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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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 死について、忘れられない出来事がある。その現象(決して出来事ではなく、こう言ってよければ、一般的に言うある1人の人がその心臓の鼓動を止めたという事実ではなく、その事実とそれに引き続く一連の人々の行動、いや、事実から行動が引き起こされたのかは分からないし、おそらくは“死”というその事実的事件すらもがある種のそれ以前の出来事の集合からの連続性の中で捉えられる、いや、捉えられるべきだとこの場合は、“僕”が感じているわけなのだが。そうした一連の繋がりを切り取るでもなく言及するために使う言葉。)によって、僕は~~~~ということを考えた。という表現形態自体が、そぐわない。いや、その現象の中で/それ以来、僕はこのことを考えた/考えているとしたほうがいいのだろうか。ただ、今はちょうどいい(適切でもなく、正確でもなく)書き方を見つけることが出来ないので、このように記す。
 
 おそらくは、一度しかしゃべったことしかないような、言ってしまえば、赤の他人が、赤の他人同士が集まる合宿で死んだ。正確に言えば、おぼれて、意識不明になり、しかる期間の後に心臓が停止した。ここで僕は幾つかの消滅と生成を見た。残された人の人格の消滅。ある種の連帯の消滅。新たな連帯の生成。それらは、常に、僕にとって悩ましい(こう表現するのがこっけいなくらい、本当に悩ましい)ものであった。それは、
 
 死者とは何か。

この問いを巡るものだったのだと、一連の現象から5年を経た今、内田樹による、「他者と死者」を読みながら、明確に意識できるようになった。これは一つには、時が僕を冷静にしてくれたと言う側面もあるだろう。しかし、なんとなくぼんやりと循環していた思考が、この本によって、同一平面化の循環ではなく、次元をことにする、上下運動を伴う螺旋型循環に移行できる気がした。
 
 実際、その現象以降、自分でそれを消化しようと(消化するべきかどうかも分からないし、できるかもしらないが)、ただ単にその問の前に漠然と翻弄される記録をつけてきた。ただ、少し距離を置いて考えられる今となっては、死を巡る問いは僕に違った形で、常に大きな影響を与えているようだ。
 中学校のときの慕っていた先生の死という現象(一連のという意味、単独で死が訪れることはない。常にそれが、生きる僕にとって、存在論のエコノミーの中での出来事である以上、そこには鬱陶しいひだがついて回る)の中で、僕は「無について」という小論文を提出し、担任の先生に辟易された。もう1人の候補者が「殺人者の心とは」だった。
 いまでも当時の担任のため息は忘れられない。あの先生は頑張っていたから。おまえが腐っているからだろ。なぜお前が変わりに死なないのだ。本気でそう思った記憶がある(精確かは分からないが、少なくともそれ以降の僕はその担任に対して、そう思いたがっているということだけは確かもしれない)。なぜ、あの先生だったのだろう。それが今でも消えない。
 
 大学で死んだ人は、関心の対象の外にある人だった。人数が多いサークルだったので、そして、その人がほとんど活動に来ていなかったみたいなので、同じ空間にいるというだけだった。いや、狭い意味では、その人が来ている事実も知らなかったので、どう表現したらいいのだろうか。同じ機会に居合わせたといった方が適切なのかもしれない。人が1人おぼれた。なんのことはない、立ち入り禁止区域になっている橋から、雨で増水した川に、着衣で飛び込んだだけだ。時と場合によってこういうことは起こる。そして、それに直接関わった人の苦悩は僕からは分からない。そのあそびを先導した人は、「おれが殺した」という明確な苦しみを自慰と共に繰り返すことだろう。そう苦しむことが一層深い罪への免罪符であるかのように。そして、もっと軽率な、ある者は、組織の危機管理という大義名分で、この現象を技術的な問題へとすりかえるだろう。自分が「殺人者」になってしまったという被害に危機管理不足から「あってしまった」被害者であるかのように「死者の代弁者」として振舞う。雄弁に。あの人は一緒に居合わせたから、苦しかったに違いない。そう周りから言われることで、その周りも何かを忘れようとする共犯者である。しかし、こうした現象を、罪などの言葉、硬い法律用語のレトリックで語ることはあまり現象を言い表せない。そこにある違和。弔うということの困難さの裏にある違和。それをどう考えればいいのか。何かを言明することで、見えなくなる、失われる何かがそれがとてつもなく大きかったように思う。
 極めて個人的嗜好の話になるが、その現象の中で、僕はずっと奇異の目で見られていた(少なくともあからさまな非難をそれも道徳的非難を受けることが多々あった)。なぜ悲しまないのか。なぜ葬式に行かないのか。なぜ墓参りにいかないのか。当時はよく分からなかった。そして今もよく分からない。その多くの流れに身を委ねると、その死という現象は治癒されるように思う。でも頑なに拒んだ。決して行かなかった。そこに行くことに違和があった。
 組織運営で、合宿などのレクリエーションについても危機管理をするべきだという議論が起こった(ちょうどその頃、海外に人を派遣したりする活動だったので、そこにおける危機管理体制を構築するべきだという議論を僕が先導していた)。もちろん、議論の方向性が違うので対象とはしたくないと言った。赤信号はわたらないようにしましょうという講習会でも開くのだろうか。今回の事件の詳細な分析と妥当性の論証なくしては組織全体として取り組むということは出来ないのではないかと提案したら、道徳的非難を浴びる。あんな出来事があって、そんなことを言うか。いや、あの出来事は、組織的構造的欠陥というより、一種の逸脱として、処理するべきだろう。少なくとも組織として公式に管理すべき類の危機ではない。といったら、味方はいなくなった。そんなに自分の加害性、有責性を構造に解消したいのか。別に組織として取り組もうが取り組まなかろうが、全体として、たいした差はない。しかし当時の僕は、そして今も分野を違えて学問の分野で、過度の道徳的批判に対する決定的な嫌悪を抱いている。道徳が無意味だといっているのではないが、それは判断を構成する一要素でしかないと思う。しかも、道徳はみなに一緒ではない。あの抑圧する気配の中で僕は、何度も息が、文字通り、止まった。
 
 今思えば、もう少し穏健なやり方もあったのかと思ったりもする。未だに、墓参りにはいけていないし、行くべきかも分からない。ただ、僕はまだ、この現象について、自分で言及を避けている部分がある。それに関わる記憶は、それをかつての僕が拒絶したかのように、今、ぽっかりとそれがあったという空白だけが、ある。無ではなく、空白が、ある。それは自己中心性とルサンチマンにかかわるようなことである/あった気がする。自分を中心にしたときの存在の重さの、いや軽さの濃淡。現象学的な存在論/認識論の融解については深い共感を抱くが、この存在の濃淡、自我の中心性、これについて、考えないことには僕自身が前であれ、後ろであれ、歩を始められない気がする。
 僕はあの人に向かってあの時発した、「戦争をなくしたい」という宣言にいまでも囚われている。そして、なぜ、これで、なぜ、あの時だったのか。今その混乱は学術的装飾を身にまとって、自由自在だ。学術的衣でもってもう少し、あの死者を召喚することを控えなければ。僕の問はその装いが変わってきている。人を「助ける」とはどういうことか。人を「助けるため」に人を「殺す」とはどういうことか。死者の問題から離れることは出来ないし、あの現象が自分の形成に深く関わっていることは間違いがない。ただ、現在の苦悩をあのときのルサンチマンに置き換えることは少なくなった。あの現象を見ずには済ませられないが、幸か不幸か、数多ある事例の中に、少なくとも日常では埋もれさせることが出来ている。同じような構造をした現象の列挙には事欠かない。問の質が同じで、その質感が異なる。その奇妙な二重性に、ときたま、稀有な本に出会って、擦られる。
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