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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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 自分が今の生活を選んで早、四ヶ月が過ぎた。そしてこれから一ヶ月はおそらく院試の準備に追われるだろう。そうすると、レールに復帰するまであと半年なにをするのだろうかということについてここで少し記録しておこうと思う。

 まずイスラム圏に行くことである。これには結構深い因縁がある。ということに最近気づいた。というのも、国際政治という学問に失望を覚えたのがイスラムに関係する一文に関する日本で言うところの高学歴のその中でも上澄みに属する人たちのなんとも独善的な反応だったからである。その一文は人権というのは普遍的であり、文化相対主義的な見地からもその普遍性は認められている。すなわちイスラム圏においても人権は普遍的なものとして受容されうる。と。僕はこのロジックが理解できなかった。文化相対主義というのがキリスト世界の崩壊による価値の空中崩壊からきたものであり、それがニヒリスティックに世の中を嘆くのはまだ理解できる。しかし、価値を否定した価値相対主義がいつのまにか人権という価値を標榜して自分が相対主義だよという絶対的なイデオロギーを掲げることにより、こんな傲慢な主張をするのである。そこで僕はなぜ文化相対主義という価値の普遍性を否定する論から人権は普遍的だという結論が出てくるのかという質問を発表者に投げかけた。この質問に返ってきた答えがそれが人権だからというものだ。いや、ちょっと待てよ。人権疑おうよってのがそもそも価値相対主義の姿勢じゃないのかい。。。っていう悲しい感覚に囚われた。いまでは人権の普遍性についてある程度の擁護もわかるし、もっとイグナティエフが言うようなプラグマティックな側面からの擁護などができるであろうこともわかる。ただ人権だからという答えはあんまりじゃないか。そこから国際政治という学問への懐疑が深まることになったのである。おっと、話がずれたが、個人的には人権の普遍性というのはある程度妥当するのではないのかと思っている。ただ、その各論が難しいのであって。。。。というのが今の感触である。

 そして、将来の携わりたい分野として国際援助などに興味があるのだが、そうしたことの基礎付けといのは、センの潜在能力にしろ、なんにしろある程度人権といわれているようなものに絆創膏的になされるしかないのかなという感じがしていて、そのためにもイスラム圏と言われる地域でこれを一括りにすることにも若干の抵抗があるのだが、その普遍性みたいなのが実際どうなのかということについて考えてこられたらなぁというのが妄想である。そもそもの援助の基礎付けがあいまいになって来ているから、それがあいまいなものなのかはたまたもっと強力に基礎付けられうるものなのか、そんなちょっと現実的にはどうでもいいようなレベルのことを考えたい。じゃないと動けないから。だから、いわゆる西洋思想における人権概念の発達とイスラムにおける人権概念を調べ、それの実現はどうなってるのじゃということについてもなんかひとつの長めのリサーチペーパーをかければなぁと思っている次第であります。
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1986/01/22
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大学院で平和構築を勉強中。
スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
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