なんか、デモが盛り上がっているみたいだ。「~~を占拠せよ」という号令のもとに。
結論から言うと、僕はデモ、特に今回のデモに変な嫌悪感を抱く。それは僕が彼らの言う体制の恩恵を受けているからかもしれないし、根っから保守的だからなのかもしれない。ただ、それ以上に彼らの物言いにどこか違和感を覚える。よく指摘されるのが、シュプレヒコールがない、統一的な主張がないなど。別になくてもいいのではないかとは思うが、自分が欲しいものをただ叫んでいるだけのような気がする。システムそのものを批判する、システムそのものと対決する視座に欠けている。そう思う。
呼びかけの方法が、ツイッタ―とかフェイスブックだというのが示唆的なのではないかと思う。おそらくこのようなソーシャルメディアと言われるものにのっけられるメッセージは、反射的なものであろう。そのためなんらかの体系化された言説を生み出しにくい。体系化されていない言説で、体系化の権化たる体制・システムに立ち向かうのは、いささか無謀なのではないか。確かに、こうした体系化の要請に対して、いや、不満という感情が、より一般的には感情のほうが人を突き動かし、説得的ですらあるのだ、という意見はもっともである。それが本当に真摯な感情に突き動かされているのであれば、それは十分に正当なものであるし、説得的であると思う。大いに爆発させてもらいたい。僕がここで断わっておきたいのは、理論・感情の陳腐な二元論の中でどちらかを称揚しようとする意図はないということである。瞬間的な心の動き(気分)に、継続的性格を持つ感情という装いを試みる人の理路、感覚が理解できないと言いたいのである。
おそらく、感情によって、システムを壊すことはできる。しかし、現在、その代替案が示されることはないし、また、システムを壊すだけの、感情が存在していると思わない。せいぜい愚痴が渦巻いているだけである。
感情の吐露と愚痴がどう区別できるのかというのはしっかりと考えなければならないが、真剣さという点において、違うのではないか。愚痴は、自分が置かれている文脈への不満の表明ではあるが、変化をもたらすようなポジティブな思考には使われない。愚痴は、その文脈が続くことを前提に文脈への依存の中で生成されるものである。反対に、感情の吐露は、文脈の無視という契機が内包されている。なりふりかまわず、という言葉が似合う。このなりふりかまわずという境地に達していないのであれば、それは感情ではなく打算に浸食された中途半端な体系化の試み、論理、こじつけ、自己弁護、弁解でしかない。要するにあたまでっかちである。あたまでっかちの気分の表明は、ただのわがままとして煙たがれる(自分の経験上。。。)。愚痴は飲み屋で吐かれるが、感情は時に、仕事中にでも爆発する。
このなりふりかまわずという点において、理論と感情は二分論では捉えきれない未分化の領域に入る。理論のつきつめは一種の狂気に突き動かされているし、それは純粋に感情的な動機である。論理が太刀打ちできる次元の問題ではない。理性を働かせれば、理論を突き詰めることは非合理的だと判断されるだろう。理論と感情は親和的である。けれど、論理と感情は背反的である。
何度も断わっておくが、理論と感情の優劣をつけたいわけではない。そもそもこの二元論を採用しない。今回のデモという現象の中途半端さへの嫌悪を表明しているだけである。
結論から言うと、僕はデモ、特に今回のデモに変な嫌悪感を抱く。それは僕が彼らの言う体制の恩恵を受けているからかもしれないし、根っから保守的だからなのかもしれない。ただ、それ以上に彼らの物言いにどこか違和感を覚える。よく指摘されるのが、シュプレヒコールがない、統一的な主張がないなど。別になくてもいいのではないかとは思うが、自分が欲しいものをただ叫んでいるだけのような気がする。システムそのものを批判する、システムそのものと対決する視座に欠けている。そう思う。
呼びかけの方法が、ツイッタ―とかフェイスブックだというのが示唆的なのではないかと思う。おそらくこのようなソーシャルメディアと言われるものにのっけられるメッセージは、反射的なものであろう。そのためなんらかの体系化された言説を生み出しにくい。体系化されていない言説で、体系化の権化たる体制・システムに立ち向かうのは、いささか無謀なのではないか。確かに、こうした体系化の要請に対して、いや、不満という感情が、より一般的には感情のほうが人を突き動かし、説得的ですらあるのだ、という意見はもっともである。それが本当に真摯な感情に突き動かされているのであれば、それは十分に正当なものであるし、説得的であると思う。大いに爆発させてもらいたい。僕がここで断わっておきたいのは、理論・感情の陳腐な二元論の中でどちらかを称揚しようとする意図はないということである。瞬間的な心の動き(気分)に、継続的性格を持つ感情という装いを試みる人の理路、感覚が理解できないと言いたいのである。
おそらく、感情によって、システムを壊すことはできる。しかし、現在、その代替案が示されることはないし、また、システムを壊すだけの、感情が存在していると思わない。せいぜい愚痴が渦巻いているだけである。
感情の吐露と愚痴がどう区別できるのかというのはしっかりと考えなければならないが、真剣さという点において、違うのではないか。愚痴は、自分が置かれている文脈への不満の表明ではあるが、変化をもたらすようなポジティブな思考には使われない。愚痴は、その文脈が続くことを前提に文脈への依存の中で生成されるものである。反対に、感情の吐露は、文脈の無視という契機が内包されている。なりふりかまわず、という言葉が似合う。このなりふりかまわずという境地に達していないのであれば、それは感情ではなく打算に浸食された中途半端な体系化の試み、論理、こじつけ、自己弁護、弁解でしかない。要するにあたまでっかちである。あたまでっかちの気分の表明は、ただのわがままとして煙たがれる(自分の経験上。。。)。愚痴は飲み屋で吐かれるが、感情は時に、仕事中にでも爆発する。
このなりふりかまわずという点において、理論と感情は二分論では捉えきれない未分化の領域に入る。理論のつきつめは一種の狂気に突き動かされているし、それは純粋に感情的な動機である。論理が太刀打ちできる次元の問題ではない。理性を働かせれば、理論を突き詰めることは非合理的だと判断されるだろう。理論と感情は親和的である。けれど、論理と感情は背反的である。
何度も断わっておくが、理論と感情の優劣をつけたいわけではない。そもそもこの二元論を採用しない。今回のデモという現象の中途半端さへの嫌悪を表明しているだけである。
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