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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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 僕は学者を将来の進路として志望している。分野は何かと言うと、よくわからない。聞かれた人によって答えを変えることにしているが、研究テーマについては法律と暴力のはざまに興味があるというのが精確なところだと思う。それでは該当する学問分野は何かと問われれば、国際政治、国際法、国際関係論、憲法学、政治哲学、法哲学、法社会学、などが関連分野としてぱっと挙がってくる。現在、専攻は平和構築ということになっているが、それはそうした法と暴力の問題が極めてアクチュアルな様相を伴って立ち現れるからである。
 
 個人的な興味はこんな感じなのだが、専攻の性格上、そこにはユートピアニズムにどっぷりと浸かった人が一定数存在することもある。そこには、人が分かりあえる日を信じて疑わない人が存在し、時に美辞麗句で持って、その理想を語る。その姿は、対他的というよりは自己中心的で、説得的というよりは陶酔的である。学部のときから、そういった類の人から好かれる存在では決してないが、学部の時から変わったのは、そうした人を目の前にして、ある種のまぶしさを覚えなくなったことだろうか。当初はやっぱりカッコイイと思った時もあった気がする。
 しかし、彼らの一つの傾向性に疑念を抱くようになってから、そうしたものもなくなった。その疑念とは、「人は理解しあえると思っている人たちは、人とは理解し合えないと思っている人たちと、理解し合おうとしない」という傾向性に対するものである。理解できないと思っている人たちに彼らが向けるまなざしと言うのは、時に憐みであり、侮蔑である。そして、時には敵対的な視線である。そしてそうした視線は今の世界で、寛容という名の下の不寛容となって、ときには視線がミサイルに姿を変えて投げかけられることになる。まぁ、話を単純化しすぎたし、レトリックにすぎる言葉になってしまったが、そうした傾向性には注意を向ける必要があるだろう。
 彼らは"Conflict resolution"をあくまで目指すのであって、"Conflict management"なんぞいう悲観的な考え方を受け入れない。その姿勢があらたな"Conflict"の要因になるとはつゆ知らず。僕は前者には与しない。どんなに悲観的だと言われようと、争いは生じるし、それが悪いことだとも思わない。

 それではそうした原則を持って、学者としての立ち位置をどう考えているのか。これは二つ目の大きな問いである。今までのが、目的に関する議論だとしたら、今からのは手段に関する議論と言えよう。そして、手段としてなぜ、暴力と法のはざまの研究を選ぶのかということにもつながってくる。

 まず、学者は、道具を作るものだと思っている。だから自分の言説にはプロフェッショナルでなければならない。それではその道具の使用方法についてどの程度責任を持つべきか。それは取扱説明書を作るまでと言わなければなるまい。そのあとはやはり政治家なり、実務家の領域である。それでも、その誤った使用方法で批判が出たならば、甘受しなければならないと思う。その正しいと自分が思う使用方法を広めていくのもまた大きな役割であるように思うのだ。
 そして、現在の状況を鑑みるに、暴力と法のはざまにおかれた人間に用意された道具が極めて少なく、稚拙であるというのが現状に対する認識だ。リビア空爆を批判する人がいたら、それを説得的に果たして展開できただろうか?推進派ですらそれは怪しい。それではその効果は?また、日本において、政治の醜態が露見されるが、代替案を示す力と知性はいずこへ?こうした問い、法に従うでもなく、暴力に訴えるでもなく、そのはざまんで、その両者にぶら下がりつつ、なんらかの“正しい”もしくは“適切な”、“妥当な”方策を考える際の語彙が著しく少ない。特に日本において、そうした語彙は、要するに主体性を持った語彙はないに等しい。そして、それに形を与えることで、先の"conflict management"はもう少し見晴らしのいいものになるのではないか。こうした、動機によって、研究は進められている。

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4月8日にパソコンに打ち込んだやつをアップしてみる。


今、南相馬市にボランティアに来ている。

昨日までは戸別訪問をしていたのだが、今日から託児所での子供のお世話ということになった。

その託児所というのが、パチンコ屋の二階にあり、普段はパチンコ店の従業員やパチンコにくるお客さんのためのものであるそうだ。極めてクールないや、倫理的ともいえるパチンコ屋の戦略にぞっとした。そしてパチンコ屋らしく、その設備は豪勢そのものである。ゲームの量にはびっくり。

ただ、現在は地域住民に対して解放されていて、と言っても知名度が低いので大人数来るわけではないが、幅広い層の人々がやってくる。

 

被災地の現時点での役割は少なくとも三つほど考えられる。子供のケア、母親父親のケア、地域ネットワークの構築、促進である。ここで重要なのが子供のケアもだが、両親のケアである。子供を一定時間預けることで、避難生活の苦渋から一定程度解放される部分はあるようである。なのでボランティアの多くは、親御さんの話し相手ということになる。

 

では残った子供たちをどうするか。僕の出番が訪れた。僕はたぶん、子供の扱いには慣れている、というより、子供一般が僕の扱いに慣れているため、かなり打ちとけられやすい方だと思う。今日もご多分にもれず、その特性を如何なく発揮し、一日を過ごした。

僕の基本的な戦略は、子供の年齢層によっても違うが、子供にとっての共通の悪役を作ること、つまり、僕が子供内に派閥を作らせて、けんかさせるのではなく、僕という敵を子供が協力して倒すという構図を自明な形ではないにしろ、関係性の中に滑り込ませることである。そうすると、結構楽しく、やれる。しかし一つ大きな問題は、その悪役のキャパシティである。これを見誤ると信頼関係は一気に崩れるように思う。何人までなら引き受けられるか、どれくらいの強さの悪役になるか、これは歯ごたえがなさ過ぎてもいけないし、逆に強すぎてもいけない。こうした絶妙な塩梅によってというか、ほぼ一生懸命全力で子供に立ち向かっているだけなのだが。。。。だいたい仲良くなれる。

もうひとつ、重要なのが子供の視線の意味についてきちんと自分なりに解釈しようとする姿勢は見せなければならない。マストである。子供はいわゆる社会化がそこまで進んでいないため、人間関係の中でのグルーピングの基準が極めてシビアである。視線の意味が理解されないことをおそらく理解している、その姿勢を見ているような気さえする。それでは構って視線を出された時、すぐ近寄っていけばいいのか。いやツンデレであることの魅力も捨てがたい。云々。。。

いろいろ書いてきたが、結局そんなことじっさいにかんがえちゃぁいない。一生懸命楽しんでいるだけである。本当に楽しかった。アスレチックで遊んで、マリオカートして。お話して。

 

本題に入ると。

こうした被災地における子供のケアとはどうあるべきなのだろうかということについてとうとうと悩んでいる。

通常だと、こうした託児所には資格を持った保育士なりが常駐しており、ことは進められる。しかし、そうした人たちが軒並み避難してしまってスタッフがいない、ボランティアだけという状況において、子供が被る影響とはどんなものなのか。こうした問題群に僕は突き当たってしまった。

 

まず、ボランティアの問題は資格がないことはもちろんのこと、最大の問題は、アドホックであることである。人は初対面の時、緊張する。それが会話・ふれあいを通じて緩和もしくはその逆になったりする。たとえばそれが毎日繰り返されるという状況はどう感じられるだろか?実際に子供に起こっている状況である。今日来る人と明日来る人が違う。毎回ゼロから人間関係を始めて、そして終わる。その繰り返し。ストレスの発散の場としての託児所が深層部分で大きなストレスとして作用することはないのだろうか?

また、震災直後というこの特殊な状況の中で、子供たちに必要なものは他でもない安心感であるように思う。そうした場合、頻繁に入れ替わるメンバーというのは逆効果をもたらしはしないだろうか?人への不信感を深める方向に。おそらく、彼らは分かっている。どうせまた来ることはないし、いつかどっかに行くことを。しかし、大人が避難した状況の中で、ボランティアがそのアドホックさゆえに、不信感を加速させることはないだろうか?

ボランティアが彼らにとっての非日常であるために、彼らを必要以上に刺激してはいないか?高校の時、保育園に行ったが、毎日あなたたちのようなテンションで子供たちに接することはできないし、することがいいとも限らないと言われたことを覚えている。

こうした疑念が頭をぐるぐる回る。

あと、写真に向けた彼らの嫌疑的なまなざし。今日、最後に活動報告用に写真を取らせてもらった。団体からの出資で活動をしている以上、報告義務があるのだが、僕はどうも写真を取ることに抵抗を覚える。ただ、以前からこの託児所でボランティアをやっている人が僕なら快く子供達も受け入れてくれるだろうとお墨付きをくれたし、僕も記念に写真を取っておきたかったので、頼んでみた。実際子供たちに抵抗はなかったし、楽しい感じで撮影が終わった。しかし、そこに映っている顔は僕が最初に来たとき、コミュニケーションの最初に見せた、ないまぜになったものだった。こうした大人の事情を彼らは感知している、どこかで。それが嬉しいと同時にそれを見せなければいけないのがとても嫌だった。子供がピュアだと言いたいわけではない。ただ、関係性の中にそうしたものをしのばせるのが嫌だったのだ。そしてそうした写真が勝手に解釈されることが嫌だ。少女とハゲワシの写真のように。彼らのそのまなざしが容易に震災の苦しみの顕然であるかのように扱われるのが。

 

別れ際に彼らはとまどいながらまたねと言ってくれた。また明日ねと。そして、あ、週末はここが休みか。じゃあまた、月曜日ねと言ってくれた。しかし彼らのうちの一人がしまったという顔をして、ばつが悪そうにうつむいた。しっかりした女の子が言い直して、じゃあね、バイバイと言った。また月曜ね。と言うとみんながぱっと顔を明るくしてもう一回はっきりとまたねと言ってくれた。

 

僕は決して、日常的な安心感を与えられる存在ではないし、その必要もない。ただ、少しだけでもなにかへの不信を取り除くことはできるのではないだろうか。少なくともその瞬間彼らの心の中が混乱していたことは確かである。それでも、バイバイではなく、またね、が最初に出てきた言葉だったのがせめてもの救いである。それはばいばいを月曜日に先送りしただけなのかもしれない。そして中途半端な情は、かえってマイナスなものなのかもしれない。僕には分からない。分からない。でもまたねとばいばいの間で揺れ続けるしかない。僕はその間に立って訳知り顔で思考停止にはなりたくない。今度は一緒に遊んでいる時のような顔の写真を報告用ではなく彼らとぼくとの写真として取れればいいなぁと思う。
先日、地震があった。

その被害の大きさ、甚大さについてどうだこうだと言えることはない。そして、その地に赴き、何かをしようと行動する人が存在することも研究室で異臭を放つだけの僕から比べればとても心温まる光景である。
政府は民間援助団体、NGOなどとの連携対策本部みたいなのを立ち上げた。迅速な対応だと思う。

僕は安全地帯にいて、それを生身の体で感じることは到底できないし、その安全地帯に偶然いたことを喜ぶべきですらあるかもしれない。そして、そのような僕が何を言おうと机上の空論になるきらいはまぬかれない。

ただ、違和感を感じるのは、お祭りと化した周りの、特にはメディアの反応である。皆が地震を一様に取り上げる。一定程度は理解できる。それだけの大きな出来事である。しかし、同じ映像、同じ写真を同じ時間に、多様な媒体がこぞって報道することに何の意味があるのだろうかと思う。
そのヘリコプターの一台を救援に回せばいいのに。スーツにヘルメットでニュースを読むアナウンサーの後ろの報道室ではふつうの格好をした男性がかけずり回っている。なんとも滑稽だ。
ニュージーランドでは上空のヘリコプター規制が行われたらしい。
天災には党派性がない。そのため、政治家におんぶだっこの日本のメディアは報じ方に気をもまなくてもよい。共通の悪に向かって皆で闘おう。とでも言わんばかりである。本当にそうだろうか?

他の地にいる人々の反応もあまりなじめない。みな被害を悲しみ、人の親切をはやしたてる。なぜ今回だけ?

人々は劇場という密室の中で、純粋な悲劇を目撃し、憤り、聖人となる。劇場の外には悲喜劇織りなす混沌が広がっている。
 だいぶ前、どこかの新聞で読んだ記事に下のようなものがあった。

 ”うつ病者、自殺者の増加による潜在的経済被害規模が~~経済機関の試算によると○○億円に上ることが判明。~~が対策に本腰を入れる必要を認識・・・”

 かなり曖昧な記憶で本当に情けないが、まぁなんとなく概要は分かるかと思う。ふーむ。
 
 経済学の専門用語に機会費用というものがある。もっともらしく言えば、機会費用とは、「効用、利潤、または厚生を最大化するためにある選択肢をとることで失われた選択肢のうち、その効用、利潤または厚生が最大のもの」ということができる。分かりやすく言えば、もしもの世界で一番好ましい世界とでもいえようか。
 経済学が機会費用という便利な概念を発明し、人々は”たら”、”れば”の世界をも数値化することに「成功」した。そしてそれは法哲学の分野においても、法解釈を柔軟にすることに貢献したと言われる。確かにそうなのであろう。しかし、上の記事は機会費用という概念の使用方法とでもいうべきものに気を配る必要性を示しているように思われる。

 機会費用は、こうであったかもしれない世界を想定し、それと現実との比較を可能にすることで、より、効率的なベネフィッシャルな社会を可能にする。のかもしれない。確かに死者が消費活動をすれば、うつ病者が毎晩居酒屋に出かければ経済効果は上がるのであろう。だから、そうした人への対策をしようと。流れは理解できる。
 ただ、思うのは、その機会費用なるものに彩られた世界に嫌気がさした人がそれへのアンチテーゼをそこまでいかなくとも違和感を、身をもって示そうとしている人がおり、それがその人たちかもしれないという可能性である。そうした社会に意識的にであれ、無意識的にであれ、包摂されることに嫌気がさした人々を、当の社会の動機と手法によって解決しようとする。そのようなことが可能なのか?
 そこになんとも短絡的な発想のむなしさを見る。

 エレベーターというのは不思議な空間である。見知らぬ人々が一堂に会し、外界の喧騒がうそのようにそこには沈黙が流れる。ある人は入口のボタンに手をやり、ジェントルマンを演じ、ある者は後ろ手でドアがしまらないうに抑えながら外界へと復帰していく。そこには役割の重複がある。効率的ではないが、人々の何気ない良心の重なりというのは見ていてほほえましい。
 
 とまぁ感傷的な文章はここまでにしておいて。

 僕には日ごろから人知れず心に留めるようにしていることがある。そして、人はそれを聞いて大抵、失笑混じりに変態と言い、ある人は露骨に気持ち悪がる。それはエレベーターに関係していることなのであるが、僕がエレベーターに関することに興味を持ち始めたのはまだ日が浅く、今年の5月くらいである。というのも、今年の四月から初めてエレベーターのあるマンションに住み始めて、デパートで乗ることしかなかったエレベーターが日常と非日常の過渡期にあったのがちょうどそのときだったからである。エレベーターが日常の中にある異物という感覚がぬぐえない中で、僕はエレベーターを観察するということを始めたのである。なので、同じことに気を留めている人がもしいたら僕などまだぺーぺーの新米ということになろう。

 それは一般に五月病と言われる、ただやる気がなんとなく出ない日であった。その日は図書館に向かい、誰とも会話がなく帰宅した。会話がないこと自体はなんとはないことなのであるが、その日読んだ本の寂しさが、僕を人の気配に敏感にさせていたのかもしれない。僕は上矢印のエレベーターのボタンを押し、その箱が降りてくるのを待った。そしてドアが開き、中に入るとふと人の気配を感じた。しかし顔をあげてもそこにだれかがいるわけでもない。正確には僕は人の気配を感じたのではなく、人の匂いを感じたのである。そこに誰かがいたという痕跡を僕は感じていた。それは憚らずに言えば、きれいな、少なくとも身だしなみに気をつけていそうな女性の匂いだった。実物を見たことはないし、見たいとも思わないが、それ以来エレベーターにうっすらとある人の残滓を観察するのが、日課になっていた。
 ある日はギャルっぽい香りがし、ある日は風呂に入っていない男子、またある日はがつがつしてそうな男、素朴な人、などその残り香はなかなかに僕を楽しませてくれていた。もちろん、毎日その残滓があるわけではなく、それは脱ぎたての靴下の香りのようなもので、しばらく経つと消えてしまう、薄らいでしまうものである。名誉のために断わっておくが、ときたま素敵な匂いに心休まることもあるが、なにも、匂いふぇちなのではない。ただ、あの日以来、観察することそれ自体が少し面白くなってきたのである。
 
 しかし、今日この日に、強烈なそれゆえトラウマになりかねない体験をした。そこにあったそれは僕に観察することを不可能にした。客観的距離をとるすきを僕に与えず、僕の芯にある主観的な感性に、こう言ってよければ、感覚に訴えかけてきた。研究室に向かうエレベーターの中に、それはあった。残っていたのではなく、残滓ではなく、たしかに現存在としてそこにはそれがあった。そしてそれは人なるものとは全く別物で、それでいて、人と無関係というわけでもない存在である。それは人から発せられ、発せられた瞬間に、その人から分離し、確かな実存性を持つようになる存在である。他者を寄せ付けない圧倒的存在感、そしてその威圧的風貌に似つかわしくない匿名性、すべてが僕を凌駕した。それは鼻から入ってきて、鳥肌を誘発する。4階に到着するまでの間、僕はそれに包囲され、翻弄された。4階に箱が到着し、ドアが開き、僕は外に出た。しかし、去っていく僕の後ろ姿を、背中を、それはすぐには放そうとはしなかった。エレベーターから降り、速足で右に曲がり5歩ほど歩くと、やっとのことで、それはもう霧散していた。

 人は、それをこう呼ぶ。「へ」、と。
 エレベーターの恐ろしさをざらざらとした肌触りのなかで感じた瞬間、いや、時間であった。

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自己紹介:
大学院で平和構築を勉強中。
スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
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