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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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 邂逅というまで大げさなものではないが、今日、ルネ(生協の本屋)でじゅんに会った。今日は卒業該当者を見て、奨学金の手続きをして、気分転換に社会契約論を買いに行ったのであった。無事九月をもって大学を卒業する。

 じゅんとは学校ではあまりあわないが、よくよく思い返してみると、るねでよくあっていることに気がついた。なぜか知らないがたぶん二人ともがかなりの頻度で気分転換にるねにくるのだろう。そこには大学の本屋らしく、さまざまな学術書がおいてあり、よく言えばアカデミックな気分に悪く言えば厭世的な気分に浸れる。そしてついつい長居してしまうのである。なんだかんだで小一時間立ち話。近況報告やら、最近読んだ本やら。驚くほど読書遍歴がかぶっているので面白い。平野啓一郎を全部読んだらしい。インシが終わったら早速葬送に取り掛かろうと思う。

今日買おうと思って思いとどまった本、ヘブン 
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 人はいつから大人になるのだろうか?

 おそらく永遠のテーマだ。
 20歳になったら。18歳になったら。家庭を持つようになったら。云々。
 そもそも大人なんてのはいなくて大きくなった子供がうじゃうじゃしているだけだ。云々。
 遠い目をしてため息をつくようになったら。二日酔いのつらさを乗り越えられたら。云々。
 詩人的に、あきらめるということを美化するための方便だ。云々。
 問い自体が不適切で、起点があるような概念ではない。気づいたらなってるものだ。昨日が今日になるよう  に。昼が夜になるように。

 そんなことを考えていたら、蚊に刺されたとき自由に掻けるようになったらなのではないかと思うことがある。幼いころは掻いちゃだめでしょと言われていた。そしたら掻きたくもないのに無性に掻きたくなり、それを隠れて掻いて、悪いことをしていることへの一種の憧憬が満たされるのを感じていた。別に掻くこと自体が至上の快感を与えてくれるわけではないのに。にじみ出てくる血のようにじんわりと満足感を僕に与えていた。そして白いtシャツについた、布団のカバーについた血の痕を見て、そのじんわりとした満足感が押し花のように作られたものに成り下がるような寂寥に襲われるのであった。大人になったら、誰の目も気にせず、布団のカバーについた後を怒られることもなく、文字通り縦横無尽に掻きまくれる。掻き放題である。全身血だらけである。そしてその後に来るのはむなしさ。寂寥は埋めることができるがむなしさはむなしいだけである。
 あのころの満足感はない。脊髄反射的な快感がそこにあるだけである。
 
 大人になるということは、喜びや苦しみの純度を増すということであり、それは喜びの価値を逆説的に損なう。なんだかわからないが、とか、いろんな要素が絡み合ってなんとなく、とかのほうがなんだかたのしいのである。別に痒いからという理由だけで掻いたわけでもないし、隠れてこそこそしたかったからだけでもない。掻けといわれても掻いただろうし、痒くなくても掻いていたかもしれない。山田詠美が学問の中で言いたかったことはこんなことなのではないかなとふと思う。

 とりあえず、流行語大賞は政権交代で決まりだろう。そしてその流行語大賞という賞が持つ安易でつかみ所がなく、でも漠然と大きい、そして一過性のそんな響きを伴って、政権交代が行われた。

 ヒトラーというのは学問でも社会からでも広く、“悪”をなした人であるという例外的に強い共通認識の下に捉えられている。なぜその例外的に強い共通認識が生まれたのか。それは私家版ユダヤ文化論で内田たつるが言うようなメカニズムが働いているような気がする。その共通認識の根底にあるのは、ヒトラーの悪性ではなく、人間存在の悪性を見事に暴く結果になったヒトラーを含め一連の動きに対する、一種のアレルギー反応といってもいいだろう。ヒトラーそのものというよりは、ヒトラーという抽象的に作り出された観念にいろんな意味が込められたというべきである。そして、人々は腫れ物をさわる思いでそれを遠巻きに見ているだけである。ヒトラー以前の進化論的資本主義・民主主義万能論や、法実証主義、など、そうした人間の盲目と弊害の鮮やかな発現が重なり、ことは悲惨になってしまった。その反動でその悪を独りもしくは一国の責任としていわば社会のエラーとして葬り去り、忘れてしまう、なかったことにする。抽象化、対象化し、自分とは違いものとして対置し、安心を得るのである。大戦を機に、自由民主主義は修正を迫られ、その正統性においても冷戦初期には社会主義に駆逐されんばかりの衰退を見せたのである。そして社会主義というユートピアはヒトラーが明るみにした人間の悪性(便宜的に用いる。意味合いとしては、ヒトラーになぞらえて悪とされたものの、それと根を同じくする人間の本性的な性質のことを言っているのであり、記述的な意味で用いている。)を乗り越えられず、その後、その悪性を良くも悪くも、利益と個人と合理性というレトリックで彩った民主主義が、痛みを忘れたころに再興したのである。ヒトラーの存在は後世の人間からするときわめて興味深い事例となる。オルテガイガセットは大衆の反逆(これは第一次世界大戦付近にすでに出ていた)の中で、フロムは自由からの逃走といういわば逆説的な名の著書で非常に示唆に富む指摘をしている。ヒトラーの存在が衝撃的であったのではなく、それを自らが設計した制度の中で、進んでむしろ期待を込めて選択した人々がかなりの規模存在したということがなんともおおきなインパクトを残したのである。
 一方で、輝かしいとされている英雄もいる。ナポレオンなんかは内実はともかく好ましく語られるし、そもそも秩序を最初に構築するときにある種の暴力が非合法的に行われることは少なくないのである。

 さて、前置きが長くなったが、よく、”英雄がいない時代は不幸である。しかし、英雄を求める時代はもっと不幸だ”などといわれる。それでは英雄を求めて英雄を得れない時代というのは絶望というべきなのだろうか。個人的にはヒトラーがこの国にたまたまいなかったことがせめてもの救いであるように思われる。マスコミの誇張によると歴史的大勝ということだが、郵政から始まり、こんな短期間に歴史的大勝が二度もあるなど、人類史的奇跡とでも呼べばいいのだろうか。マスコミと大衆の責任者なき共犯が繰り返されているだけである。そしてそれは歴史的大事件でなどなく、日常的平凡な出来事である。半世紀前とはその危険性も規模も違うものの、似たような動きがあった。人々は構造改革へとなだれて自ら手にした自由をもてあまし、そこから逃れた。そして、人々を逆へと振る指揮者がいなかった。これは不運というべきだろうか。なんともアイロニカルである。現在進行形の出来事を過去との類推のなかで同一視して語るのは時に危険であるといわれるが、今回の場合は、差異性や絶対性よりもその共通性や相対性に少し目を向けてもいいのではないだろうか。

最近読んだ本。かなえられない恋。
山本文緒のエッセイ。結局ブツヨクザウルスはミエハリドンの子供なのかもしれない。
 ドーン、平野啓一郎

 大学院試験が一ヵ月後に迫り、小説など読んでいる場合ではないのに、つい買ってしまった。いや、迷っていたのだが、ドーンの参考文献のところをちら見したら、そこに最上敏樹著の「人道的介入~正義の武力行使はあるのか」と「国連とアメリカ」という本が挙げられていたので、インシに無関係でもなかろうもん、という人道的介入で陥りがちな、こじつけを行い、要するに、誘惑に負けて買って読んだ。ちょうど人道的介入とか考えている年頃なので内容はあぁ、この本のここをそのまんまひっぱてきてるなとか思うところもあった。でも読み応えがあり、充実した時間をすごした。

 主題はおそらく分人主義と人道的介入である。大雑把に言ってしまえばぶんじん主義に全部微分できるかもしれない。もっと一般的に言えば多様性と単純さへの傾向性についていろんな角度からその功罪を、その両者の難しさを描いているといえると思う。ぶんじん主義について専門的な知識を持っているわけではないが、ぶんじん主義というのはいろんな人に見せる自分というものをぶんじんとして定義したものである。そうしたそれぞれの場面での私いわゆるぶんじんに“ぶんじん”という名前を与えることについて、魅力と危険性を感じた。それは現実に即した概念化であるが概念先行型になるとアイデンティティの崩壊をもたらす気がする。ただ、こうして名前を与えることで、安心する人も多数いるだろう。フーコーは何かを概念化する、要するになにものかに言葉を与えることを知ー権力と呼んだが、八方美人で二枚舌な一個としての自分に悩む人にぶんじんという概念を与えることで少なくともその悩みからは開放される。しかしそうしたぶんじんを認めると、その違いが際立ち、あたかも自分が分裂したかのように思い、自分の全存在を受け止めてくれる存在を求める傾向が現れる可能性もある。ぶんじん主義というのはそうした自我の分裂と崩壊、溶解を論じるうえでとても有意義な概念付けだとは思う。ただ、その響きからは直感としてやはり、どこか不安を拭い去れない。そんな中で、ドーンはこうした概念を中心に取り上げ、理想論でもなく、シニカルにもならず、ほんと地に足着いた安心を与えてくれた。

最近読んだ本:山本文緒、アカペラ。
お前はスナフキンだよ。
お前の優柔不断はやさしさじゃなくて傲慢だよ。なんでもかなえられるとか思うな。
この二言に僕は鳥肌がたった。
僕はゲイである。そんな告白をしようとしているのではない。男子短距離の選手、タイソンゲイについてである。

彼はどんな心持なのだろうか。ボルトという怪物がいるために、おそらくはずっとNO2であり続けるだろうことに彼は何を思うのだろう。彼はボルトが世界新を出した後の会見で正真正銘ボルトがNO1だということをすがすがしい面持ちで話していた。おそらくそれは本心からくる言葉であろう。その差は0,1秒強。それがどれだけの差であるか本人が一番よくわかっているのであろう。ゲイの決勝での記録も恐るべきものである。ボルトさえいなかったらそんな思いが一度として思い浮かばなかったかといえばうそになる、ただ、アスリートとして脱帽するしかないというのが記者会見での気持ちなのではないだろうか。多分、おだゆうじよりも、一視聴者よりも二歩先を駆け抜けるボルトを追いかけていたゲイがそのすごさを痛感しているであろう。記録とかそういった次元ではなく純粋な走るという行為の姿を。僕自身は50Mが七秒中盤の人間であるのでもはや世界新だと言われてもそのすごさはわからない。いつもバスケットコートで追いつけなかったあのキャプテンの速さのほうが僕にはすごいと感じる。間近で、しかも頂点でそのすごさを見せ付けられたゲイ。彼はいったい何を思うのか。自分のふがいなさか、決して届かぬ頂への憧憬か、純粋なる喜びか。僕は純粋なる喜びをどこかで湛えてほしいと思う。これはあまりにも他人事の絵空事かもしれないが。

ボルトは何を思うのだろうか。誰もがボルトが優勝することを疑わず、記録のみを期待していたといっても過言ではないだろう。独り頂に立つボルトは平然としている。平然とすることの難しさを誰も省みることはないのが残念である。ボルトは記録を出したことがすごいのだろうか。多分違うと思う。常に万全の状態でレースに臨めているというのがすごいのである。日本の選手はほとんどがPBはおろかSBすらだせていない。極度のプレッシャーの中で怪我をせず、自分をマネジメントし、結果につなげる。ほんとはその部分が一番すごいところではないのだろうか。僕にはあの世界記録と言われるもののすごさは実感できない。ただ、こうした舞台で常にあっけらかんと走りぬけることができる、そのすごさはわかる。

と、まぁよくわからない陸上界のことについて書いてきたわけであるが、まぁ結局はゲイの憂鬱もボルトの苦しみもよくわからないということである。
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1986/01/22
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自己紹介:
大学院で平和構築を勉強中。
スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
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