめて、子羊のステーキを食べた。舌の上でとろけるとはまさしくこのことだと、体中に衝撃が走った。
ハイデラバードでの豪遊を通じて、インドにそんなにいっぱい援助いらないでしょって思った。それはハイデラバードであった人が金持ちばっかりだったからかもしれない。たぶんコルカタだけだったら絶対援助必要!って思っていたと思う。でも、一方で農村部に行くとチャイルドレイバー問題がある。国家間だけではなく、国内の地域間でも広がる二極化。世界平和を謳いながら高級ホテルで立食パーティーをする人々。複雑な思いがした。
最後に、今回のスタツア全体を通じて際立ったのは自分の英語能力のなさと、話しかける勇気のなさ。びびってしまう。コミニケーションするのに必要なのは臆さない心だなぁとつくづく感じた。あともちろん語学力。あ、でも下ネタは世界の共通語だなぁと痛感しました。
なんかスタツア楽しかった。
《国際協力を絡めて》
今回のスタツアを通じて、そもそも発展途上国で困っているのは誰なんだろうって疑問に思った。僕たちが思っているほど困っているのか疑問に思った。街で見かける人は、確かに自分たちから見ると、見た目は貧相かもしれない。けどなんか楽しそうにやってるなぁと思えた。道端でカードゲームにいそしんでいるおじさんたち。電線の間を器用に凧揚げしているスラムの子供たち。統計上の数字を実感することがなかった。二週間足らずの滞在で言えることでもないと思うけれど。でも衛生状態などはよくしないといけないと思った。
後日、貿易ゲームの話を聞いてから思ったのだが、村の人がもしバナナの存在を知らなかったら、村はああだこうだ言いながら仲良く続いていたのではないかなぁ。ようするに、“近代化”を一方的に押し付けるようでは混乱させるだけだということだ。能代さんの話を聞いて思った。はい、これあげますね、ではだめで、何に困っていて、どうしたらそれが解決するか・改善されるか、その手助けっていう風にすすめていくのがいいのではないかと思った。手間かかるだろうし、メキメキとした成果がでるわけでもないから、たぶんほとんど却下される。ちゃんとした成果が計れないことの難しさもあるんだろうなと思った。何年後かに成果が出ていることを期待して、今のうちから継続的にやっていくことが簡単に出来たらどんなにいいことだろうと、無責任に思ってしまう。
国際協力とか途上国援助とか言う際、先進国側に当たる僕たちは、途上国側が自分たちに追いつくことなんて望んでいるわけでもないし、そうなっては困る。そしたらなんで援助とかをしているのか。国家レベルで考えると、政治・外交面とかから間接的に国益になるから。個人レベルで考えると、誰かが喜んでいる顔見るのって嬉しいよね、くらいの理由しか僕には見つかりません。でも、これから考えは変わるだろうけど、とりあえず今は、それでいいんじゃないかなと思う。何もしないよりは、自分が出来る範囲でなにかをしたほうがいいと思うから、理由とか意義とか(もちろん考えるべきだけど)、ぐちゃぐちゃ考えすぎる前にやってみたらいいのではないかと思った。
スタツアに行って混乱が深まるばかりだった。先に言ったように、手段についてもそうだし、意義についてもそうだ。また、国内の二極化とかを感じるに当たって、なんで自分は海外にばっかり目を向けているのだろう、海外に行くことでしかこういう経験が出来なかったのだろうか、と疑問に思うようになった。確かにスタツアを通じてしか得られない経験はたくさんあったと思う。しかし、日本に目を向けることで考えるきっかけになるようなことはたくさんあると思う。僕は海外という、自分より、日本よりはるかに大きい漠然とした存在に目を向けることで、自分の眼前にある身近な問題から目を背けていたのではないかと思う。これもスタツアの経験によるものだといえばそれまでであるが。