今、大学院試験のために論文を書こうと画策している。テーマは人権の理念と実践。具体的には人権はどこまで普遍化可能なのかということを権利の拡張と実践の開きから最小限の権利にとどめるべきである。というような主張をしようとしている。そのほかは人間の安全保障とかなんかの柔軟な用語で法的にではなく、政治的に実現していくほうがいいのではと思う。NGOとかの人の発言がどうも苦手である。
というようなことを考えていると、やっぱ人権ってよくわからんなぁと思う。人間は等しく尊厳を持つ。ここらへんから理解ができない。人間は平等でもないし、人の命の重みは等しくもない。そのどうしようもない事実から出発したひとつの物語、フィクションが人権特に消極的自由において与えられるものなのではないだろうか。ということは人権の裏側にはどうしようもなく汚い人間性が隠されており、人間の悲惨さへの小さな抵抗でしかないのでは。人間にはそれだけで生きる権利があるという人権の積極的表現は聞こえがいいが、おそらく事実は逆で、人間は自分以外の生殺与奪を決定できるほどに立派ではない、ゆえに誰も人間が作り出だしたものによって生死を決されることはないというきわめて悲観的で消極的な命題によって基礎付けられるのではないだろうか。と思う。いい人もいれば悪い人もいる。人権は生命の権利だけを認めて、そのほかはそれを司法的正義で断罪するより、人間の安全保障などという得体の知れない概念で政治的に保障していったほうが筋が通っていると思う。
というようなことを論文にまとめられたらなぁ、と思っているが、なんともまだまだである。
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