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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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今日、大幅にこのブログのカテゴリーを変えた。

カテゴリーというのはある目的に関して、存在するものなので、この変更は、このブログの目的が変化したことを意味するのだろうと、事後的に気付いた。まぁ、目的というほど、大層なものでもないが。

変更前は、センチメントな思いの吐露の場所だったように思う。これは今後も続く(笑)
ただ、大きな変更は研究のメモ書きが増えることだろう。これは一種のアリバイ工作として、また、自分への励ましとして機能してくれることを願う。

研究関係のエントリーが少ないのは、決して勉強が少ないからではないという言い訳をしておく。読んだ本をまとめるという行為をこのブログでしていなかっただけである。これからはここに積極的に載せていきたいと思う。
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しばらくブログを中断していた。現在紆余曲折を経て大学院で勉強中である。

勉強とはどういうものかが過去の自分よりは幾分かわかってきたこともあり、つれづれと思ったことを書いていこうと再開の気分になった今日この頃である。
ただ、過去の文を読み返していても思うのであるが、なんというか結構同じことを手を変え品を変え言っているだけのような気もする。

まぁ、メモ書きだと思って気が向いたときに書いてみようと思う。
というか、書きたいことがあったのでその媒体を求めて、再開したというほうが表現としては適切なような。

前から好きだった寺山修司のハイセイコーという詩を著作権無視でここに載せたい。
すんません。

ふりむくと
一人の少年が立っている
彼はハイセイコーが勝つたび
うれしくて
カレーライスを三杯も食べた

ふりむくと
一人の失業者が立っている
彼はハイセイコーの馬券の配当で
病気の妻に
手鏡を買ってやった

ふりむくと
一人の足の悪い車椅子の少女がいる
彼女はテレビのハイセイコーを見て
走ることの美しさを知った

ふりむくと
一人の酒場の女が立っている
彼女は五月二十七日のダービーの夜に
男に捨てられた

ふりむくと
一人の親不幸な運転手が立っている
彼はハイセイコーの配当で
おふくろをハワイへ
連れていってやると言いながら
とうとう約束を果たすことができなかった

ふりむくと
一人の人妻が立っている
彼女は夫にかくれて
ハイセイコーの馬券を買ったことが
たった一度の不貞なのだ

ふりむくと
一人のピアニストが立っている
彼はハイセイコーの生まれた三月六日に
交通事故にあって
目が見えなくなった

ふりむくと
一人の出前持ちが立っている
彼は生まれて初めてもらった月給で
ハイセイコーの写真を撮るために
カメラを買った

ふりむくと
大都会の師走の風の中に
まだ一度も新聞に名前の出たことのない
百万人のファンが立っている
人生の大レースに
自分の出番を待っている彼等の
一番うしろから
せめて手を振って
別れのあいさつを送ってやろう
ハイセイコーよ
お前のいなくなった広い師走の競馬場に
希望だけが取り残されて
風に吹かれているのだ

ふりむくと
一人の馬手が立っている
彼は馬小屋のワラを片付けながら
昔 世話をしたハイセイコーのことを
思い出している

ふりむくと
一人の非行少年が立っている
彼は少年院のオリの中で
ハイセイコーの強かった日のことを
みなに話してやっている

ふりむくと
一人の四回戦ボーイが立っている
彼は一番強い馬は
ハイセイコーだと信じ
サンドバックにその写真を貼って
たたきつづけた

ふりむくと
一人のミス・トルコが立っている
彼女はハイセイコーの馬券の配当金で
新しいハンドバックを買って
ハイセイコーとネームを入れた

ふりむくと
一人の老人が立っている
彼はハイセイコーの馬券を買ってはずれ
やけ酒を飲んで
終電車の中で眠ってしまった。

ふりむくと
一人の受験生が立っている
彼はハイセイコーから
挫折のない人生はないと
教えられた

ふりむくと
一人の騎手が立っている
かつてハイセイコーとともにレースに出走し
敗れて暗い日曜の夜を
家族と口をきかずに過ごした

ふりむくと
一人の新聞売り子が立っている
彼の机の引き出しには
ハイセイコーのはずれ馬券が
今も入っている

もう誰も振り向く者はないだろう
うしろには暗い馬小屋があるだけで
そこにはハイセイコーは
もういないのだから

ふりむくな
ふりむくな
うしろには夢がない
ハイセイコーがいなくなっても
すべてのレースは終わるわけじゃない
人生という名の競馬場には
次のレースをまちかまえている百万頭の
名もないハイセイコーの群れが
朝焼けの中で
追い切りをしている地響きが聞こえてくる


思いきることにしよう
ハイセイコーは
ただの数枚の馬券にすぎなかった
ハイセイコーは
ただひとレースの思い出にすぎなかった
ハイセイコーは
ただ三年間の連続ドラマにすぎなかった
ハイセイコーはむなしかったある日々の
代償にすぎなかったと

だが忘れようとしても
眼を閉じると
あのレースが見えてくる
耳をふさぐと
あの日の喝采の音が
聞こえてくるのだ
 

 ここで大学院の志望動機の下書きをしてみたい。

 大学学部生のころは、主に実際に海外に行ってNGOがどのような活動をしているのか、JICAはどのように機能しているのかなどを訪問によって見るということに重きを置いていた。フィールドワークによる簡単な分析を行っていた。そして、それと平行して、国際協力の規範的な視点(国際協力のあるべき姿や、各プロジェクトのあるべき姿)からの考察が中心だった。しかし、勉強を進めるにつれ、国際協力の背後にある国や各国関係の及ぼす影響の大きさなどを知るにつけ、国際協力を単独で論じることの困難さを痛感する。現実と規範の間にあるギャップの大きさを見、この現実と規範をどうにか架橋できないか(架橋することにそもそも意義があるのかという議論は置いておいて)という考えを持つにいたった。そして、その架橋を目指すために人権や人道的介入、国際協力と武力の関係などに興味の重心が移動した。
 こうした背景を元に、大学院では初期に規範理論や政治哲学の学習を更に深めると同時に、マクロな視点で、国際法や国際関係論、NPO論などを学習したい。そして中盤から後半にかけて、ミクロな視点で組織間関係の学習やケーススタディーなどを通じて専門的な分析や考察を行いたいと思う。もちろんこれらは完全に独立して存在するものではないので、時期に囚われることなく柔軟に学習していきたい。
 私は、大学に回生の時にバングラディッシュを訪問した。その際、ノーベル平和賞を受賞したことで有名なグラミン銀行が始めたマイクロクレジットは画期的で瞬く間にバングラ全体に広がったのであるが、他団体の大規模な事業参入や高返済率地域への融資偏在などによって新たな格差や貧困層を生み出すといった現象を招いたということを知った。この事例からわかるのは、一つの団体が画期的な活動を行なったとしても、それをとりまく諸団体との関係性によっては効果が失われるひいては弊害をも招く可能性もあるということである。私はこのような事態になってしまった理由やこれに対する的確な解決策を現在、明確に提示することができない。多元的な現実の中でどういった策を構築することができるのかを大学院で学ぶことができればいいと思う。

 以上。京都大学に提出します。
 自分が今の生活を選んで早、四ヶ月が過ぎた。そしてこれから一ヶ月はおそらく院試の準備に追われるだろう。そうすると、レールに復帰するまであと半年なにをするのだろうかということについてここで少し記録しておこうと思う。

 まずイスラム圏に行くことである。これには結構深い因縁がある。ということに最近気づいた。というのも、国際政治という学問に失望を覚えたのがイスラムに関係する一文に関する日本で言うところの高学歴のその中でも上澄みに属する人たちのなんとも独善的な反応だったからである。その一文は人権というのは普遍的であり、文化相対主義的な見地からもその普遍性は認められている。すなわちイスラム圏においても人権は普遍的なものとして受容されうる。と。僕はこのロジックが理解できなかった。文化相対主義というのがキリスト世界の崩壊による価値の空中崩壊からきたものであり、それがニヒリスティックに世の中を嘆くのはまだ理解できる。しかし、価値を否定した価値相対主義がいつのまにか人権という価値を標榜して自分が相対主義だよという絶対的なイデオロギーを掲げることにより、こんな傲慢な主張をするのである。そこで僕はなぜ文化相対主義という価値の普遍性を否定する論から人権は普遍的だという結論が出てくるのかという質問を発表者に投げかけた。この質問に返ってきた答えがそれが人権だからというものだ。いや、ちょっと待てよ。人権疑おうよってのがそもそも価値相対主義の姿勢じゃないのかい。。。っていう悲しい感覚に囚われた。いまでは人権の普遍性についてある程度の擁護もわかるし、もっとイグナティエフが言うようなプラグマティックな側面からの擁護などができるであろうこともわかる。ただ人権だからという答えはあんまりじゃないか。そこから国際政治という学問への懐疑が深まることになったのである。おっと、話がずれたが、個人的には人権の普遍性というのはある程度妥当するのではないのかと思っている。ただ、その各論が難しいのであって。。。。というのが今の感触である。

 そして、将来の携わりたい分野として国際援助などに興味があるのだが、そうしたことの基礎付けといのは、センの潜在能力にしろ、なんにしろある程度人権といわれているようなものに絆創膏的になされるしかないのかなという感じがしていて、そのためにもイスラム圏と言われる地域でこれを一括りにすることにも若干の抵抗があるのだが、その普遍性みたいなのが実際どうなのかということについて考えてこられたらなぁというのが妄想である。そもそもの援助の基礎付けがあいまいになって来ているから、それがあいまいなものなのかはたまたもっと強力に基礎付けられうるものなのか、そんなちょっと現実的にはどうでもいいようなレベルのことを考えたい。じゃないと動けないから。だから、いわゆる西洋思想における人権概念の発達とイスラムにおける人権概念を調べ、それの実現はどうなってるのじゃということについてもなんかひとつの長めのリサーチペーパーをかければなぁと思っている次第であります。
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プロフィール
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バータンQ
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男性
誕生日:
1986/01/22
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自己紹介:
大学院で平和構築を勉強中。
スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
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