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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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 大人になるのはいつか。最近のマイテーマである。と思っていたら、いつも読んでいる内田さんのブログに面白いことが書いてあった。カミュの引用をしているけれど、どれからの出典かわからない。帰ってカミュを読み直さなければ。下のカミュの引用に現れているような命題は異邦人において一般的にはラディカルと言われるような形で示されている。僕はあまりラディカルだとは思わないけれど。でもやっぱりカミュはよい。

内田さんのブログより。

なぜ、そのことをしなければならないのか、その理由を「それがもたらす利益」によって実定的に言うことはできないが「どうしても、そのことをしておかないと、 『よくないこと』が起こりそうな気がする」という直感に基づいて、誰にも命じられず、誰にも責任の分担を求めず、固有名において「そのこと」を敢行できる人間、それが「大人」である。
カミュが言ったように「いかなる上位審級も規矩として機能していない局面で、なお適切に行動することができる能力」が人間の真の人間性を構築しているのである。
「大人」というようなむずかしいものに定義の決定版があるはずはないのだが、とりあえず、これが今日の「大人の定義」である。』

 そんなことを考えていると、自分が“概念”と言う言葉を日常の会話の中で使うようになったのはいつからかなぁという疑問がわいてきた。大江健三郎は「壊れものとしての人間」のなかで、読書は真の経験足りうるか、それによって育てられた想像力は現実世界への想像力たりうるのかということについて述べているわけであるが、そのなかで、象徴という言葉について、そのもととなったSYMBOLとの緊張関係を述べている。言葉というのは一種の概念記号であり、その言葉の裏側には大きな語られなかった闇があるのである。大江健三郎にとって故郷の河を泳ぐあゆは図鑑にのっているあゆとはまったくの別物であり、この両者の緊張関係というのは避けられないものである。象徴という言葉に関して言うと、これは第二次大戦後、神格化されていた天皇が人格化され、象徴天皇としての地位を得るにいたるわけであるが、この和製の“象徴”という言葉に込められた意味と、英語でのSYMBOLに込められた意味はおのずと正反対であるという事実がある。否定的、消極的な前者に対して、肯定的積極的な後者である。ということである。確かに。現在、その違和感は少なくなって来ているものの、直訳するとどうしても象徴になるのであるが、その違和感を抑えるため、日本ではシンボルというカタカナができたのではないだろうか。おっと、脱線してしまった。大江健三郎はこの象徴ということばを小学校の作文で用いたらしいのだが、先生に新しい言葉を用いようとする心意気やよしと言った具合に評価されたらしい。ほかにもこの本は、読書の経験が架空であるにしろ、自身への衝撃は現実のそれと同等どころかむしろ上回ることすらありそれをどう理解するべきかなど、いろいろ示唆的で面白いのだが、まだ文章にできるほど理解できていないので妄想のきっかけになったことだけここに記して先に話をすすめる。
 この象徴をめぐる逸話は僕の大学一年生のころにだぶる。僕は一年生時、物見遊山的に哲学の講義に出ていた。そこではシニフィアンとシニフィエの違い、概念とはなにかなど、ようするに外国語が話されていた。当時僕は概念と言う概念がわからないと言っていたが、今思えばこの発想ができる分ある程度体得はしていたのであろう。個人的には概念と言う概念がわからないとのたうちまわり日常の事象に埋もれているほうが楽しかったのであろうが。この概念と言う言葉をある程度理解し、少々の違和感で使えるようになったのは確か、プラトンのイデア界についていろいろ聞き、それが数学と非常に親和的であるというか、そういった話を聞いたときである。あ、概念は概念でしかないんだ。と思った記憶がある。それでは人はいつから概念操作を覚えるのであろうか。これはかなり早い段階である。概念を通して世界を見るのは言葉を覚え始めてからであろうが、それを操作して遊ぶのはおそらくは小学校低学年から中学年くらいではなかろうか。こんなことはたぶん、発達教育学とかの文献読めばすぐ出てくるのだろうけど、自分の体験ベースにしたい。要するに自分が概念操作で遊びだしたのはいつからだろうか、ということである。ひとつの試金石がある、不謹慎ながら、クレヨンしんちゃんの作家が亡くなってくれよんしんちゃんについて考えていたときに連想されてしまったのであるが、それは“雲古味のカレーとカレー味の雲古たべるならどっちがいい?”というよう投げかけである。これに対する答えは人それぞれであろうが(味がどうあれカレーはカレーだと言う理由で雲古味のカレー派が当時有力であった)、これは二つの概念を組み合わせ現実には当然には存在しないものを実態として想定すると言う意味でかなり高度な概念操作だと言えるだろう。このように自分は概念をすでにつかっていたのだなぁと思うしだいである。ただ、概念という言葉そのものは大学2回生以降だと思う。

 くれよんしんちゃんといえば、よく母親とそのすばらしさについて話し合ったものである。PTAのあたまかちこちのばかなおばさん連中がみさえという呼び名が教育上よくないだとか下品だとか言って今は母ちゃんになっているし、見せたくない番組のわーすとをいつも記録している。そういう世間の反応については野原家の真実の愛などという戯言に踊らされない家族愛のあり方、一般的にくだらないとされることのよさを説く世の中に対する見方の大切さを反論したい激情に苛まれたものであった。あんたらの品行こそが下品極まりないんじゃないかと。変な理屈つけて反論するそのやり方が、純粋なしんちゃんのすばらしさとのコントラストでとても醜く感じたのを覚えている。
 時々飲むとクレヨンしんちゃんねたで盛り上がる友人がブログの中で
『ただ、不謹慎かもしれないけど、せめてもの救いなのは、
やっぱり不運な事故だったという事。
報道などで「自殺では?」というのが取り上げられていましたが、俺は事故だと信じていました。
だって、飛び降りるつもりで崖に立ったなら、
しんのすけに「ずるいゾ!」って言われるに決まってるじゃないですか。 』
と書いている。やられた、と思った。この「ずるいゾ!」が妙にリアルにその顔までが思い浮かんだときはこの友人にしてやられたと思ったし、そのリアルさを自分のどこかに残してくれたくれよんしんちゃんに感謝したいと思う。
 
 はて、題名の「おとな。」であるがこの「。」がこのような用いられ方をするようになったのはモーニング娘。からであろうか。この「。」は本来一文をびしっとしめる役割を負っている記号であるがこの使い方はなんとも面白い。少子化でなく増子化社会であると説く内田さんのブログを言い換えれば、この国にあふれているのは大人というよりこの「おとな。」のような気がする。といえるかもしれない。
 
最近読んだ本:壊れものとしての人間~活字のむこうの暗闇。大江健三郎
或る女。有島武郎。ほかに小さき者へはかなりよい。涙しました。
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1986/01/22
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自己紹介:
大学院で平和構築を勉強中。
スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
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