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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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”死ぬ権利はあるのか?””死ぬ権利はある”

 というようなやりとりをどこかで耳にしたか、目にしたことがある。とても陳腐な会話、もしくは宣伝文句であるが、権利という言葉が意味することについて若干書き記しておく。

 そもそも権利という言葉は何を意味するのか。今、世界では人権、人間の権利、基本的人権など、権利に関する言葉が魑魅魍魎のようにうじゃうじゃしており、僕個人はその言葉づかい、いわゆる「権利の話法」に嫌気がさしている。人権は概念的拡大を見せ、やれプライバシーの権利やら、女性の権利やら、環境権やら、勝手に自分でもっとけと言いたくなるものばかりである。
 権利という言葉は、また、権利の話法は、それが実現を目指す価値のユートピア的響きとは裏腹に極めて対決的、攻撃的な言葉である。例えば、人権が意味するのは、人って生きてるだけで素晴らしいってことであるが、人々が人権を持ち出すのは相手の言説を全否定し、イグナティエフの言葉を借りるのであれば、これ以上の交渉不可能性を相手に伝えたいときである。そこに相手を価値を尊重する気配はみじんもない。人権概念については言いたいことはたくさんあるが、もう少しきちんとした、このような雑記形式ではない形で論じたいのでここではここでやめておく。
 
 さて、権利についてである。権利という言葉は西洋の伝統が生み出した概念装置である。古くは誰だか知らないが、いまではドヴォーキンの権利基底論が影響力を持っている。僕は嫌いだが。どちらかというと権利を相対化しようとするハーバマスのほうに好感が持てる。
 いずれにせよ権利というのは生きるために必要なもののその必要性を示すようなひとつの概念装置である。どこまで行ってもそれは手段であり、なんらかの利益になるために主張される。こんなことを言うとドヴォーキンに怒られそうであるが。そのためホッブズが言うように、”権利の放置と譲渡がひきおこされる動機と目的というのは、彼の身がらを、その生命において、また生命を嫌悪すべきものとしてではなく維持する手段において、安全確保することに他ならない”のである。ホッブズに倣って言うなら、自然状態における自己の生命の保存を切実に願う言葉が権利なのである。
 ホッブズの権利理解が正当ならば、死ぬ権利の語義矛盾が理解できるであろう。あくまで生きることを目的にしたときの手段の表明の一形態が権利なのである。そのため、死ぬ権利などは存在しない。死ぬ権利などというものは偉大な発明である権利概念をばかにしていることになる。自殺えせ志願者などが口にする死ぬ権利であるが、死にたいのであれば権利などと言う前にさっさと首をつってしまえばいいのではないかと思う。死ぬ権利の名のもとではなくあくまで権利の外側にある自分の責任の放棄の名のもとに。なんでも権利と言えば済むわけではない。権利という言葉のもつ危険性はその硬直性にある。ここではあくまで生きることを称揚しているわけではない。生きるに堪えない状況というのはあるだろうし生を無批判に肯定したくはない。ただ、自分が死を選ぶことの正当性を権利を使って語ることは少々無理があるのではないだろうか。
 
 ただ、安楽死などを巡る議論の文脈で死ぬ権利が語られたときには事情は若干異なってくるかもしれない。生きるとはどういうことなのかという問いが切実になるからである。生きることを目的にしたものが権利であるが、尊厳ある死も含めて生きるということなのではないのか。修辞的に言うのであれば、死ぬ権利を行使することで生かされるのではなく、生きるという逆説的な状況がありうるのではないか。そのような疑問を生じさせる。あくまでも古典的権利理解に固執するならば語義矛盾として一掃できるが、問題の本質の解決というよりは解決の放棄である。(*ただ、ここにおいて安楽死と自殺の決定的な定義わけができているわけではない。議論が生半可な自殺志願者への嫌悪に引っ張られている。。。。今後の課題)
 そして、こうした問いは更に大きな問いを放つ。古典的権利概念を軸に組み立てられた法制度の限界である。権利・義務関係として人間関係をとらえることの限界が明らかになっているのではないだろうか。このような状況に権利概念の修正、拡張を通じて取り組むのか、新たな概念装置の発明を待つのかは明らかではないが、いざうれにせよ凡人にできることは新たな概念装置の発明に役立つような修正・拡張の試みである。
 
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自然状態の仮定から、社会契約を説いたのは偉大な思想家ホッブズであった。それがロック、ルソーと続き、現代ではロールズがややこしい契約論を記している。

その偉大な思想家ホッブズを最近読みかえいしているのであるが、前回読んだ時の記憶がない。線は引けども、理解をしていない。ということで初読だという感覚で読んでいる。
読んでいて思うのは、まず、自分がやっとこさ、ホッブズが言っていることをある程度理解できるようになったということ。決して全部ではないが。。。これに尽きる。解釈学的循環の輪の中にやっと入れたということであろうか。おそらく僕はその外側にいたような気がする。この表現が解釈学からして適切かはたぶん微妙だと思うけれど、実感としてそんな感じである。

まぁ、個人的な実感はこの程度にしておいて、思いついたことを少しここに記録しておこうと思う。
備忘のためにここに箇条書きして後から詳しく書くという感じにしたいが、過去すべてそれが中途半端に終わっているので、今回はどうにか書き終えたいと思う。
①進歩史観
②生きる権利と死ぬ権利
③言葉に宿る魂と英語
最後の③についてはホッブズの内容というよりは自分の妄想なので、ホッブズに怒られるかもしれない。

さっそく、進歩史観について。

 最初に断わっておくが、僕はここでホッブズが進歩史観に立って物事を論じているということを言いたいわけではない。究極目的は存在しないというホッブズはもちろんそういった考えを否定する。逆であり、僕が無意識のうちに進歩史観にたって偉大な思想家の著作を読んでいたということである。そして、僕はその傲慢さに、というか無知さにバスの座席の片隅で恥じ入ったのである。畢竟して言ってしまえば、昔の人なのにいいこと言ってんじゃんみたいな感覚、現代にも通じるよねみたいな感覚を持って最初読んでいたということである。この進歩史観を僕は採用しないし、ある種の嫌悪感を抱く。ここで自己弁護をさせていただくと、完全に進歩史観に浸っているというわけではなく、進歩史観の残滓の匂いがしたという程度であると弁明しておきたい。

 進歩史観というのはダーウィンが適者生存により唱えた進化論を人間社会に応用するところに特徴がある(たぶん。その歴史はもっと古いのかも)。これによりいわゆる文明国家たる西洋が他国に近代化をすすめるという、また文明の発達についての時系列的な優劣を論じる人々が出てくるのである。ヘーゲルからナチスに至るまで、またヘーゲルを批判的に継承したマルクスなど、進歩史観がいきつく先はある種の革命理論である。進歩する方向性があるということはそのベクトルの強さを強めればよい。そういうことになるのである。現在では、フランシスフクヤマが歴史のthe end of historyを著して脚光を浴びた進歩史観。その進歩史観に自分がある程度与していたことはショックであった。
 僕が進歩史観を嫌う理由は、使い古された言葉になるが、人の生の一回性ということになろう。進歩する未来があるのであれば、道具化する人間が出てくる。しかし、一人ひとりの生はそれ自体が一回ぽっきりぶっつけ本番であり、それをある方向に進歩する歴史の道具に堕するのは理論としていかがなものかという気がするのである。歴史の中に人の生があるのではなく、人の生の積み重なりが歴史なのである。社会制度はあくまでも文脈依存的なものであって、その時代その時代の問題を反映し、ある種の時間的風化に対する耐久性というものは弱い。そうである以上、人間の歴史を見た限り、進歩というよりは同じことのく返しであり、ある種の相対主義的な前提に立つべきであろう。ここで断わっておきたいのは、人の生が一回きりだから生きる価値があるとかそういう説教じみたことではない。ただ、人は進歩できるほどに賢くはないということである。究極の例を挙げるのであれば、進歩できるのであれば戦争はなくなるということ。全体としての物質的繁栄、発展である。進歩という価値的地平、キムリッカに従うのであれば平等性への志向を実現するような、前進については人間はできないということが妥当である。
 おそらく物質的には過去より現在のほうがはるかに発展している。ただ進歩はしていない。こういう信念にもかかわらず、自分にそういう側面があったことは今後の課題であろう。確かに理論自体のレレヴァンスは理論が文脈依存的である以上現代の書物に比べて低いのは当然である。しかし、その低下とホッブズの知性の高さは無関係である。その書物が書かれた文脈に即して、その書物を理解する。そんな常識的なことを本を読みながら実践するのがどれほど困難なことか思い知らされたのである。
 自分は思想史を専門にしないが、一個の著作から一つの言葉を引用するというときに、小野先生が書いた「古典を読む」という本に書かれていることを肝に銘じて今後も研究を続けられればと思う。それは長くなるが以下のようなものである。

 わたしたちは、様々な手掛かりによってある古典を選び、自分の問題関心からそれを自由に読んで、その結果、そこに共感できる部分、役に立つ部分を見出して満足するのです。・・・・・その読み方は完全に自由であり、もっとはっきり言えば自分勝手であり、著者の意図、真意などは無視してもかまいません。・・・・・でも、古典を読むことを研究している研究者にはこのような読み方は許されません。著者が具体的な読み手として誰を想定しているかは極めて重要な問題であり、その点を明確にするためにはそれが書かれた時代状況を明らかにすることが決定的に重要です。

 僕の専門は一応国際政治ということになるので、こうして研究された古典を現代的課題に応用するという側面が入ってくるが、古典を「学問的に」読むということは常に意識しなければならないと思う。学問的な含意以外にも、やはり古典といわれるほどの書物には素晴らしい言葉の数々がおさめられていることは言うまでもないので、そこはそこで個人的には存分に楽しんでいる。
 

 道徳的に考えること(R.M.ヘア)

 ここ最近、就職組みからのアプローチが多い。みな、つかの間の夏休みをとっているようだ。僕はというと例のごとく外見上はお気楽な身分なので、みんながごみを捨てにやってくる。こういうとき、素直にうれしい。学生時代にゴミ箱だったときは恒常的にごみを捨てられるものだから、うんざいりするが、たまに捨てられるごみはなかなかリサイクルの見込みがあるのである。
 
 今日は特にうれしい人とのお茶であった。なぜかその人の友達もきた。驚くことにその友達は僕が以前所属していたサークルを使ってこの夏インドにインターンシップに行くらしい。世の中というのは狭いものである。少し思ったことがある。そろそろ潮時かなと。そろそろなんか活動を開始せねば。書を捨てよ、町に出ようと思う。そろそろ頭ではわからなくなってきたのである。

 頭ではわからなくなってきたということに関連して、問いの次元ということについてメモしておきたい。社会人になった人と話していて、今は多分過渡期で思考する余裕がないことも手伝っているのであろうが、ある程度形而上的で規範的な議論が好きだった友達の問いの次元が変わっている事に気がついた。より、現実的になっているし、学生の立場からしたらしょうがないという言葉が増えたように感じた。おそらくそれが現実なのであろう。しかし、僕はまだそのステージに立っておらず、抽象的で奇麗事に近いことをいう。僕の口から出る言葉はいくら現実主義的でもそこに現実的という形容詞は似合わないのである。そのことをひしひしと感じた。そしてそろそろ潮時かと。ある程度体を動かすということをはじめないといけないと思った。共通して言うのは現実の重みと責任の重みがてんで違うということである。

 以上は今日の簡単な出来事なのであるが、問いの次元ということを考えたときに、道徳のレベルについて体系的に論じ、功利主義の立場から明瞭な規範倫理学を示したヘアが思い浮かんだ。彼は、日常的に直面する種種の状況においては規範的、批判的に思考する間はない。むしろそうしたことを行うことが不道徳である。そうしたときはいわば自分が属する文化なり常識の文脈にそって直感レベルでさまざまな判断をしていけばよろしい。いざというときのため、直感レベルでの価値判断基準の葛藤が起こった場合に批判的レベルでの判断を導入すればよろしいということを言っている。この一年半くらいは僕は批判的レベルに特化していた。というかそれしかできない。なぜなら現実に直面することがないからである。でもそろそろ現実で実際に自分がどういった判断を行うのかを見ていかなければならない。時期的にはちょうどいいみたいである。
 
 それともうひとつ。今日あった友人はしきりに、自分はなにがしたいんだろうと言っていた。働く以前はそんなこと気にせず、おれはかっこよくなりたいといっていた。それを指摘すると、忘れてた、といった。最近はいろんなことを忘れると。一カ月おきにかっこいいかというメールを送ってくれと冗談半分でいっていた。現実のいわば脊髄反射的な判断のなかで生きていくということはなかなかに難しいものだなと思った。そしてそれである程度はいいのだと思う。批判的レベルでの思考は常にし続けるものではない。ただ、批判的レベルを忘れてはやっぱいけないのではないかと思った。分業でもいいと思うけど。あと、僕は決して逃れられない負の連鎖の世界に飛び込もうとしているのだろうなということはなんとなく感じた。
 そこでは“人が殺されるのが正当化されるのはいかなるときか”という問いが半日常的に想起される領域なのである。そしてそれは批判的レベルでの思考を絶対的に必要とするものなのであるが、そんな暇はないのである。そしてその問いは、いままで自分が生活をしてきた地域社会などとはまったく関係ないところで起こっていることであって、それに従事する人というのはあまりいない。そのことは自分の使命感を掻き立てると同時に全能感へと堕落させる危険性をはらんでいる。そして、問いの立て方と答え方がどうしても具体性を欠くことになる。あくまで直感レベルでの葛藤が起こったときに要請されるはずの批判的レベルでの思考が常態化してしまう恐れがある。誰も考え付かないことというのには一種のエクスタシーが付随するものである。そして、直感すらもが鈍ってしまう。その友人は通勤の電車での人々の会話を聞いて、あぁ、自分のしてることってまったく日常生活と関係ないんやなと正気に戻ったらしい。これでこの日常との接点をたってしまったらやばいことになると言っていた。

 話が支離滅裂だが、いいたいことは、彼が忘れたくないというかっこよくなりたいという思いは、僕にとっては死んでいい命はないのだという自分になりたいというのと同じである。かれはその原点を忘れることでかっこ悪くなると今日自分を思い返して恥ずかしそうに言った。そしてかっこよくなるためには常にかっこいいか自分、かっこ悪いところはどこかと問うのである。ある状態を達成するために常にそれに背反することを想定し続けること。これはとても示唆に富む。僕が死んでいい命はないといい続ける、そのためには直感的にそれを持ち続けなければならないのだが、カミュがペストや異邦人で問い続けたように、“人が殺されるのが正当化されるのはいかなるときか”と問い続けることもしなければならない。そしてその問いに埋もれてしまってはだめである。電車のなかで人の話を聞きながら僕はこの問いを自分に遠慮がちに問うのである。ただ、自分でも好きか嫌いかわからない特性がある。この問いにぶつかって判断を下す自分は、その判断に快感を覚えるであろうことを否定できないのである。
 
 友人とは問いの立て方が違うからこのようにダイレクトにこじつけてしまうのは少し違うが、話をしていて、連想してしまったのだからしょうがない。僕は根底に死んでいい人はいないというのを持っている。それは忘れてはだめな気がした。

 これは3/22付け日記。編集の間違いでここに来てしまった。。。

 今日はちょっと本を読んだ。堤未果さんのアメリカ弱者革命という本。ちょうど半年前にバイト先の人に借りたのだけれど今日始めて手に取った。

 よく、物事を多面的に見ることが大切だとか、物事の一面だけを見て判断するなとか、真実を知ることが大切だということが当然真であるように言われる。僕は分からない。そうしたことがどういったことに繋がるのか。知ってどうするというのだろうか?何かにプラスに働くことなのかもしれない。ただ、これに便乗して使われる言い訳がある。
 
 ”まだ自分はよく事実関係を知らないので。物事を多面的に見れないので。判断はできません。”
 
 あなたはもし真実を知れて、多面的に物事を見れるようになったと仮定したとき、そのとき責任を放棄したその判断を下すことができるのだろうか?そこでの価値判断をするほどの価値基準が自分の中にあるのだろうか?それが分からない。この本を読んでいてそんなことを思った。

 イラク戦争で一番被害をこうむっているのはイラクの住民かもしれない。でも同じくらい、アメリカ兵もしんどい思いをしている。僕は最初、感情的に、アメリカが起こした戦争なんだからそんくらいがまんしろよ!!と思った。でも戦争を起こしたのは実際は誰なの?アメリカが起こしたという。じゃあアメリカの誰が?戦場で人を殺したのは兵士かもしれない。じゃあ戦場に兵士を送ったのは?そこに集団の決断という非人格的であるがゆえに非情になれる何者かのそんざいがあるような気がした。
 誰が悪いのかよく分からなくなる。でも自分は日々なんらかの判断をしていかなければならない。
 
 すごく無責任な話をさせてもらおうと思う。この本には、イラクに派兵されたアメリカ兵やイラク戦争に反対する人の活動が書かれていた。読んでいて、自分が体験したことない範囲の出来事で、想像もつかないことがたくさんあった。ただ悲惨なのだろうということが伝わってきた。しかし、心底そう思えない自分もそこにいた。心のどっかで自業自得だろ、と思っている自分がいて、自分たちが起こした戦争で自分で苦しんで本にまでして、イラクの人の声は届かないのだと思っている自分がいた。たまたま今回手に取ったのがアメリカの人に立脚した反戦の本だったのだが、先にイラク人視点で書かれているものがあったらどういった感じ方をしたのだろう。もっとストレートに反感を覚えたのだろうか。はたまた、アメリカ兵も大変だよねと素直に共感できていたのだろうか。よく分からない。

 こんな思いと共に、正直戦争に巻き込まれざるを得なかったアメリカの人たちの現状をはじめて体験に立脚した形で知ったことの衝撃もかなり大きかった。はじめて米兵被害○○名という被害の中身を知った気がした。イラク人はもっと。でもその被害の中身に量的差はあっても質的に差はないのだろう。と素直に思った。矛盾した考えが頭をよぎった。

 物事を多面的に理解して。そのあとは?そのあと自分はどうするのか?物事を多面的に理解して混乱する。その先を誰か教えてください。と思ってしまった。迷うことに意義があるのだろうか。そういうなんとなく青春的な感じでごまかしてみる。

 話は変わって。
上層部からしたら戦争ってチェスみたいなものなんだろうな。と思った。インドに旅行に行ったとき、王宮の遺跡に言ったのだがどんな世界遺産よりも自分の中では衝撃だったことがある。その王宮には人間サイズのチェス盤があるのだ。王様が地上2~3階からチェス盤に並んだコマ(人間)を動かしてゲームを楽しむのだそうだ。そのコマは裸の女性であったり、コマ同士の戦いをさせたり(聞いた話なので事実的確証は曖昧なところですが)。それでも地球を舞台に行なわれる戦争ゲームよりはいくらかましだと思った。でも真っ先にそのチェスのことが連想された。最低な行為であることに変わりはないのかも。人間の本質はあまりにも変わっていないのだなと自分を省みつつもとても悲しくなった。違う種として認識しているのだろう。
 
 ちょっと印象的な言葉があったので引用してみたい。

 「人間を動かす二つのテコは恐怖と利益である」(ナポレオン)

 これと似たような記述がこの本の中にも見られた。きれいごととは分かっていても心のそこから賛成はしたくない。
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大学院で平和構築を勉強中。
スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
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