ブログ初体験である。今までほんとにきらっていたブログなるものを書いてみようと思い立つ。それにはいくつかの理由があるがまず書かなかった理由を考えてみる。
嫌いな理由
・ひと目を気に意識しつつまったく気にしない言葉を見るのが辛かった。
・日記つけるのめんどい。
これ以上思いつかない。
よく考えるとそこまで抵抗感があったわけでもないような気がしてきた。
きっかけはいろいろあるが、大学に入って三年が経とうとするなかで正直パンクしたのである。これはそろそろ整理しないといけない。でもなんかめんどくさくなってできない。あ、ブログにしてみようと。なのでこのブログは自分を探すというか自分を確かめるために書くのだと思う。
自分の思考の助けになればいいなと思い、始めてみる。
もう一つ。
かっこいいというか、大切に思ってるそんな友達がいて、その人がブログをつけている。密かに読んでいるけど、勇気付けられるというか、三年間であらぬ方向にいってしまった僕に一回生のときのなんか素敵な時間を思い出させてくれることがたびたびある。水曜日一緒にのみにいった。
そこでぬるま湯の中で自分が貫いいていると思っていたはずの思いをそいつはずっと熱湯のなかで持ち続けていた。嫉妬心、劣等感、今の自分に必死にかけている欺瞞から目をそらすために反論した。反論した。反論した。
見えてきたのはひらひらの自分だけ。
“妥協したくないじゃん”
現実を冷静に分析したつもりになって分かったつもりになって逃げてただけなのかと、この一年間は悲しいくらいにからっぽだったんだと思い知らされる。
“妥協したくない”、“一生懸命やってんの?”最近属している団体の中でのポジション的に相談にのることが多い。僕がよく口にする言葉。このぬるま湯の団体の中ではそれなりに尊敬信頼されていて、ぱっとみ今の言葉を実践しているように見える。実際は。トータルのじぶんを見たときにそこに甘んじていること自体が妥協の産物なのかもしれない。
“おまえの言うことももっともだよ。でも、おれはこう決めたから。”
おれも妥協なんて、、、言おうとして言葉に詰まる。
さっきの言葉が胸にささって抜けない。はっきりその場で言葉にできなかった自分がつらい。自分ではうまく人波をすべっていくすべだと思っていた妥協。世の中はどこかで妥協線をひいていくしかないと考えていた。自分でひいた偽者の妥協線に包囲された僕は行き場をなくしていたのだろうか。多分行き場を見なくなっていただけなんだろう。
やってきたのは妥協ではなく諦めるということだけだったのかもしれない。
“ダキョウシナイコトガイイコトナノ?”
この言葉と常に格闘してきた大学生活である。
僕は妥協という言葉が大好きだ。でもそれについてはもうちょっと明るい気持ちのときに書いたほうがいいと思うので今日はやめとこう。
最初題名を“初心”表明にする予定だったが書き進めてみて題名を変更した。これが自分にとっての命題なのかもとちょっと思ったりしたからである。
今の自分の考えをここにパックしてあとの自分がこの頃の自分ってすげぇって思えるようなものになったらいいな。
嫌いな理由
・ひと目を気に意識しつつまったく気にしない言葉を見るのが辛かった。
・日記つけるのめんどい。
これ以上思いつかない。
よく考えるとそこまで抵抗感があったわけでもないような気がしてきた。
きっかけはいろいろあるが、大学に入って三年が経とうとするなかで正直パンクしたのである。これはそろそろ整理しないといけない。でもなんかめんどくさくなってできない。あ、ブログにしてみようと。なのでこのブログは自分を探すというか自分を確かめるために書くのだと思う。
自分の思考の助けになればいいなと思い、始めてみる。
もう一つ。
かっこいいというか、大切に思ってるそんな友達がいて、その人がブログをつけている。密かに読んでいるけど、勇気付けられるというか、三年間であらぬ方向にいってしまった僕に一回生のときのなんか素敵な時間を思い出させてくれることがたびたびある。水曜日一緒にのみにいった。
そこでぬるま湯の中で自分が貫いいていると思っていたはずの思いをそいつはずっと熱湯のなかで持ち続けていた。嫉妬心、劣等感、今の自分に必死にかけている欺瞞から目をそらすために反論した。反論した。反論した。
見えてきたのはひらひらの自分だけ。
“妥協したくないじゃん”
現実を冷静に分析したつもりになって分かったつもりになって逃げてただけなのかと、この一年間は悲しいくらいにからっぽだったんだと思い知らされる。
“妥協したくない”、“一生懸命やってんの?”最近属している団体の中でのポジション的に相談にのることが多い。僕がよく口にする言葉。このぬるま湯の団体の中ではそれなりに尊敬信頼されていて、ぱっとみ今の言葉を実践しているように見える。実際は。トータルのじぶんを見たときにそこに甘んじていること自体が妥協の産物なのかもしれない。
“おまえの言うことももっともだよ。でも、おれはこう決めたから。”
おれも妥協なんて、、、言おうとして言葉に詰まる。
さっきの言葉が胸にささって抜けない。はっきりその場で言葉にできなかった自分がつらい。自分ではうまく人波をすべっていくすべだと思っていた妥協。世の中はどこかで妥協線をひいていくしかないと考えていた。自分でひいた偽者の妥協線に包囲された僕は行き場をなくしていたのだろうか。多分行き場を見なくなっていただけなんだろう。
やってきたのは妥協ではなく諦めるということだけだったのかもしれない。
“ダキョウシナイコトガイイコトナノ?”
この言葉と常に格闘してきた大学生活である。
僕は妥協という言葉が大好きだ。でもそれについてはもうちょっと明るい気持ちのときに書いたほうがいいと思うので今日はやめとこう。
最初題名を“初心”表明にする予定だったが書き進めてみて題名を変更した。これが自分にとっての命題なのかもとちょっと思ったりしたからである。
今の自分の考えをここにパックしてあとの自分がこの頃の自分ってすげぇって思えるようなものになったらいいな。
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