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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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 道徳的に考えること(R.M.ヘア)

 ここ最近、就職組みからのアプローチが多い。みな、つかの間の夏休みをとっているようだ。僕はというと例のごとく外見上はお気楽な身分なので、みんながごみを捨てにやってくる。こういうとき、素直にうれしい。学生時代にゴミ箱だったときは恒常的にごみを捨てられるものだから、うんざいりするが、たまに捨てられるごみはなかなかリサイクルの見込みがあるのである。
 
 今日は特にうれしい人とのお茶であった。なぜかその人の友達もきた。驚くことにその友達は僕が以前所属していたサークルを使ってこの夏インドにインターンシップに行くらしい。世の中というのは狭いものである。少し思ったことがある。そろそろ潮時かなと。そろそろなんか活動を開始せねば。書を捨てよ、町に出ようと思う。そろそろ頭ではわからなくなってきたのである。

 頭ではわからなくなってきたということに関連して、問いの次元ということについてメモしておきたい。社会人になった人と話していて、今は多分過渡期で思考する余裕がないことも手伝っているのであろうが、ある程度形而上的で規範的な議論が好きだった友達の問いの次元が変わっている事に気がついた。より、現実的になっているし、学生の立場からしたらしょうがないという言葉が増えたように感じた。おそらくそれが現実なのであろう。しかし、僕はまだそのステージに立っておらず、抽象的で奇麗事に近いことをいう。僕の口から出る言葉はいくら現実主義的でもそこに現実的という形容詞は似合わないのである。そのことをひしひしと感じた。そしてそろそろ潮時かと。ある程度体を動かすということをはじめないといけないと思った。共通して言うのは現実の重みと責任の重みがてんで違うということである。

 以上は今日の簡単な出来事なのであるが、問いの次元ということを考えたときに、道徳のレベルについて体系的に論じ、功利主義の立場から明瞭な規範倫理学を示したヘアが思い浮かんだ。彼は、日常的に直面する種種の状況においては規範的、批判的に思考する間はない。むしろそうしたことを行うことが不道徳である。そうしたときはいわば自分が属する文化なり常識の文脈にそって直感レベルでさまざまな判断をしていけばよろしい。いざというときのため、直感レベルでの価値判断基準の葛藤が起こった場合に批判的レベルでの判断を導入すればよろしいということを言っている。この一年半くらいは僕は批判的レベルに特化していた。というかそれしかできない。なぜなら現実に直面することがないからである。でもそろそろ現実で実際に自分がどういった判断を行うのかを見ていかなければならない。時期的にはちょうどいいみたいである。
 
 それともうひとつ。今日あった友人はしきりに、自分はなにがしたいんだろうと言っていた。働く以前はそんなこと気にせず、おれはかっこよくなりたいといっていた。それを指摘すると、忘れてた、といった。最近はいろんなことを忘れると。一カ月おきにかっこいいかというメールを送ってくれと冗談半分でいっていた。現実のいわば脊髄反射的な判断のなかで生きていくということはなかなかに難しいものだなと思った。そしてそれである程度はいいのだと思う。批判的レベルでの思考は常にし続けるものではない。ただ、批判的レベルを忘れてはやっぱいけないのではないかと思った。分業でもいいと思うけど。あと、僕は決して逃れられない負の連鎖の世界に飛び込もうとしているのだろうなということはなんとなく感じた。
 そこでは“人が殺されるのが正当化されるのはいかなるときか”という問いが半日常的に想起される領域なのである。そしてそれは批判的レベルでの思考を絶対的に必要とするものなのであるが、そんな暇はないのである。そしてその問いは、いままで自分が生活をしてきた地域社会などとはまったく関係ないところで起こっていることであって、それに従事する人というのはあまりいない。そのことは自分の使命感を掻き立てると同時に全能感へと堕落させる危険性をはらんでいる。そして、問いの立て方と答え方がどうしても具体性を欠くことになる。あくまで直感レベルでの葛藤が起こったときに要請されるはずの批判的レベルでの思考が常態化してしまう恐れがある。誰も考え付かないことというのには一種のエクスタシーが付随するものである。そして、直感すらもが鈍ってしまう。その友人は通勤の電車での人々の会話を聞いて、あぁ、自分のしてることってまったく日常生活と関係ないんやなと正気に戻ったらしい。これでこの日常との接点をたってしまったらやばいことになると言っていた。

 話が支離滅裂だが、いいたいことは、彼が忘れたくないというかっこよくなりたいという思いは、僕にとっては死んでいい命はないのだという自分になりたいというのと同じである。かれはその原点を忘れることでかっこ悪くなると今日自分を思い返して恥ずかしそうに言った。そしてかっこよくなるためには常にかっこいいか自分、かっこ悪いところはどこかと問うのである。ある状態を達成するために常にそれに背反することを想定し続けること。これはとても示唆に富む。僕が死んでいい命はないといい続ける、そのためには直感的にそれを持ち続けなければならないのだが、カミュがペストや異邦人で問い続けたように、“人が殺されるのが正当化されるのはいかなるときか”と問い続けることもしなければならない。そしてその問いに埋もれてしまってはだめである。電車のなかで人の話を聞きながら僕はこの問いを自分に遠慮がちに問うのである。ただ、自分でも好きか嫌いかわからない特性がある。この問いにぶつかって判断を下す自分は、その判断に快感を覚えるであろうことを否定できないのである。
 
 友人とは問いの立て方が違うからこのようにダイレクトにこじつけてしまうのは少し違うが、話をしていて、連想してしまったのだからしょうがない。僕は根底に死んでいい人はいないというのを持っている。それは忘れてはだめな気がした。

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