イチローのインタビューを見た。
日ごろ考えていることをこの際言語化しようと思い立った。
★言い訳という言葉
よく言い訳をするなといわれる。僕は言い訳をすることをいけないことだとは思わない。所詮人は他人の言い訳なんて詳しく聞いていないのだ。カゼをひいたから。それを聞いて真剣に心配する人なんていない。そんなもんなのだ。
ただし無条件に言い訳を許すわけでもない。自分を納得させる言い訳をしなければならないと思う。自分の発した言葉を自分くらいはちゃんと受け止めないと悲しい気がする。でもそれが一番難しい。だって言い訳のほとんどは自分をだますためにされているのだから。
でも他人は全く納得しないけど自分だけは心から納得できる言い訳をしていきたいと思う。
★自分のためという言葉
一回生のとき僕はインドに行った。そこでマザーハウスというところで一週間ボランティアの体験をしてきた。そこで感じたことはいろいろあったのだが長くなるのでここではそこで考えた結論だけ書いておく。そこでの体験はまた後日に。
そこで感じたことは所詮というか結局というか、あんまりネガティブな表現は使いたくないのだけれど、いろんな行為は自己満足、自分のためということがかなり大切な考え方なのではないかということだった。自分がその場でかなり癒されたのである。何か出来ると勘違いをしていたじぶんがそこでしてもらったのである。
それからの約一年半その考え方は自分の根底にあった。今でも変わらない。
しかし、最近、そこに若干の変化があって。それって結構一番甘い言い訳なのではないだろうか。例えばなにかの対象に対して自分がいいと思う行為を実行したとする。それがいわゆるありがた迷惑だったとしよう。自分がそれに満足したからそれでいいのかといったら違うだろう。もっと言うと、なんらかの壁にぶつかったとする。それを越えられなくても自分がベストを尽くしたと思えればそれでいいことになってしまう。そこでのベストというのは自分で発した言葉である以上ベストではありえないのだがそこについては今は言わない。
さて、話を戻して自分でベストであることが本当のベストである場合、果たしてそれで十分なのであろうか。ということを最近考えるのである。僕は将来国際協力に関わろうと思っている。また国会公務員なども視野に入れている。そこで思うのが自分のベストを越えて頑張らないといけないことがあるということである。心底からヒトのために頑張らなければならないときがあるということである。そこで言うかもしれない。仕事だから、でも僕はそんな理由では頑張れないのである。
僕は“自分のしたことで誰かが笑ってくれる、そんな職業についてみたい”という漠然とした思いがあった。でもそれがいつしか独りよがりなことに気づいた。でもまた戻ってきてしまった。ヒトはどうか知らないが、自分が一番頑張れるのはそこに“人”がいるからなのではないだろうかという場所に。
でもよく分からない。ひとつだけいえるのは自分が満足していないのに他人を満足させられるわけがないということである。だから多分、一年生のときのポジティブ自己満足最高というのは、まず自分が満足するものをせよと言い換えられるのであろう。ちょっとした変化であるが自分の中では結構大き目の変化である。
★理論、理屈と感情
眠くなったのでこれはまた次回というか明日に回そうと思う。
自分、乞うご期待。
日ごろ考えていることをこの際言語化しようと思い立った。
★言い訳という言葉
よく言い訳をするなといわれる。僕は言い訳をすることをいけないことだとは思わない。所詮人は他人の言い訳なんて詳しく聞いていないのだ。カゼをひいたから。それを聞いて真剣に心配する人なんていない。そんなもんなのだ。
ただし無条件に言い訳を許すわけでもない。自分を納得させる言い訳をしなければならないと思う。自分の発した言葉を自分くらいはちゃんと受け止めないと悲しい気がする。でもそれが一番難しい。だって言い訳のほとんどは自分をだますためにされているのだから。
でも他人は全く納得しないけど自分だけは心から納得できる言い訳をしていきたいと思う。
★自分のためという言葉
一回生のとき僕はインドに行った。そこでマザーハウスというところで一週間ボランティアの体験をしてきた。そこで感じたことはいろいろあったのだが長くなるのでここではそこで考えた結論だけ書いておく。そこでの体験はまた後日に。
そこで感じたことは所詮というか結局というか、あんまりネガティブな表現は使いたくないのだけれど、いろんな行為は自己満足、自分のためということがかなり大切な考え方なのではないかということだった。自分がその場でかなり癒されたのである。何か出来ると勘違いをしていたじぶんがそこでしてもらったのである。
それからの約一年半その考え方は自分の根底にあった。今でも変わらない。
しかし、最近、そこに若干の変化があって。それって結構一番甘い言い訳なのではないだろうか。例えばなにかの対象に対して自分がいいと思う行為を実行したとする。それがいわゆるありがた迷惑だったとしよう。自分がそれに満足したからそれでいいのかといったら違うだろう。もっと言うと、なんらかの壁にぶつかったとする。それを越えられなくても自分がベストを尽くしたと思えればそれでいいことになってしまう。そこでのベストというのは自分で発した言葉である以上ベストではありえないのだがそこについては今は言わない。
さて、話を戻して自分でベストであることが本当のベストである場合、果たしてそれで十分なのであろうか。ということを最近考えるのである。僕は将来国際協力に関わろうと思っている。また国会公務員なども視野に入れている。そこで思うのが自分のベストを越えて頑張らないといけないことがあるということである。心底からヒトのために頑張らなければならないときがあるということである。そこで言うかもしれない。仕事だから、でも僕はそんな理由では頑張れないのである。
僕は“自分のしたことで誰かが笑ってくれる、そんな職業についてみたい”という漠然とした思いがあった。でもそれがいつしか独りよがりなことに気づいた。でもまた戻ってきてしまった。ヒトはどうか知らないが、自分が一番頑張れるのはそこに“人”がいるからなのではないだろうかという場所に。
でもよく分からない。ひとつだけいえるのは自分が満足していないのに他人を満足させられるわけがないということである。だから多分、一年生のときのポジティブ自己満足最高というのは、まず自分が満足するものをせよと言い換えられるのであろう。ちょっとした変化であるが自分の中では結構大き目の変化である。
★理論、理屈と感情
眠くなったのでこれはまた次回というか明日に回そうと思う。
自分、乞うご期待。
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