大江健三郎の短編である。主人公はベトナムには行かない。圧倒的な現実の前にしり込みしてしまう。
“Look if you like, but you will have to leap”
見るまえに跳べ。
大学生である僕はどこに跳ぶのだろう。
最近名言めいたものに影響を受けやすくなってきている。というか名言めいたものを自分が求めている気さえする。名言はわかりやすい。はっきりしめしてくれる。明確さを求める今の自分の状況はあまり好ましいものではない。物事はそんなに単純ではない。にも関わらず単純さを求める。危険である。何かを意識的か無意識的にか見ないようにしている。何から目を逸らそうとしているのか、何を隠したくてそうしているのか。ぼくには分からない。多分わかっているけど今は見たくない。
僕はこの小説を読みながらそんな気持ちになった。あんまり本編とは関係ないが。
僕は見るまえに跳べるのだろうか。見て尚、跳びたい。
“Look if you like, but you will have to leap”
見るまえに跳べ。
大学生である僕はどこに跳ぶのだろう。
最近名言めいたものに影響を受けやすくなってきている。というか名言めいたものを自分が求めている気さえする。名言はわかりやすい。はっきりしめしてくれる。明確さを求める今の自分の状況はあまり好ましいものではない。物事はそんなに単純ではない。にも関わらず単純さを求める。危険である。何かを意識的か無意識的にか見ないようにしている。何から目を逸らそうとしているのか、何を隠したくてそうしているのか。ぼくには分からない。多分わかっているけど今は見たくない。
僕はこの小説を読みながらそんな気持ちになった。あんまり本編とは関係ないが。
僕は見るまえに跳べるのだろうか。見て尚、跳びたい。
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y=x/a(a>1であることが多い)
この馴染み深い方程式は反比例を示すものである。そしてこれをグラフ化すると漸近線を描く。Xが小さければ小さいほどYの値は大きくなり、大きければ大きいほどYの値は小さくなる。そして、このグラフ線はX軸ともY軸とも交わらない。故に漸近線と呼ばれる。
だからなんだ。と言われるかもしれない。縦軸に人との距離感を横軸に親密さと言い換えてもいいかもしれないが、過ごしてきた時間の長さ、をとる。そうするとこの漸近線は僕の思いを描き出す。
出会ってばかりのときはすぐに距離が縮まっていく。一気にあっという間に。そして時が経てば経つほどその距離感は縮まっていく。X=1から点を打って2、3、4、、、と続けていく。縮まる距離感を実感する。そしてグラフ線を描く。そして気付く。交わることがないであろうことに。そしてその後の距離感はそこまで縮まらないであろうことに。距離感は縮まるが、その交わることの不可能性故にその距離感は切実さを増す。最初のころより距離感は切実に深い深い溝として自分の目の前に出現する。近くなってしまったが故にその絶対的、絶望的違いというものが実感されるのである。
こう言うことができるかもしれない。近づけば近づくほど遠くなる。近づけば近づくほどその違いの絶対的存在が際立つ。そしてこの交わらないということ、この絶対的違いがその後、アレルギー反応として、時としてx軸の反転をもたらす。自然数的に増えていたxが数直線の上で突然減少に転ずる。実際の距離感もまた遠ざかっていく。人の心の中にはこのような現象が起こりうるのである。ただ、僕はどこまで行っても自然数的に増えていくx軸を持っていたいと思う。しかしそれはいつも叶う願いではない。しんどいきもあれば楽しいときもある。なんとも心憎い漸近線である。お前次第だといわれている気がして腹が立つ。
この馴染み深い方程式は反比例を示すものである。そしてこれをグラフ化すると漸近線を描く。Xが小さければ小さいほどYの値は大きくなり、大きければ大きいほどYの値は小さくなる。そして、このグラフ線はX軸ともY軸とも交わらない。故に漸近線と呼ばれる。
だからなんだ。と言われるかもしれない。縦軸に人との距離感を横軸に親密さと言い換えてもいいかもしれないが、過ごしてきた時間の長さ、をとる。そうするとこの漸近線は僕の思いを描き出す。
出会ってばかりのときはすぐに距離が縮まっていく。一気にあっという間に。そして時が経てば経つほどその距離感は縮まっていく。X=1から点を打って2、3、4、、、と続けていく。縮まる距離感を実感する。そしてグラフ線を描く。そして気付く。交わることがないであろうことに。そしてその後の距離感はそこまで縮まらないであろうことに。距離感は縮まるが、その交わることの不可能性故にその距離感は切実さを増す。最初のころより距離感は切実に深い深い溝として自分の目の前に出現する。近くなってしまったが故にその絶対的、絶望的違いというものが実感されるのである。
こう言うことができるかもしれない。近づけば近づくほど遠くなる。近づけば近づくほどその違いの絶対的存在が際立つ。そしてこの交わらないということ、この絶対的違いがその後、アレルギー反応として、時としてx軸の反転をもたらす。自然数的に増えていたxが数直線の上で突然減少に転ずる。実際の距離感もまた遠ざかっていく。人の心の中にはこのような現象が起こりうるのである。ただ、僕はどこまで行っても自然数的に増えていくx軸を持っていたいと思う。しかしそれはいつも叶う願いではない。しんどいきもあれば楽しいときもある。なんとも心憎い漸近線である。お前次第だといわれている気がして腹が立つ。
現代における戦争とは、理性に狂った人間が起こす蛮行である。狂気からはいつか醒めるがわれわれは理性のベッドの中で死んでいる。
狂気から醒めるのが理性をもってだとすれば、理性から目を覚ますにはなにをもってか。
狂気から醒めるのが理性をもってだとすれば、理性から目を覚ますにはなにをもってか。
死とは絶望なのか。
そんな言葉が頭にふと現れることがある。近しい人物との別れ際に死なないでねと言われた。死相でも見えていたのだろうか。僕はおそらく自分で自分の命を断つことはできない。自分の持つ繋がりの管をはさみで断ってしまうほどの勇気がない。その瞬間に訪れるであろう苦痛を想像して、おいしいお酒の味を想像して。人は時間的未来に起こると仮定できること(まったく妄想に近いもの)にすがって生きている。終わりが来たら楽になるからあと一踏ん張り。いつまで続くか分からないからこの幸福を享受する。
もしいつ終わるとも分からない苦痛が終わることなくいつまでも続くとしたらぞっとする。もしいつ終わるとも分からない”幸福”が果てることなく続くと思うとその場で踊り狂って自分の終わりへとステップを踏むだろう。軽快に。苦痛の永続が”幸福”の連続よりも幸福であるのは、たとえそれがいくら深く長くても、その先に”幸福”という苦痛の終わりを想像することができるからである。”幸福”の連続の中で人はどうやって生きていくのだろう。想像がつかない。思ったとおりになれて、好きなことができる。幸福なときに使うエネルギーは苦痛のときに使うそれよりもはるかに莫大なものだろう。苦痛には耐えられる。幸福は享受しなければならない。終わりのない積極性は限りない消極性を招くこととなる。
死とは絶望なのか。人が生まれて死ぬまでが苦痛であるのであれば死とは希望になる。それがもし幸福の連続でもそれは希望になるのでないのか?なにか静的な状態が続くことが不幸であるとするなら、幸福な状態とは動的な状態となる。ということは死は絶望であるのかという問に答えるためにはまず幸福であったり希望であったりがどういったものかを考える必要がでてくるのではないか。これは非常にめんどくさい。また日を改めることとする。ただこれだけは言える気がする。死はその絶対的絶望性によって逆説的に生きることに希望を投げかける。そういう意味では希望の源泉である。とするならば終わりのない苦痛を感じる今にその絶対的絶望性に希望を見出しそこに飛び込んでいくことはある意味で苦痛の終わりを意味するものであり、それはそれで説得力のあることなのかもしれない。
さて、終わりということを死と連動させて考えるとどうしても考えが入り組んだものになってしまう。自分が言いたいことを言うためにもう少し具体的で身近な問に換えてみようと思う(別に死が身近ではないということが言いたいわけではない)。
人が頑張れるのは終わりがあるからである。
この命題は真か偽か。真である。もう少し分かりやすく言うと、人が何かに対して打ち込めるのはその何かが永遠的なものではありえなくて(たとえそれが宇宙のなぞを解き明かすということであっても人間の有限性により、その問題は有限的にならざるを得ない)、限定的で有限的なものであるからである。ということは概ね妥当であると言えそうだということである。とても曖昧な表現になってしまった。というのも書いているうちにそもそも有限存在である人間が無限を想像したところでそれが可能なのかという疑問が湧いてきたし、真であるからどうなのだということを考え出すとややこしいし、こうした表現を使うことで言葉が獲得する厳密性があまりにも厳密度を欠いており、あまり意味がないと思ったからである。自分の不肖のためである。
こういうとき具体例を出してお茶を濁そうと思う。スポーツをしていたらそのトレーニングのうちのひとつとして触れることがあるかもしれないが、終わりを走者に知らせずに延々と(少なくとも走者にとっては半永久。終わりがないのだから)走らせるというものである。こうすることで走力と同時に精神力が鍛えられるらしいのだ。
ここではとりあえずの結論として、人が頑張れるのは終わりがあるからであるということを真であるという前提の下話を進めたい。今までは人は一般に1人の人間として幸福や苦痛とどう向き合っているかということについて考えてきたのだが、同上人物か複数人になると話は複雑になる。ある一つのことを共同して行なっている関係性にいる二人を考える。その対象を片方が半永久的なものと考え、片方が限定的なものとして考えている場合、この2人の間に悲劇は起こる。一方にとってはその行なう対象は“耐えるべき(受動的傾向で臨む)もの”であるのに対して、もう一方にとってそれは“頑張って達成する(能動的傾向で臨む)もの”となりその関わり方において齟齬が生じるのである。ここで行うという能動的行為に対して受動的態度であることがありえるのかという矛盾が生じているように思うが頭が正常に働いていなくて眠くなってきたので結論を急ぎたい。ここでの2人が取り組む共同事務であったり、この2人の関係性がある程度公共性を備えたものであるのであれば、これは望ましい齟齬であり、摩擦・切磋琢磨の可能性を秘めているのであろうが、それが私的なものになると、ここで生じた齟齬と言うのは双方にとって必ずしも好ましいものではなくてむしろその2人の共同事業を頓挫させるものであるように思うのである。互いに互いが注ぐエネルギーに不満を覚え、均衡点が見出せる(妥協ができるレベル)の問題では終わらないのである。そしてその関係性は不可避的に終幕という希望であり絶望に向かうこととなるのである。
しまった、最後のほうはぐだぐだになってしまった。前半部分が言いたいことであり、後半部分は愚痴であり、こじつけであり屁理屈である。
そんな言葉が頭にふと現れることがある。近しい人物との別れ際に死なないでねと言われた。死相でも見えていたのだろうか。僕はおそらく自分で自分の命を断つことはできない。自分の持つ繋がりの管をはさみで断ってしまうほどの勇気がない。その瞬間に訪れるであろう苦痛を想像して、おいしいお酒の味を想像して。人は時間的未来に起こると仮定できること(まったく妄想に近いもの)にすがって生きている。終わりが来たら楽になるからあと一踏ん張り。いつまで続くか分からないからこの幸福を享受する。
もしいつ終わるとも分からない苦痛が終わることなくいつまでも続くとしたらぞっとする。もしいつ終わるとも分からない”幸福”が果てることなく続くと思うとその場で踊り狂って自分の終わりへとステップを踏むだろう。軽快に。苦痛の永続が”幸福”の連続よりも幸福であるのは、たとえそれがいくら深く長くても、その先に”幸福”という苦痛の終わりを想像することができるからである。”幸福”の連続の中で人はどうやって生きていくのだろう。想像がつかない。思ったとおりになれて、好きなことができる。幸福なときに使うエネルギーは苦痛のときに使うそれよりもはるかに莫大なものだろう。苦痛には耐えられる。幸福は享受しなければならない。終わりのない積極性は限りない消極性を招くこととなる。
死とは絶望なのか。人が生まれて死ぬまでが苦痛であるのであれば死とは希望になる。それがもし幸福の連続でもそれは希望になるのでないのか?なにか静的な状態が続くことが不幸であるとするなら、幸福な状態とは動的な状態となる。ということは死は絶望であるのかという問に答えるためにはまず幸福であったり希望であったりがどういったものかを考える必要がでてくるのではないか。これは非常にめんどくさい。また日を改めることとする。ただこれだけは言える気がする。死はその絶対的絶望性によって逆説的に生きることに希望を投げかける。そういう意味では希望の源泉である。とするならば終わりのない苦痛を感じる今にその絶対的絶望性に希望を見出しそこに飛び込んでいくことはある意味で苦痛の終わりを意味するものであり、それはそれで説得力のあることなのかもしれない。
さて、終わりということを死と連動させて考えるとどうしても考えが入り組んだものになってしまう。自分が言いたいことを言うためにもう少し具体的で身近な問に換えてみようと思う(別に死が身近ではないということが言いたいわけではない)。
人が頑張れるのは終わりがあるからである。
この命題は真か偽か。真である。もう少し分かりやすく言うと、人が何かに対して打ち込めるのはその何かが永遠的なものではありえなくて(たとえそれが宇宙のなぞを解き明かすということであっても人間の有限性により、その問題は有限的にならざるを得ない)、限定的で有限的なものであるからである。ということは概ね妥当であると言えそうだということである。とても曖昧な表現になってしまった。というのも書いているうちにそもそも有限存在である人間が無限を想像したところでそれが可能なのかという疑問が湧いてきたし、真であるからどうなのだということを考え出すとややこしいし、こうした表現を使うことで言葉が獲得する厳密性があまりにも厳密度を欠いており、あまり意味がないと思ったからである。自分の不肖のためである。
こういうとき具体例を出してお茶を濁そうと思う。スポーツをしていたらそのトレーニングのうちのひとつとして触れることがあるかもしれないが、終わりを走者に知らせずに延々と(少なくとも走者にとっては半永久。終わりがないのだから)走らせるというものである。こうすることで走力と同時に精神力が鍛えられるらしいのだ。
ここではとりあえずの結論として、人が頑張れるのは終わりがあるからであるということを真であるという前提の下話を進めたい。今までは人は一般に1人の人間として幸福や苦痛とどう向き合っているかということについて考えてきたのだが、同上人物か複数人になると話は複雑になる。ある一つのことを共同して行なっている関係性にいる二人を考える。その対象を片方が半永久的なものと考え、片方が限定的なものとして考えている場合、この2人の間に悲劇は起こる。一方にとってはその行なう対象は“耐えるべき(受動的傾向で臨む)もの”であるのに対して、もう一方にとってそれは“頑張って達成する(能動的傾向で臨む)もの”となりその関わり方において齟齬が生じるのである。ここで行うという能動的行為に対して受動的態度であることがありえるのかという矛盾が生じているように思うが頭が正常に働いていなくて眠くなってきたので結論を急ぎたい。ここでの2人が取り組む共同事務であったり、この2人の関係性がある程度公共性を備えたものであるのであれば、これは望ましい齟齬であり、摩擦・切磋琢磨の可能性を秘めているのであろうが、それが私的なものになると、ここで生じた齟齬と言うのは双方にとって必ずしも好ましいものではなくてむしろその2人の共同事業を頓挫させるものであるように思うのである。互いに互いが注ぐエネルギーに不満を覚え、均衡点が見出せる(妥協ができるレベル)の問題では終わらないのである。そしてその関係性は不可避的に終幕という希望であり絶望に向かうこととなるのである。
しまった、最後のほうはぐだぐだになってしまった。前半部分が言いたいことであり、後半部分は愚痴であり、こじつけであり屁理屈である。
今日は土用の丑の日だった。友達の前で今日って土用の節句だよねと聞いてしまった。なんだかな。
そんな曖昧な感じだったのだがついついうなぎを買って食べた。今日の献立の予定は炊き込みご飯だったのであるが、昨日か一昨日か忘れたが買っておいたシメジがこの夏の熱さによって蒸されていたというか生煮えになっていたので予定変更した。ちょうど見ていたニュースでうなぎ偽装関連の報道があっていたのでそれにまんまとつられて近くのスーパーまでうなぎを買いに行った。例年よりうなぎは高かった。千五百円である。そしてうなぎの大きさによって百円前後の価格の開きがある。僕はそこでぷちりっちをした。千六百円のちょっと大き目のうなぎを買った。こういうときの百円と言うのは多分だがかなりの値打ちがあるように思う。その値段の割りに気分をセレブにしてくれる。僕はそんなりっちまんの気分の中帰宅した。
話は変わるが、ドアというのはなんとも不思議な板である。その板一枚隔てた空間に移るだけで気分は一転する。たった数センチしか空間的には移動していないのに、である。とても不思議な板である。人はそこでオンオフを切り替え、内弁慶になり、シリにしかれる。たった一枚の板の向こう側で。ただの板という、シンプルこの上ないドラえもんのどこでもドアはこうした不思議さを昇華させたものなのかもしれないなぁと思った。要するにうなぎを買ったときのセレブ気分はドアを開けたら霧散して、千五百円もの出費にかろうじて耐えた財布がそこにもさっとあるだけだったのである。食べるときはきちんと半分にして、ご飯一合にうなぎ半分。2日はもつ計算である。
そんな曖昧な感じだったのだがついついうなぎを買って食べた。今日の献立の予定は炊き込みご飯だったのであるが、昨日か一昨日か忘れたが買っておいたシメジがこの夏の熱さによって蒸されていたというか生煮えになっていたので予定変更した。ちょうど見ていたニュースでうなぎ偽装関連の報道があっていたのでそれにまんまとつられて近くのスーパーまでうなぎを買いに行った。例年よりうなぎは高かった。千五百円である。そしてうなぎの大きさによって百円前後の価格の開きがある。僕はそこでぷちりっちをした。千六百円のちょっと大き目のうなぎを買った。こういうときの百円と言うのは多分だがかなりの値打ちがあるように思う。その値段の割りに気分をセレブにしてくれる。僕はそんなりっちまんの気分の中帰宅した。
話は変わるが、ドアというのはなんとも不思議な板である。その板一枚隔てた空間に移るだけで気分は一転する。たった数センチしか空間的には移動していないのに、である。とても不思議な板である。人はそこでオンオフを切り替え、内弁慶になり、シリにしかれる。たった一枚の板の向こう側で。ただの板という、シンプルこの上ないドラえもんのどこでもドアはこうした不思議さを昇華させたものなのかもしれないなぁと思った。要するにうなぎを買ったときのセレブ気分はドアを開けたら霧散して、千五百円もの出費にかろうじて耐えた財布がそこにもさっとあるだけだったのである。食べるときはきちんと半分にして、ご飯一合にうなぎ半分。2日はもつ計算である。