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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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 今日のゼミは日本そして戦後における平和構築についてであった。先生による発表で、現在に至る日本が抱える様々な問題をとりまく構造を明治以降の大きな流れの中でとらえるという、とてもスリリングな視点を提示していただいた。
 
 その中で、留学生からなされた質問が、
 ”なぜ、一般の日本人は9条を受け入れたのか?”
 というものである。

 上記の問いには政治的に言って、吉田首相のバランスオブパワーの考慮と、プラグマスティックな政策決定という側面が強調されて説明される傾向にある。そしてそれはかなりの程度妥当するであろう。
 しかし、なぜ、武力を放棄した9条がなんなく受け入れられたのか?そこに外国の人はかなり当惑するようである。それに対する答えは、おそらく、負けたから、それもコテンパンにというしかないのではないだろうか。当時の文脈で考えた場合、おそらく憲法というもの国内ましてや国外に対してもつ長期的影響力に自覚的だった人がどれだけいるだろうか。朝鮮戦争以降の自衛隊の組織につながる流れから見ても、おそらくはプラグマティックな理由が先行するのである。そのとき憲法はどのような意味合いを持つのかというのは憲法学者が盛んに論じることであろうが、平和構築という視点から、もっと大きくは政治的視点から憲法を論じるならば、それは一つの大切だが絶対ではない誓いというものであろう。
 日本は負けたから、そしてそれが原爆という日本全体としては象徴的なイベントによって、そして、東京裁判という、悪の根源を確定させるイベントによって、日本人が純粋な被害者として自身を観念することができた故に、日本はスムーズに軍事国家から平和国家へと変貌を遂げられた。それに加え、被害者という地位がほとんどの人に長期的スパンを伴う思考能力を低下させた。被害者が望むのは即時の救済であり、自分の生活の確保である。そのため、日本全体として、どういった戦略を練るのかそれはいわゆる政治家にゆだねられたのである。その結果、憲法はすんなり受け入れられた。平和という言葉は打ちひしがれた日本人に心地よい響きをもたらしたのであろう。
 要するに、明確な信念のもと賛成反対が投じられたわけではない。それが実情であろう。

 ではなぜ、現在に至るまで、憲法の改正が行われないのか?

 これはシンハラのスリランカ人留学生からなされたものである。自衛権を放棄するなど考えられない、という考えが根っこにはある。まず、自衛権に関してであるが、現在の世界の中で自身を明確に自衛できる国がどれほどあろうか。EU諸国は旧ユーゴ地域の紛争を通じて自国の軍事力の稼働性の低さを痛感した。軍事的に考えてオペレーショナルな軍隊はアメリカ意外に見当たらない。そのアメリカでさえ、9.11を見たらわかるように、その軍事力は国を守るのに十分ではないのだ。そう考えると、自衛権と軍隊いうある種の伝統的な法的フィクションとエリート層の心理的恐怖という面から軍事力を理解するということに限界が生じてきているということが分かる。ナイのソフトパワー論のような多面的理解を必要としている。そのため、自衛権の放棄ともとられる9条解釈というのはそれほど現代の状況を説明しない。もちろん、大戦直後においてそうした条項が盛り込まれたことのもつ意味は大きいが、上述のように多くの日本人に自覚されることはなかったのである。
 
 そして逆説的ながら、文脈の変化によって、憲法9条をとりまく状況が変わったがゆえに、要するにパワーに占める軍事的要素の影響力が相対的に低下したがゆえに、憲法9条が持つインプリケーションが日本国内においても国際関係においても低下しているということが言えるのではないだろうか。そのため、特に憲法改正が現実に結びついたものとして論じられることが少ないのである。
 
 もうひとつの側面として、経路依存という要素がある。現在、日本は憲法を変えたくても変えられない状況にある。ということがある。おそらく冷戦中などであったらより強権的な少なくとも軍隊を認めるような憲法に変更することができたであろう。しかし、冷戦が終わってしまったがゆえに、そして、日本が西側陣営というよりは東アジア、アジアパシフィックというコミュニティーにより深くコミットするようになったがゆえに、憲法の変更は難しくなった。東アジアはまだしも、アジアパシフィック地域は冷戦を経験しているとは言い難く、いまだ第二次世界大戦後の残滓の部分的にはあると言ってもよいだろう。そのため、ここでの急な憲法変更は、フラッシュバックを起こし、ある種の抵抗を招くことを考慮し、憲法を改正しないのである。二重の時間が流れる関係性の中で、現状維持というのが大勢であろう。
 
 それでは今後どういうグランドデザインを描くのか。これはまた改められたらと思う。
 

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 人はいつから大人になるのだろうか?

 おそらく永遠のテーマだ。
 20歳になったら。18歳になったら。家庭を持つようになったら。云々。
 そもそも大人なんてのはいなくて大きくなった子供がうじゃうじゃしているだけだ。云々。
 遠い目をしてため息をつくようになったら。二日酔いのつらさを乗り越えられたら。云々。
 詩人的に、あきらめるということを美化するための方便だ。云々。
 問い自体が不適切で、起点があるような概念ではない。気づいたらなってるものだ。昨日が今日になるよう  に。昼が夜になるように。

 そんなことを考えていたら、蚊に刺されたとき自由に掻けるようになったらなのではないかと思うことがある。幼いころは掻いちゃだめでしょと言われていた。そしたら掻きたくもないのに無性に掻きたくなり、それを隠れて掻いて、悪いことをしていることへの一種の憧憬が満たされるのを感じていた。別に掻くこと自体が至上の快感を与えてくれるわけではないのに。にじみ出てくる血のようにじんわりと満足感を僕に与えていた。そして白いtシャツについた、布団のカバーについた血の痕を見て、そのじんわりとした満足感が押し花のように作られたものに成り下がるような寂寥に襲われるのであった。大人になったら、誰の目も気にせず、布団のカバーについた後を怒られることもなく、文字通り縦横無尽に掻きまくれる。掻き放題である。全身血だらけである。そしてその後に来るのはむなしさ。寂寥は埋めることができるがむなしさはむなしいだけである。
 あのころの満足感はない。脊髄反射的な快感がそこにあるだけである。
 
 大人になるということは、喜びや苦しみの純度を増すということであり、それは喜びの価値を逆説的に損なう。なんだかわからないが、とか、いろんな要素が絡み合ってなんとなく、とかのほうがなんだかたのしいのである。別に痒いからという理由だけで掻いたわけでもないし、隠れてこそこそしたかったからだけでもない。掻けといわれても掻いただろうし、痒くなくても掻いていたかもしれない。山田詠美が学問の中で言いたかったことはこんなことなのではないかなとふと思う。

 とりあえず、流行語大賞は政権交代で決まりだろう。そしてその流行語大賞という賞が持つ安易でつかみ所がなく、でも漠然と大きい、そして一過性のそんな響きを伴って、政権交代が行われた。

 ヒトラーというのは学問でも社会からでも広く、“悪”をなした人であるという例外的に強い共通認識の下に捉えられている。なぜその例外的に強い共通認識が生まれたのか。それは私家版ユダヤ文化論で内田たつるが言うようなメカニズムが働いているような気がする。その共通認識の根底にあるのは、ヒトラーの悪性ではなく、人間存在の悪性を見事に暴く結果になったヒトラーを含め一連の動きに対する、一種のアレルギー反応といってもいいだろう。ヒトラーそのものというよりは、ヒトラーという抽象的に作り出された観念にいろんな意味が込められたというべきである。そして、人々は腫れ物をさわる思いでそれを遠巻きに見ているだけである。ヒトラー以前の進化論的資本主義・民主主義万能論や、法実証主義、など、そうした人間の盲目と弊害の鮮やかな発現が重なり、ことは悲惨になってしまった。その反動でその悪を独りもしくは一国の責任としていわば社会のエラーとして葬り去り、忘れてしまう、なかったことにする。抽象化、対象化し、自分とは違いものとして対置し、安心を得るのである。大戦を機に、自由民主主義は修正を迫られ、その正統性においても冷戦初期には社会主義に駆逐されんばかりの衰退を見せたのである。そして社会主義というユートピアはヒトラーが明るみにした人間の悪性(便宜的に用いる。意味合いとしては、ヒトラーになぞらえて悪とされたものの、それと根を同じくする人間の本性的な性質のことを言っているのであり、記述的な意味で用いている。)を乗り越えられず、その後、その悪性を良くも悪くも、利益と個人と合理性というレトリックで彩った民主主義が、痛みを忘れたころに再興したのである。ヒトラーの存在は後世の人間からするときわめて興味深い事例となる。オルテガイガセットは大衆の反逆(これは第一次世界大戦付近にすでに出ていた)の中で、フロムは自由からの逃走といういわば逆説的な名の著書で非常に示唆に富む指摘をしている。ヒトラーの存在が衝撃的であったのではなく、それを自らが設計した制度の中で、進んでむしろ期待を込めて選択した人々がかなりの規模存在したということがなんともおおきなインパクトを残したのである。
 一方で、輝かしいとされている英雄もいる。ナポレオンなんかは内実はともかく好ましく語られるし、そもそも秩序を最初に構築するときにある種の暴力が非合法的に行われることは少なくないのである。

 さて、前置きが長くなったが、よく、”英雄がいない時代は不幸である。しかし、英雄を求める時代はもっと不幸だ”などといわれる。それでは英雄を求めて英雄を得れない時代というのは絶望というべきなのだろうか。個人的にはヒトラーがこの国にたまたまいなかったことがせめてもの救いであるように思われる。マスコミの誇張によると歴史的大勝ということだが、郵政から始まり、こんな短期間に歴史的大勝が二度もあるなど、人類史的奇跡とでも呼べばいいのだろうか。マスコミと大衆の責任者なき共犯が繰り返されているだけである。そしてそれは歴史的大事件でなどなく、日常的平凡な出来事である。半世紀前とはその危険性も規模も違うものの、似たような動きがあった。人々は構造改革へとなだれて自ら手にした自由をもてあまし、そこから逃れた。そして、人々を逆へと振る指揮者がいなかった。これは不運というべきだろうか。なんともアイロニカルである。現在進行形の出来事を過去との類推のなかで同一視して語るのは時に危険であるといわれるが、今回の場合は、差異性や絶対性よりもその共通性や相対性に少し目を向けてもいいのではないだろうか。

最近読んだ本。かなえられない恋。
山本文緒のエッセイ。結局ブツヨクザウルスはミエハリドンの子供なのかもしれない。
僕はゲイである。そんな告白をしようとしているのではない。男子短距離の選手、タイソンゲイについてである。

彼はどんな心持なのだろうか。ボルトという怪物がいるために、おそらくはずっとNO2であり続けるだろうことに彼は何を思うのだろう。彼はボルトが世界新を出した後の会見で正真正銘ボルトがNO1だということをすがすがしい面持ちで話していた。おそらくそれは本心からくる言葉であろう。その差は0,1秒強。それがどれだけの差であるか本人が一番よくわかっているのであろう。ゲイの決勝での記録も恐るべきものである。ボルトさえいなかったらそんな思いが一度として思い浮かばなかったかといえばうそになる、ただ、アスリートとして脱帽するしかないというのが記者会見での気持ちなのではないだろうか。多分、おだゆうじよりも、一視聴者よりも二歩先を駆け抜けるボルトを追いかけていたゲイがそのすごさを痛感しているであろう。記録とかそういった次元ではなく純粋な走るという行為の姿を。僕自身は50Mが七秒中盤の人間であるのでもはや世界新だと言われてもそのすごさはわからない。いつもバスケットコートで追いつけなかったあのキャプテンの速さのほうが僕にはすごいと感じる。間近で、しかも頂点でそのすごさを見せ付けられたゲイ。彼はいったい何を思うのか。自分のふがいなさか、決して届かぬ頂への憧憬か、純粋なる喜びか。僕は純粋なる喜びをどこかで湛えてほしいと思う。これはあまりにも他人事の絵空事かもしれないが。

ボルトは何を思うのだろうか。誰もがボルトが優勝することを疑わず、記録のみを期待していたといっても過言ではないだろう。独り頂に立つボルトは平然としている。平然とすることの難しさを誰も省みることはないのが残念である。ボルトは記録を出したことがすごいのだろうか。多分違うと思う。常に万全の状態でレースに臨めているというのがすごいのである。日本の選手はほとんどがPBはおろかSBすらだせていない。極度のプレッシャーの中で怪我をせず、自分をマネジメントし、結果につなげる。ほんとはその部分が一番すごいところではないのだろうか。僕にはあの世界記録と言われるもののすごさは実感できない。ただ、こうした舞台で常にあっけらかんと走りぬけることができる、そのすごさはわかる。

と、まぁよくわからない陸上界のことについて書いてきたわけであるが、まぁ結局はゲイの憂鬱もボルトの苦しみもよくわからないということである。
 二連投。

 今日、平野啓一郎の講演会に行ってきた。なんとも興味深いものだった。

 やりたいこととできることとなすべきことの三つのバランスを物書きは考えなければならないと言っていた。あと、魔女狩りとの関係で、人(あるべき自分とあるべきではない自分を含む)に罰を下すことに付随する恍惚、アイデンティティーの崩壊と外部に敵を作ることの関連性。人との係わり合いについて(分人)→概念的にはペルソナと似ている。これからの将来に予想される人格→自己同一性ではなくて、相対的な多様な自己に対する比重のおきかたが大切になるだろう。かいつまんで言えばこんな感じである。備忘のため。
 
 でじゃぶだ。今日、その前の友人との会話で宇宙人が来れば地球人になれるよという話を結構真剣にアイデンティティーとの関連で話していた。その意味では今日はとても長く同じようなことをだらだらと考えていたことになる。
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大学院で平和構築を勉強中。
スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
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