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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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 AV女優、しかも単体ではなく、企画AV女優へのインタビューを綴った本である。
この最終章で『名前のない女たち』シリーズは終わっている。これは著者の置かれている状況の変化、ひいてはAV業界、アダルト業界が斜陽にあるということを原因としているようだ。
 
 AVやアダルト業界系の本を読むのは別にこれが初めてではなく、興味を持って定期的に読むようにしている。こうした性産業という言われるような領域の問題群には自分がその主な消費者であるということもあろうが、人間社会に存在してきた性を対象とした一つの現象として、結構時間をかけて考えたりしている。

 AV業界自体が斜陽にあるというのはどういうことだろうか。それはネットの普及によって、あらゆる種類のエロコンテンツが無料で手に入るようになったということと関係しているだろう。2chなどではユーザーによる自画撮りの画像と動画を投稿するスレが立っているようだし、tube8というような海外動画投稿サイトなどを見ていると、AV業界の生き残りの難しさを垣間見れる。
 
 そうした業界的な動きは素人目にはよくわからないが、

『現在、芸能人までもが登場するようになったアダルトメディアの中で、企画AV女優はもはや無価値に等しい存在になっている。よほど美しいか、性的に成熟していない限り、自分の生活を支えるだけのギャラを手にすることさえ困難である。~~最終手段を売ることを決意したにもかかわらず、その現実を知らないまま蠢いている企画AV女優は底なし沼の世界になっていた。』(p.3)

『アダルトビデオが市民権を得て女子の質が良くなっているということではなく、仕事が少なくなって志願者が増えて競争が激しくなり、怠慢な女の子はわれわれが存在を知る前にはじかれてしまっているということである。もう、不真面目な人間は企画AV女優にすらなれない時代なのである。』(p.115)

など、競争の激しさ、そして、にっちもさっちもいかない状況が記されている。

 この本の中に登場する一人の女優は

『生きていて大切なのは好きなことを追求すること。社会的なことなど二の次であり、自分自身には絶対になくてはならない好きなセックスを追求するためにポジティブにAV女優をしている女もいる』(p.188)

と言いきった。そしてそのあと、自殺している。

 日本では、二次大戦以降、従軍慰安婦問題と並んでRRAの設置など性の商品化に関する議論が一定程度の厚みの中で展開され続けている。日本のAVは海外のものと比べて、かなり異質だとも言われる。こうした性産業とどう関わるのか、もしくは関わらないのか。いつもそれは複雑な波紋を広げる。
 
 僕は学部生のころ、訳知り顔で、ネットでただでエロ画像、動画をみるのは失礼だし、きちんとお金を払ってAVを借りるなり、買うなりすべきだと思っている時期があった。何様のつもりだったのだろう。ただお金を免罪符として使いたかっただけではないか。


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最近読んだ小説。
『クォンタム・ファミリーズ』
量子論SF。この手の平衡世界ものはやっぱりあんまり好きになれないなぁと思った。結局実存主義を克服できないのか。。。というのが感想。なぜそこまで称賛されるのかが分からない。おそらく、脳内妄想が好きな人々に受けるからだろう。

映画
『告白』
だいぶ前だけれど、なんか季節外れで安くやっていたので。松たか子がよかった。あと、最後以外は映像もよかった気がする。ただ、ドーン以降の展開がまずい。まずすぎる。なぜ、結末を、分かりやすい結末をつけるのか。

『ブレイブ・ストーリー』
うーむ。不覚にも平衡世界ものであった。平衡世界にいって成長するという物語。あくまで今を生きるしかないって感じの。やっぱりこういう物語というか、ちゃんと結末を用意する物語が好きじゃないみたい。途中までは少年心を楽しませてくれるのだが、最後の終わり方がほんと意味が分からない。なぜ、やつがいる!?って感じだった。原作もそうなってるのかしらん。

『愛についてのキンゼイレポート~Let's talk about sex』
コンサバアメリカにおけるセックス革命と赤狩り。史実ではアメリカのコンサバ具合を知っていたが、実話に基づくこの映画はおもしろかった。内容がユーモアに富んでいて笑える。
一つ気になったのが、日本語訳のユーモアのなさ。
先生:人体で100倍の大きさになるのは?
女生徒:答えられません。こんなmixed classでする質問じゃないと思います。
先生:瞳孔だよ。
ここまではいい。しかし次の日本語字幕は細かくは覚えていないが、男性器はそこまで大きくならないよ立ったと思う。しかし、英語ではこれもまた細かく覚えていないが、you may get into deep disappointment. だったような気がする。これは秀逸である。大きくならないよという訳では重要ななにかが抜け落ちている。
自分なりに訳すとすれば、「そんな妄想してっと、いざというときがっかりするよ」くらいかな。

福岡伸一、『できそこないの男たち』

 光文社新書から出版されている生物科学者伝記とでもいうものだろうか。この人の本を読むのは生物と無生物のあいだ、世界は分けても分からない、動的平衡に続いて4冊目である。僕が文系にもかかわらず読めるのは物語形式であるのと、文体がとてもやわらかであるからだろう。

 内容は主に、遺伝子がどのように解明されてきたか、遺伝子レベルでの人間の性差はどのように発見されてきたかをその時々の学者の伝記風記述を通して説明するものである。ミドリムシとゾウリムシの違いがよくわからなくなって以来、生物学という分野に全く触れていない門外漢が内容について云々言うのも何なので、というかあんまり興味もないが、僕なりにこの本の真骨頂だともいえる、妄想だともいえる福岡さんの思想なるものについてここではちょっと触れさせてもらう。

 遺伝子レベルで、人間の性差がHOW、どのように生み出されるのかが科学の発達によって明らかになった。それによると、簡単にいえば、デフォルト状態である女をつくりかえて、もっと言ってしまえば急ごしらえで男が出来上がるのである。

 「男性は、生命の基本仕様である女性を作りかえて出来上がったものである。」p.166

 個人的に驚いたのは、男性器の裏側に走る、手術の跡のような一筋の線についての説明である。福岡さんによるとこの線は、ミューラー管によって生じた割れ目(女性器になるところ)を急ごしらえで閉じようとして残った跡だということである。何気にこの事実発覚には驚いた。というのも僕自身が幼いころに包茎手術を行っており(幼いころに好きでもない温泉に僕を連れて行って確認してくれた親には今更ながら感謝である)、物心ついたとき、というか自分の性器をまざまざと観察するようになったのは手術からだいぶあとでその時発見した例の線は手術によるものだろうとどこか自然に思っていた。なのでこの事実発覚はたぶんここ10年くらいで一番の新鮮さと動揺を持って僕にもたらされたのである。

 まぁ、個人的なプチカミングアウトは置いておくとして、男は遺伝情報の多様性をもたらすために美しい、生物の基本形である女性の間をぴよぴよと飛び回る存在にすぎない。まぁ、ここまではどこか風のうわさで耳にしたこともあったので先の一つの例外を除いては、ところどころにちりばめられたウィットに富む表現を楽しみながらふむふむという感じである。
 そんな流れで本は第11章「余剰」に入る。
 
 「これまで見てきたとおり、生物の歴史においてオスは、メスが生み出した使い走りでしかない。…(中略)…では今日、一見、オスこそがこの世界を支配しているように見えるのはいったい何故なのだろうか。それはおそらくメスがよくばりすぎたせいである、というのが私のささやかな推察である」p.262

 という現代の潮流に敢えて立ち向かうような記述にぶつかる。遺伝子の運び係のオスに、メスがその仕事以外の様々を要求した。福岡さんはそこに「余剰の期限」を見出す。そして、男たちは余剰をこっそりかくしておくすべを身につけていくのである。ここにはなるほどと思わされると同時に、ある種おとこのロマンチシズムがこっそり輸入されているように感じる。それはこの著作のところどころに見受けられるが。
 ここで対比すると面白いのが矢沢あいが『NANA』で登場人物の一人に語らせているせりふである。詳細があっているかは微妙だが、

 「ばかな男どもがあの海を越えようとするから争いが生まれるんだ。女のようにじっと家にいればいいものを」

みたいなことを語らせていた。福岡さんに言わせれば、それは女にせかされたからだというだろう。ただ、それだけでは説明できないものがあるようにも思う。まぁいずれにせよバカな男と上手な女という構図は個人的に居心地の良さを感じるわけであるが。ただ、この福岡さんの思想には自己卑下とある種の卑下の対象たる男のナルシシズムみたいなのが同居している感じがした。僕はそれをある程度好意的に受け取っている。
 
 もう一つの核は、加速覚に関しての記述だろう。福岡さんは動的平衡から連なる生命観に依って、生命の媒体を時間であるとする。

 「私たちにとっての媒体とは何か。それは、時間である、と私は思う。時間の流れとは私たちの生命の流れであり、生命の流れとは、動的な平衡状態を出入りする分子の流れである。・・・・(中略)・・・・いや、むしろこういうべきだろう。生命は時間という名の媒体の中にどっぷりと浸されているがゆえに、私たちはふだん生きているということを実感できないのであると。」p.275

 そして、生きていることを実感できるのが、その媒体である時間を追い越すときだ、そしてその時、一瞬でも時間を追い越せば、私たちは「時間の風圧」をかんじることができる。となんとも詩的な幻想的な表現で読者を動的平衡の世界から、こういうことが赦されるのであれば”人間の世界”にいる錯覚を起こさせてくれるのである。ただ、これを男性のエクスタシーの瞬間になぞらえることにはあまり共感できないが。
 
 三浦しをんは『風が強くふいている』でその「時間の風圧」見事に表現している。今、手元にないので引用できないが、それはそれはみごとな表現である。それから受け取る感覚は、自分が決して走ることによっては感じられないであろうという不可能性によって、それと同時に、とてもリアルにどこかで感じたことがあるという既視感の奇妙な混合物である。それゆえ、僕にとって「時間の風圧」という言葉はとても幻惑的に響く。

 

 大人になるのはいつか。最近のマイテーマである。と思っていたら、いつも読んでいる内田さんのブログに面白いことが書いてあった。カミュの引用をしているけれど、どれからの出典かわからない。帰ってカミュを読み直さなければ。下のカミュの引用に現れているような命題は異邦人において一般的にはラディカルと言われるような形で示されている。僕はあまりラディカルだとは思わないけれど。でもやっぱりカミュはよい。

内田さんのブログより。

なぜ、そのことをしなければならないのか、その理由を「それがもたらす利益」によって実定的に言うことはできないが「どうしても、そのことをしておかないと、 『よくないこと』が起こりそうな気がする」という直感に基づいて、誰にも命じられず、誰にも責任の分担を求めず、固有名において「そのこと」を敢行できる人間、それが「大人」である。
カミュが言ったように「いかなる上位審級も規矩として機能していない局面で、なお適切に行動することができる能力」が人間の真の人間性を構築しているのである。
「大人」というようなむずかしいものに定義の決定版があるはずはないのだが、とりあえず、これが今日の「大人の定義」である。』

 そんなことを考えていると、自分が“概念”と言う言葉を日常の会話の中で使うようになったのはいつからかなぁという疑問がわいてきた。大江健三郎は「壊れものとしての人間」のなかで、読書は真の経験足りうるか、それによって育てられた想像力は現実世界への想像力たりうるのかということについて述べているわけであるが、そのなかで、象徴という言葉について、そのもととなったSYMBOLとの緊張関係を述べている。言葉というのは一種の概念記号であり、その言葉の裏側には大きな語られなかった闇があるのである。大江健三郎にとって故郷の河を泳ぐあゆは図鑑にのっているあゆとはまったくの別物であり、この両者の緊張関係というのは避けられないものである。象徴という言葉に関して言うと、これは第二次大戦後、神格化されていた天皇が人格化され、象徴天皇としての地位を得るにいたるわけであるが、この和製の“象徴”という言葉に込められた意味と、英語でのSYMBOLに込められた意味はおのずと正反対であるという事実がある。否定的、消極的な前者に対して、肯定的積極的な後者である。ということである。確かに。現在、その違和感は少なくなって来ているものの、直訳するとどうしても象徴になるのであるが、その違和感を抑えるため、日本ではシンボルというカタカナができたのではないだろうか。おっと、脱線してしまった。大江健三郎はこの象徴ということばを小学校の作文で用いたらしいのだが、先生に新しい言葉を用いようとする心意気やよしと言った具合に評価されたらしい。ほかにもこの本は、読書の経験が架空であるにしろ、自身への衝撃は現実のそれと同等どころかむしろ上回ることすらありそれをどう理解するべきかなど、いろいろ示唆的で面白いのだが、まだ文章にできるほど理解できていないので妄想のきっかけになったことだけここに記して先に話をすすめる。
 この象徴をめぐる逸話は僕の大学一年生のころにだぶる。僕は一年生時、物見遊山的に哲学の講義に出ていた。そこではシニフィアンとシニフィエの違い、概念とはなにかなど、ようするに外国語が話されていた。当時僕は概念と言う概念がわからないと言っていたが、今思えばこの発想ができる分ある程度体得はしていたのであろう。個人的には概念と言う概念がわからないとのたうちまわり日常の事象に埋もれているほうが楽しかったのであろうが。この概念と言う言葉をある程度理解し、少々の違和感で使えるようになったのは確か、プラトンのイデア界についていろいろ聞き、それが数学と非常に親和的であるというか、そういった話を聞いたときである。あ、概念は概念でしかないんだ。と思った記憶がある。それでは人はいつから概念操作を覚えるのであろうか。これはかなり早い段階である。概念を通して世界を見るのは言葉を覚え始めてからであろうが、それを操作して遊ぶのはおそらくは小学校低学年から中学年くらいではなかろうか。こんなことはたぶん、発達教育学とかの文献読めばすぐ出てくるのだろうけど、自分の体験ベースにしたい。要するに自分が概念操作で遊びだしたのはいつからだろうか、ということである。ひとつの試金石がある、不謹慎ながら、クレヨンしんちゃんの作家が亡くなってくれよんしんちゃんについて考えていたときに連想されてしまったのであるが、それは“雲古味のカレーとカレー味の雲古たべるならどっちがいい?”というよう投げかけである。これに対する答えは人それぞれであろうが(味がどうあれカレーはカレーだと言う理由で雲古味のカレー派が当時有力であった)、これは二つの概念を組み合わせ現実には当然には存在しないものを実態として想定すると言う意味でかなり高度な概念操作だと言えるだろう。このように自分は概念をすでにつかっていたのだなぁと思うしだいである。ただ、概念という言葉そのものは大学2回生以降だと思う。

 くれよんしんちゃんといえば、よく母親とそのすばらしさについて話し合ったものである。PTAのあたまかちこちのばかなおばさん連中がみさえという呼び名が教育上よくないだとか下品だとか言って今は母ちゃんになっているし、見せたくない番組のわーすとをいつも記録している。そういう世間の反応については野原家の真実の愛などという戯言に踊らされない家族愛のあり方、一般的にくだらないとされることのよさを説く世の中に対する見方の大切さを反論したい激情に苛まれたものであった。あんたらの品行こそが下品極まりないんじゃないかと。変な理屈つけて反論するそのやり方が、純粋なしんちゃんのすばらしさとのコントラストでとても醜く感じたのを覚えている。
 時々飲むとクレヨンしんちゃんねたで盛り上がる友人がブログの中で
『ただ、不謹慎かもしれないけど、せめてもの救いなのは、
やっぱり不運な事故だったという事。
報道などで「自殺では?」というのが取り上げられていましたが、俺は事故だと信じていました。
だって、飛び降りるつもりで崖に立ったなら、
しんのすけに「ずるいゾ!」って言われるに決まってるじゃないですか。 』
と書いている。やられた、と思った。この「ずるいゾ!」が妙にリアルにその顔までが思い浮かんだときはこの友人にしてやられたと思ったし、そのリアルさを自分のどこかに残してくれたくれよんしんちゃんに感謝したいと思う。
 
 はて、題名の「おとな。」であるがこの「。」がこのような用いられ方をするようになったのはモーニング娘。からであろうか。この「。」は本来一文をびしっとしめる役割を負っている記号であるがこの使い方はなんとも面白い。少子化でなく増子化社会であると説く内田さんのブログを言い換えれば、この国にあふれているのは大人というよりこの「おとな。」のような気がする。といえるかもしれない。
 
最近読んだ本:壊れものとしての人間~活字のむこうの暗闇。大江健三郎
或る女。有島武郎。ほかに小さき者へはかなりよい。涙しました。
 ドーン、平野啓一郎

 大学院試験が一ヵ月後に迫り、小説など読んでいる場合ではないのに、つい買ってしまった。いや、迷っていたのだが、ドーンの参考文献のところをちら見したら、そこに最上敏樹著の「人道的介入~正義の武力行使はあるのか」と「国連とアメリカ」という本が挙げられていたので、インシに無関係でもなかろうもん、という人道的介入で陥りがちな、こじつけを行い、要するに、誘惑に負けて買って読んだ。ちょうど人道的介入とか考えている年頃なので内容はあぁ、この本のここをそのまんまひっぱてきてるなとか思うところもあった。でも読み応えがあり、充実した時間をすごした。

 主題はおそらく分人主義と人道的介入である。大雑把に言ってしまえばぶんじん主義に全部微分できるかもしれない。もっと一般的に言えば多様性と単純さへの傾向性についていろんな角度からその功罪を、その両者の難しさを描いているといえると思う。ぶんじん主義について専門的な知識を持っているわけではないが、ぶんじん主義というのはいろんな人に見せる自分というものをぶんじんとして定義したものである。そうしたそれぞれの場面での私いわゆるぶんじんに“ぶんじん”という名前を与えることについて、魅力と危険性を感じた。それは現実に即した概念化であるが概念先行型になるとアイデンティティの崩壊をもたらす気がする。ただ、こうして名前を与えることで、安心する人も多数いるだろう。フーコーは何かを概念化する、要するになにものかに言葉を与えることを知ー権力と呼んだが、八方美人で二枚舌な一個としての自分に悩む人にぶんじんという概念を与えることで少なくともその悩みからは開放される。しかしそうしたぶんじんを認めると、その違いが際立ち、あたかも自分が分裂したかのように思い、自分の全存在を受け止めてくれる存在を求める傾向が現れる可能性もある。ぶんじん主義というのはそうした自我の分裂と崩壊、溶解を論じるうえでとても有意義な概念付けだとは思う。ただ、その響きからは直感としてやはり、どこか不安を拭い去れない。そんな中で、ドーンはこうした概念を中心に取り上げ、理想論でもなく、シニカルにもならず、ほんと地に足着いた安心を与えてくれた。

最近読んだ本:山本文緒、アカペラ。
お前はスナフキンだよ。
お前の優柔不断はやさしさじゃなくて傲慢だよ。なんでもかなえられるとか思うな。
この二言に僕は鳥肌がたった。
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大学院で平和構築を勉強中。
スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
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