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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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 ここで大学院の志望動機の下書きをしてみたい。

 大学学部生のころは、主に実際に海外に行ってNGOがどのような活動をしているのか、JICAはどのように機能しているのかなどを訪問によって見るということに重きを置いていた。フィールドワークによる簡単な分析を行っていた。そして、それと平行して、国際協力の規範的な視点(国際協力のあるべき姿や、各プロジェクトのあるべき姿)からの考察が中心だった。しかし、勉強を進めるにつれ、国際協力の背後にある国や各国関係の及ぼす影響の大きさなどを知るにつけ、国際協力を単独で論じることの困難さを痛感する。現実と規範の間にあるギャップの大きさを見、この現実と規範をどうにか架橋できないか(架橋することにそもそも意義があるのかという議論は置いておいて)という考えを持つにいたった。そして、その架橋を目指すために人権や人道的介入、国際協力と武力の関係などに興味の重心が移動した。
 こうした背景を元に、大学院では初期に規範理論や政治哲学の学習を更に深めると同時に、マクロな視点で、国際法や国際関係論、NPO論などを学習したい。そして中盤から後半にかけて、ミクロな視点で組織間関係の学習やケーススタディーなどを通じて専門的な分析や考察を行いたいと思う。もちろんこれらは完全に独立して存在するものではないので、時期に囚われることなく柔軟に学習していきたい。
 私は、大学に回生の時にバングラディッシュを訪問した。その際、ノーベル平和賞を受賞したことで有名なグラミン銀行が始めたマイクロクレジットは画期的で瞬く間にバングラ全体に広がったのであるが、他団体の大規模な事業参入や高返済率地域への融資偏在などによって新たな格差や貧困層を生み出すといった現象を招いたということを知った。この事例からわかるのは、一つの団体が画期的な活動を行なったとしても、それをとりまく諸団体との関係性によっては効果が失われるひいては弊害をも招く可能性もあるということである。私はこのような事態になってしまった理由やこれに対する的確な解決策を現在、明確に提示することができない。多元的な現実の中でどういった策を構築することができるのかを大学院で学ぶことができればいいと思う。

 以上。京都大学に提出します。
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 三浦しをんの著である。まほろ駅前多田便利店以前のこの人の作品をはじめて読んだのだが、こっちのほうが好みだった。というか今の気分にあっていた。そこには諦念があり、過度のかっこよさがない。雑草魂とかの美談ではなく、ただ存在することの泥の美しさがある。愛におぼれ、踊らされ、またあきらめしていく中で、どこか“あること”と“思うこと”の隔絶を描いている。一人のキーパーソンを中心に描かれる人間模様がときにはあることの矮小さを思うことのむなしさを。はたまたその逆をというふうに。われ思うゆえにわれありと言ったのはデカルトであるが、そんなに単純ではない。だから彼は近代科学の偉大な創始者にはなりえても偉大な思想家にはなりえなかったのである。ただ、デカルトは言うであろう。思想などとは私の懐疑からすれば不確かなものに過ぎないのだと。でも、その不確かなものに人々は心を病み、歓喜し、振り回されている。あることとと思うことの隔絶の間に必死にぶら下がって腕がもげそうになっているのである。

 今日、朝、二度寝をしてへんな夢を見た。中学校の授業中、僕は先生を貶める。徹底的に。しかし自分がそこで使う言葉や文法、その主張の一つ一つは僕が言葉を発するたびにどこか意味を失っていく。クラスのみんなが僕に次の言葉のアドバイスを求める。それを口にするたびに意味はなくなっていく。そんな感覚におぞましくなって目を覚ました。それと同時に“剥離”という言葉のなんともいえない甘美に浸っていく自分を確認した。あぁ、自由という言葉、正義という言葉正しいという言葉、責任という言葉。どんどんその意味が剥離してくと。言葉から意味が剥離していく様を感じて恍惚が僕を襲った。剥離という言葉はなんて心地いい言葉なのだろうと思っていた。

 一種の虚脱感にさいなまれ、気分は晴れずバイト先に向かい勉強をしようとしたのだが身が入らずこの本を古本屋で手に取った。こんな一説がある。

 雨の上がった日曜日、かわりに桜の花びらが、何かの重みに耐えかねたかのように一枚一枚剥離しはじめた。風に乗った途端に花びらは重さを忘れ、痙攣にも似た震える軌跡を描きながら地面を目指す。

 
僕はこの一説の衝撃に胸を打たれる。今日この本を手にとってよかった。
 自分が今の生活を選んで早、四ヶ月が過ぎた。そしてこれから一ヶ月はおそらく院試の準備に追われるだろう。そうすると、レールに復帰するまであと半年なにをするのだろうかということについてここで少し記録しておこうと思う。

 まずイスラム圏に行くことである。これには結構深い因縁がある。ということに最近気づいた。というのも、国際政治という学問に失望を覚えたのがイスラムに関係する一文に関する日本で言うところの高学歴のその中でも上澄みに属する人たちのなんとも独善的な反応だったからである。その一文は人権というのは普遍的であり、文化相対主義的な見地からもその普遍性は認められている。すなわちイスラム圏においても人権は普遍的なものとして受容されうる。と。僕はこのロジックが理解できなかった。文化相対主義というのがキリスト世界の崩壊による価値の空中崩壊からきたものであり、それがニヒリスティックに世の中を嘆くのはまだ理解できる。しかし、価値を否定した価値相対主義がいつのまにか人権という価値を標榜して自分が相対主義だよという絶対的なイデオロギーを掲げることにより、こんな傲慢な主張をするのである。そこで僕はなぜ文化相対主義という価値の普遍性を否定する論から人権は普遍的だという結論が出てくるのかという質問を発表者に投げかけた。この質問に返ってきた答えがそれが人権だからというものだ。いや、ちょっと待てよ。人権疑おうよってのがそもそも価値相対主義の姿勢じゃないのかい。。。っていう悲しい感覚に囚われた。いまでは人権の普遍性についてある程度の擁護もわかるし、もっとイグナティエフが言うようなプラグマティックな側面からの擁護などができるであろうこともわかる。ただ人権だからという答えはあんまりじゃないか。そこから国際政治という学問への懐疑が深まることになったのである。おっと、話がずれたが、個人的には人権の普遍性というのはある程度妥当するのではないのかと思っている。ただ、その各論が難しいのであって。。。。というのが今の感触である。

 そして、将来の携わりたい分野として国際援助などに興味があるのだが、そうしたことの基礎付けといのは、センの潜在能力にしろ、なんにしろある程度人権といわれているようなものに絆創膏的になされるしかないのかなという感じがしていて、そのためにもイスラム圏と言われる地域でこれを一括りにすることにも若干の抵抗があるのだが、その普遍性みたいなのが実際どうなのかということについて考えてこられたらなぁというのが妄想である。そもそもの援助の基礎付けがあいまいになって来ているから、それがあいまいなものなのかはたまたもっと強力に基礎付けられうるものなのか、そんなちょっと現実的にはどうでもいいようなレベルのことを考えたい。じゃないと動けないから。だから、いわゆる西洋思想における人権概念の発達とイスラムにおける人権概念を調べ、それの実現はどうなってるのじゃということについてもなんかひとつの長めのリサーチペーパーをかければなぁと思っている次第であります。
 寝ながら学べる構造主義(内田樹)

 内田さんは大好きな学者である。以下はあとがきに書かれた文章である。

 レヴィストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、バルトは「言葉遣いで人は決まる」と言っており、ラカンは「大人になれよ」といっており、フーコーは「私は馬鹿が嫌いだ」と言っているのでした。

 これに尽きるなぁ。と思った。これに便乗させてもらうと、ロールズは「勝ったからといって思い上がるなよ、人には大差なんかないんだ」と言っているのかもしれない。

 もうひとつ。

 無知というのは単なる知識の欠如ではありません。「知らずにいたい」というひたむきな努力の成果です。怠惰の結果ではなく、勤勉の結果なのです。

 目から鱗である。
 学問とはなんであるか?

 この問いをめぐっておおよそ人文系の学問が学問にあらずとされたことがある。それはデカルト以来の経験科学や論理学などの勃興で経験や実験に基づいてその真理性が実証できないものは学問にあらずという実証主義的な背景による。これに価値相対主義的な考え方も相俟って、倫理学とか政治学とかは完全にその存在意義を疑われた。うちの大学に総合人間学部とかいう得体の知れない学部があるが人間科学部とかそういう得体の知れない学部が登場したのは文学部とか哲学とかそういったものの存在意義が問われたためとりあえず名前かえとこか的な流れがあったのである。倫理学では実証主義に抗うことができず、メタ倫理学へと流れ、政治学では特にアメリカにおいて行動論というのが起こった。ただこうした実証的な学問手法は現実追従的であり保守的である。実証主義というイデオロギーの賜物でしかないという過激な反論もちらほら見え始め、実証主義的な現実把握と規範的な理論構築をうまいことやっていこうやという流れがでてきた。それが今。いま、振り子は規範理論構築へと振れているような気がするが、これは危険である。あたまでっかちが世の中を動かすことほど恐ろしいことはない。頭でっかちは老人のように半ば厭世的な態度ですみっこでぶつくさ文句を言っているくらいがちょうどいいのである。もう構造主義とか出てきてよくわからん。みたいになっているのではないだろうか。中世キリスト教社会の崩壊が真理的価値の崩壊をもたらしたのであれば、今はアメリカンドリームの崩壊が世界的な真理の瓦解をもたらしている。真理はそこにあるものでもなくてたぶんフィクション的につくらなけばならないから、あと一世代分は混乱が続く。今の新たな価値を創造している世代が親になって自己欺瞞的に子供にその価値の大切さをその論理付けが難しいというかできないからすっとばして、若かりしころの意味のわからない熱い気持ちだけをなんか神秘的に語ることによって、その系譜学的な由来をしらない子供はあらたな価値規範の中でゆるりと生きていける。そしてまたその子供くらいで価値の崩壊が。だいたい混乱は一世代から二世代周期で起こっている。まぁそんなもんである。だから僕くらいの年の人はもっと価値を無根拠に信望してみてもいいのでは。大学という鳥かごの中でぴーぴー鳴いとけばいいのではないのだろうか。その価値が何たるかは個人的には、ノブレスオブリージ的な積極的な分相応というありきたりに落ち着く。それと坂口安吾の言葉を借りればきちんと堕落していくことである。坂口安吾はすごい。

 あぁ、学問とはなんであるか?ということであった。山田詠美の新作が「学問」である。大人の階段上る様子が描かれている。学問とはなんであるか。自分が知っていることに名前を与えることである。名前をしってそれを知ることではない。ということはそもそも学問の存在意義なんて人間循環的なものである。ようするになんとでもいえる。なんかそのような気がする。有体に言えば己を探求することかもしれない。性欲、食欲、睡眠欲に生きる思春期を切り取った作品である。おまえはもらしてもいいんだ、しょんべんじゃなくておしっこだから。それを言った本人は後におしっこの涙を流すことになる。

読んだ本
告白・・・これはとてもすきである。人間の感情のどうしようもなさを見事に描いている。それと過去に関する事実などない。あるのは記憶による解釈だけであるというような。それでひとつの出来事が立体的に質感を持って浮かび上がってくる。
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自己紹介:
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スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
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