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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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現在、将来国連で働きたい人のためのトレーニングセミナーに一ヵ月ほど議事録バイトで入っている。

昨日、今日と面接対策みたいなのがあっているのだが、そこで候補者は自分の成功体験をかっこよくロジカルに語ることを求められる。こんな困難があってこのように解決した。これだけの規模のプロジェクトを実現させた云々。そして皆がなにがしかを持っている。

僕はその成功談の洪水に窒息しそうになって英語をタイプする手が止まった。

国連機関の一つのポストには世界中から云千人という規模の応募があるらしいが、単純計算すると、その全員がきらびやかな成功談を持っていてそれがマネージメントに関わることだと想像したら気が遠くなる。文字通りきらびやかに光る星の数ほどのマネージャーのもとで一体どれだけの人が実働しているのだろうか?いやいない。それだけの成功にあふれてて、国連のプロジェクトがもしくはNGOのプロジェクトが全体としてきらびやかに成功したと言えるケースはどれだけあるだろうか?いやそんなに多くない。個人的に国連の成果がないと言いたいわけではない。特に日本では国連についての報道などはないが、その活動が展開しているところではある程度の成果を残しているようには思うし、なかなか捨てたもんじゃないなぁと思うことも多々ある。NGOについては疑問が残るがまぁぼちぼちとしよう。

しかし、成功談の洪水にさらされた時、僕はめまいがしたのだ。
成功して失敗する。これは単なる言葉遊びであろうか。それとも個人成果と組織のアウトプットは往々にして比例しないとしたり顔で諭されるのだろうか。
僕はこのめまいの原因をもう少し考える必要があると思った。

ルソーは社会状態に置かれた人間と自然状態の人間の差として、ペルソナの出現を説く。その言葉を借りるなら、国連、ひいては平和構築のようなresult-orientedな業界において、それに見合う成功談を"持っているか、持っているふりをするしかなくなる"。『不平等起源論』p.146ということになるのだろうか。
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 シュミットは友敵関係を政治とした。党派性といってもいいだろう。実存をかけた戦いがそこに含意されるべしとしている。ちゃんと論じるともっともっと深いがとりあえず。

内田樹さんがおそらくかなり分かりやすい感じで政治の本質を突いている気がした。かれの慈愛については共感しかねるが、

-どんな隣人でも愛するのですか。
対面的な状況では、隣人をそのまま愛することが可能です。でも、三人以上になると、そうはゆかない。私にとっての二人の隣人が確執し、一方が他方を迫害した場合には、理非を決し、いずれかに加担しなければいけない。それが社会正義というものです。けれども、正義の執行を要請するのは、もともとは不当に傷つけられたもの、奪われたものに対する慈愛の思いです。ですから、ひとたび正義の峻厳な裁きが下されたあと、私たちはまた「正義の名において罰を受けたもの」に慈愛をもって臨むことになります。正義と慈愛はそのようにして循環するのです。

けれども以下はある種の倫理的な問いかけになってくるが、3アクター以上になったときのこの党派性が政治の本質である。そしてどちらかに加担するということに意識的にであれ、無意識的にであれ嫌う人々が、なにかいやなものを形容するときに政治的だね、政治的な話はちょっとと言って政治という概念を貶める。その態度決定自体が一つの政治的決定であることを知らず。

誰がいったか忘れたが、そして忘れたことが致命的だと思い、恥じ入るばかりだが、

誰も政治から逃れることはできない。

ということなんだろうと思う。



 ここ二週間くらいいろいろ細々したことが続いていたのでしっかりと本の感想を書くことができなかった。

 昨日は一日に二つのプレゼンをするという大変な日であったが、今年博士を終える人からいろいろな締め切りの中で自分をマネージメントする大切さを言われていたので、ちょっと忙しい中に敢えてぶっこんでみた。
 
 一つ目はゼミで戦後日本の国連政策について書かれた本のサマリーである。担当したのは吉田首相のプラグマティズムがひかる1956年まで。理論的にいえば大戦後しばらく、日本という国は存在しないが。
 僕は、国連にフォーカスするのはいい視点であるが、国連にフォーカスしすぎることで、国連という実体があたかも独立した領域として存在しているかのような論じ方がなされていることに疑問を呈した。今でこそ、国連はそれ自体が巨大な官僚組織を持って、予算規模の大小はあるものの、いわば単独の単位として想定しうる。しかし、第二次大戦直後において国連を独立した単位として、国際法的に言うと主体として想定して、また日本も同様に主体として想定して論じることに無理があるような気がした。どちらにも主体性がないと言っているわけではなく、この両者にはアメリカという大きな独立変数が作用しているという大前提が論じられていないように思えたからである。確かに、戦後世界におけるアメリカの影響力の大きさは自明視されていて敢えて論じる必要もないのかもしれないが、スエズ危機の記述はそれにしても日本があたかも自由に外交政策を練れたかのように書かれていた。そこに違和感を感じたのである。
 ゼミで議論になったのは、というか僕が提起したのは、国連とはだれか?というシュミット的な主権者を巡る問いである。国連の自足性を自明視しすぎている議論に一石を投じたかったのである。戦後、日本にとって国連はアメリカだった。というのも、占領軍は一応、連合国軍の名のもとにあったからである。戦後、日本は連合国軍によって占領されていた。それがいつしか、アメリカ軍に変わり、アメリカの占領下におかれるという流れをたどることになる。
 そうすると、日本と国連の関係を論じるとき、不可避的にアメリカの持つ影響を評価しなければ、いくら国連との関係にフォーカスするといっても限界があるのではないか。という感じがする。
 まぁ、読んでてあんまりおもしろくない本だなぁというのが所感である。やたら、変な英単語使うし。

 二つ目。ガリさんが書いた「平和へ課題」および、「追補:平和への課題」のサマリー。
 これはおもしろかった。課題がというより、授業でなされた議論が。ガリさんは、この平和への課題において、冷戦後の世界において慣習レベル、もしくは国際実行において確立されつつあったPKOをしっかりと国連憲章の中に定義づけた。それにとどまらず、良くも悪くも、初めて平和構築という概念を示した。他にも平和強制活動の提唱や、非武装地帯の設定の推奨など、おもしろいことをたくさん言っているのだが、それらはまぁ今では行われていないので、スルーした。ただ、人道的介入や、PKOの多機能化、武力化の傾向を鑑みると、平和強制の提唱とその帰趨についてはもう少し現在のアカデミアが論じてもいいのではという感じはするが。
 いずれにせよ、僕がフォーカスしたのは平和構築の定義について。平和への課題においては、平和構築という概念に、極めてあいまいな定義しか与えられていない。それゆえ、現在の過剰ともいえる定義の氾濫と他の活動との境界線のあいまいさなど、いろいろ問題が生じているように思う。これはガリさんのせいではなく、すぐおれたちいいこと言ってるよね的な自己満に陥りがちな、国連コミュニティーとでもいうべきところの性格のせいでもあるし、あまり厳密な定義が求められていないという大人の事情を反映しているものでもある。
 いずれにせよ、平和構築を紛争をマネージできる持続可能な社会を構築することと定義した場合、考慮しなければいけない点はいろいろある。授業のなかで一番議論になったのが、予防外交と平和構築はどう違うのかということ。僕はここに本質的な差はないとした。しかし、大半は予防外交が紛争前で平和構築が紛争後の活動のことであるという意見を持っている。
 
 そして、先生も交え議論が続く。以下は主に授業でなされた議論をもとに、授業の後に先生とかわした議論のメモというか、備忘のためのメモである。先生もこうした定義の問題について僕と同じ方向性の考えを持っており、話が盛り上がった。まだ自分の中でもまとめきれていないが興奮冷めやらぬうちに。
 一点断わっておきたいが、紛争云々、平和構築云々を定義する前に現地のことを考えよという一見もっともらしい反論があるかもしれないが、これについては本当に現地に行ったことがある人はそんなことは言わないよ君、という反論だけさせてもらう。理論は現実を見るためのメガネであり、人が何かを認識するということはそのメガネを通してなのである。メガネが曇っていたら、現地に行こうが、何も得られず漫然と過ごすということもあり得るのである。役割分担的なことがあり、ちゃんとしたメガネを作るにはそれなりにしっかりした道具立てと組み立てが必要なのである。確かに現地で奮闘する人はえらい、しかし全員がえらいわけではない。

 さて、ここで考えるべきは、紛争とはなにかという問いである。また、持続可能なとはどれくらいの期間なのかということである。前者に関して言えば、紛争というのは明確な始まりと終わりががあるのかという一番重要な問いに答えることにつながる。持続可能という言葉をどういったタイムスパンで考えるのかということは一層複雑である。たとえば100年単位で考えたら、日本はいま平和構築の途上にあるのか、中国のとの予防外交に奔走しているのか。あいまいになってくる。
 紛争は簡単に潜伏期間、勃興期、絶頂期、収束期などに分けられるようなものなのであろうか。紛争構造の複雑さを考えると、定義上平和構築と予防外交を定義的に分けることで有意な含意は生まれそうもない。
 実践レベルにおいても、予防外交と呼ばれうる活動群が実際に効果的に行われることはないし、大衆民主主義化する世界において、予防外交のための予算を集めることも難しい。予防を正当化することは実際に起こらなかったことの被害の大きさを喧伝することになり、それはリアリティにかける。警句的に言うのであれば、常に予防は成功しており、その失敗は事後的にしか分からない。そのため、資源を動員できない。
 
 理想は紛争というものを広くとらえ、平和構築概念の事後的印象を相対化していくこと、また、そうした平和構築概念から現実を見た場合どういった事実が明確になるのかという点を詰めることなどが今後の課題である。ただ、広く平和構築をとらえることで相対主義に陥る危険性も無視できない。相対主義ゆえの理論化の放棄はよろしくない。完全な相対主義をいかに回避し、いかに定義付けを行っていくのか。とても長期的な問いである。
 
 そのキーワードは”焦点化”。紛争を時系列的に並べるのではなく、"given conflict"としてとらえなおし、その都度、相対化を回避しようと試みる。これは先生が授業後話してくれた構想であるが、まだ先生自身も明確にまとまっていないようで、今後の課題となった。そこで先生との話は終わったが、自分の現在地を知れた気がした。
 

 よく理論と実践にギャップがある、それは芳しくないことだ。というようなことがまことしやかに言われる。

 ただ、ここに存在するギャップはよろしくないものなのであろうか。もう少し実践にあった理論をといわれる。しかし、いわゆる理論というものはある種の一般化の産物であり、具体的状況における実践とはギャップができて当然である。もっと言ってしまえば、規範理論などはギャップを生み出すことそれ自体を目的にしている。l
 問題なのは理論と実践の間に生じているギャップが誰によって、どのように解消されている、もしくは放置されているのかという、その両者の間に働く力学を明らかにすることなのではないだろうか。ギャップの存在それ自体を議論するのはばかげていて、理論とは良くも悪くもギャップを生じさせることに使命があるのであれば、そのギャップの及ぼす波紋のようなものを記述することのほうが建設的な気がする。その結果理論と実践の双方が変容を遂げていくのではないのかなぁと思う。
 
 あれ、そうなるとギャップがあることを批判するのは建設的ということになるのか。
 
 あ、そうだ、ギャップの存在を理由に理論を否定する実践家が嫌いだということが根っこにあるから、そういう人に向けて書き始めたのだった。実践を否定する理論家も嫌いだけれど。そんな理論家に比べれば前者の法がましな気はする。

 今、大学院試験のために論文を書こうと画策している。テーマは人権の理念と実践。具体的には人権はどこまで普遍化可能なのかということを権利の拡張と実践の開きから最小限の権利にとどめるべきである。というような主張をしようとしている。そのほかは人間の安全保障とかなんかの柔軟な用語で法的にではなく、政治的に実現していくほうがいいのではと思う。NGOとかの人の発言がどうも苦手である。

 というようなことを考えていると、やっぱ人権ってよくわからんなぁと思う。人間は等しく尊厳を持つ。ここらへんから理解ができない。人間は平等でもないし、人の命の重みは等しくもない。そのどうしようもない事実から出発したひとつの物語、フィクションが人権特に消極的自由において与えられるものなのではないだろうか。ということは人権の裏側にはどうしようもなく汚い人間性が隠されており、人間の悲惨さへの小さな抵抗でしかないのでは。人間にはそれだけで生きる権利があるという人権の積極的表現は聞こえがいいが、おそらく事実は逆で、人間は自分以外の生殺与奪を決定できるほどに立派ではない、ゆえに誰も人間が作り出だしたものによって生死を決されることはないというきわめて悲観的で消極的な命題によって基礎付けられるのではないだろうか。と思う。いい人もいれば悪い人もいる。人権は生命の権利だけを認めて、そのほかはそれを司法的正義で断罪するより、人間の安全保障などという得体の知れない概念で政治的に保障していったほうが筋が通っていると思う。

 というようなことを論文にまとめられたらなぁ、と思っているが、なんともまだまだである。

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大学院で平和構築を勉強中。
スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
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