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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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 本日二度目の投稿である。さっきはきっかけについて書いたので、今回は終わって感じたことを今を時間軸にして書いてみようと思う。
 
 サークルが終わって、みんなの前で卒業宣言みたいなものがある。卒業式の答辞みたいなものである。そういう場所で僕は今まで号泣しないことがなかった。ことあるごとに僕は号泣で締めくくってきたのである。だが、そのときの僕は全く泣けなかった。みんながなにに感動しているのかが本当に分からなかったのである。こう言うと非情な人と思われかねないので弁明しておく。僕は自慢じゃないが、2回生の終わり、自分が責任者をしていたプロジェクトの打ち上げのときどっきり色紙を渡され、公衆の面前、居酒屋の真ん中で大泣きしたのである。それについてはまた後日。僕のサークルの全部が詰まった出来事だった。

 そう、話を戻すと。僕はサークルが終わる日に泣けなかったのである。なぜか?一言で言うと、自分がその年一年間頑張らなかったという一言に尽きるだろう。
 
 結論に入る前に、それまで特に2回生のときまでの自分について振り返っておこうと思う。

 僕のこのサークルでの活動は浮き沈みの激しいものであった。自分がというより、人からの評価がという意味で。僕は前回書いたように、一年生のとき、自分が尊敬する先輩に認められようと必死で頑張った。しかし、そこで僕が尊敬していた先輩というのは、どこかこのサークルに対して、否定的、よく言えば自省的な人たちであった。そのためか、このサークル最高といっている人、もしくはそれに準ずる人(僕がそういう人たちがきらいなのでこういった表現方法を取る)からは若干疎まれていた。類は友を呼ぶとはよく言ったもので、僕の周りにはそういう人たちが集まっていた。そしてそれをよく思わない人もまた多数いたのである。
 そうする中で2回生のとき、活動をメンバー全員に承認してもらわないといけないのであるが、そこで僕が責任者のチームは見事つぶされたのである。今となっては納得のいく結果である。組織に対して、否定的で腐った態度をとり、活動はさせてくださいという。そんなの問屋がおろしません。そういった意味で2回生のときの僕の全体的な評価というのは一部を除き、相対的に低いものであっただろう。
 そんな周りの評価を尻目に、自分のチームは驚くべき活動成果をあげる。活動の総括において、意義を唱える人は皆無だった。周りの不平を実力でねじ伏せた快感に浸れた。同時にここにこれ以上いても面白くないんだろうな。という気持ちが芽生えた。自分に反対していた人もそれなりの理由で反対していたはずである。それが成果を出した途端手のひらを返したような態度である。そこに失望を覚えた。
 2回生までの自分とというのは人のことを省みず、ひたすらに突っ走ってきた。その分充実感があった。いい仲間にも恵まれた。

 三回生。2回生までのときとは打って変わって。周りの評価が高かった。それと同時に僕からした周りへの評価は下がっていった。手を抜いてもすごいといわれる。一生懸命がんばってもすごいといわれる。そんな中で最初は頑張った。自分がしたいことがあり、それを実行に移そうと走り回った。ものの、そのアイデアにみんなは賛同するのであるが、そこまでの変化を望まない、そんな状況になった。僕がいた二年間でこの組織はかなりの発展を遂げたと思う。先輩をはじめ黄金期だったのだと思う。しかし、そのあとに残ったのは保守的な集団だった。二年生のときよりも責任が重いポジションについていたこと、そろそろ自分の進路を考えないといけないこととかが手伝って、僕の熱意は失われていった。それらを言い訳にしたといわれればそれまでだが、やはり、そこがそれぞれがサークル活動でやっているということの限界点なのだろうと思う。視点を変えると、そんな調子でも周りの評価はうなぎのぼりである。気持ちいいものである。今まで組織という文脈の中で肯定されることの少なかった人間の言うことをみんなが聞くのである。

 僕は手を抜く術を覚えていた。そしてそこに安住していたのである。自分のしたいことより、みんなのためになることをしているんだといういいわけを使って。おかげさまで、僕を慕ってくれる後輩は増えた。サークルを終えた今でも相談をしに来る。ただ、僕が2回生のときまでに築いてきたような全力の人間関係かといわれると、やっぱりちょっと違う。自分が三回生のとき具体的に何を感じて、何が今の自分に繋がっているかといわれると、言葉に詰まる。

 さて、だいぶ前に書いたことに戻るのだが、頑張るということは相対的なものではなくて、絶対的なものなんだと今更ながら痛感する。
 周りからがんばっているといわれた三回生のときの僕は絶対的にがんばっていたのではない。だから、なにも残らなかった。何も残らないという事実が残った。ほんと目の前のことに全力投球だった1、2回生のときは相対的にはがんばってないという人もいたが、絶対的に頑張った。だから今の自分の根底にあるもののちょっとした土台になっている。
 母親によく言われることがある。勉強ができることについてほめてくれたことがない。いつも母はそのときいつも僕に言う。
”あんたがんばってないでしょう。”
 その通りである。反対にバスケットを六年間続け、部活でどべのスポーツテストの点数にも関わらず、スタメンになれたとき、そしてその試合が終わったとき、そうしたときはほめてくれた。がんばったねと。顔を見れば真剣さが分かるらしいのである。僕はそういう意味でこの一年間へらへらした顔をしていたのだろうと思う。
 
 自戒を込めて。

 頑張るということは相対的なものでなく、絶対的なものである。また、結果によって判断されるものではない。人が評価を下すものでなく、紛れもない自分自身が評価を下すものである。
 
 誤解を招かないように言っておくと、現在進行形の事象について自分でがんばっていると言っている場合、十中八九それはがんばっていない。がんばっている最中に自分ががんばっているか否かなんて判断する余裕なんてないのである。木を見ている最中に森が見えるはずがないのである。あれ?ちょっと違うか。。。
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 今回は、サークルを終えての感想をここに書いておこうと思う。はじめてきちんとした形で振り返るので、とりとめもない文章になることが確定である。どうかこれを読み直す未来の僕よ。寛大な心で読んで欲しい。

 大学の三年間の生活のほとんどを費やしてきたサークルでの活動がこの春無事終わった。どんなサークルに属していたかというと簡単に言えば、国際交流系のサークルである。世界各地にあるところが最大にして唯一の魅力だと思っている。

一年生のとき。
 このサークルに入ったきっかけは今思えばなんとも奇妙な、そして当時の自分には運命的な出会いであった。新歓ムード一色にそまったキャンパスの中に、突如表れた変人三人組。この三人に圧倒されて、国際交流系のサークルに入ろうと思っていた僕は、このサークルに入ることをためらったのである。
 入門編としてその三人の風貌だけをここに記す。1人は、そう鴨川ホルモーに出てきてもおかしくないよな人だった。着物姿にろんげ、うさんくさいとんがり帽。それに黄色いサングラス。キセル。統一感ゼロ。キーワードがあるとすれば、変ということだけであった。まずその人が僕の行く先をさえぎり、両端から残りの2人が僕の脇をかこった。これは渇上げというには余りに間抜けな、でもどきどきの一回生からしたら、それよりも恐ろしい瞬間であった。残りの2人はというと、全身黒ヘビメファッション、春の温かい日にひたすら熱そうなマフラーの好青年”風”の2人であった。僕はこのまま大学で変人と化してしまうのか。。。それも本望かもしれない。などと逡巡している間に、一向は地下に。。。
 
 この大学は学食が地下にある。いかにも怪しい感じである。この大学の、よく言えばどこか厭世感溢れる、悪く言えばただ陰気臭い雰囲気は食堂が地下にあることに遠因があるのかもしれない。
 人は見かけによらぬものである。話が弾む弾む。自分の外見の方がむしろあってないのではないかと不安になり、周りを見渡してちょっと安心する。あっという間に1時間が過ぎ。新歓中だからこの三人もサボるわけにもいかず、ここいらで打ち切り、電話番号を交換して別れる。
 
 僕はというと、サークルを決めかねていた。大学に入るまではバスケに人生をかけていたといっても過言ではない。いや、過言かもしれないが、とりあえずがんばっていた。大学でもバスケを続けたい気持ちがあった。そして国際交流系というのもかねてから大学でしたいことを一つであった。ひたすらに迷っていた。バスケサークルの飲み会もめっちゃ楽しかったのである。掛け持ちすればいいじゃんという声が聞こえそうであるが、僕は不器用なのである。二つのことを同時にできない。だから大学に入るときも浪人した。というとどこからか怒号が響いてきそうであるが。
 そんな悶々とした気持ちである日、京都は新京極通りを目下北上し紀伊国屋に差しかかろうとしたときである。どこかで聞き覚えのある声がというより、いでたちが、耳というより目に入ってきたのである。あの人は、なぜ、春のこの日に、雨のこの日に、アロハシャツというひとりバカンスを楽しんでいるのだろ、、、と思うのも束の間。

”飲み行こうぜ”

 この一言で僕はこの人がいるサークルに入るしかないと思ったのである。2人で飲んでいるときの会話は本当にいろいろだった。一番びっくりしたのがその人の洞察力である。会話のとき人に合わせるよね?と言ってきたのである。僕の中ではそれが処世術であり、しかもかなり自然に出来ていると自負していたのであるが、完璧に見破られたのである。この人と一緒の団体にいたら楽しいこといっぱいあるかもな。そう思い、僕はこのサークルに入ることを決めた。


 と、まぁ書き始めてみたものの、自分が感じたことをというより、事実の羅列になってしまった。これから感じたことを中心に書いてみようと思う。
 一回生のときは尊敬できるというかすげぇなって思う先輩ばかりがいて、その人たちに認められようといろいろ活動し、発言し、生意気言って必死に過ごした。その中でもスタツアでインドに行ったことと高校で授業をしたことは忘れられない。

 パソコンを整理していたら、スタツアに行ったときの感想文が出てきたのでここに載せて、一回生のとき自分がどれだけ分かりにくい文章を書いていて、で、どんなことを考えていたかを述べることの代わりとする。この感想文を読んでの感想文とか書くとまた面白いんだろうな。と思い、宿題に追加!!!
 基本的にこのとき感じたことは自分の中でかなり大きな土台として今も残っている。なんたってはじめて現場に触れた瞬間だったんだもの。

《全体の感想》

僕たちは二週間インドにスタディーツアーに行った。前半の一週間はコルカタに滞在し後半の二週間はハイデラバードに滞在した。

コルカタすごい!の一言だった。この都市に交通ルールというものは存在しないのかと思うほどだった。街の人たちは規則なんてものは破るためにあるんだということを体現しているようだった。日々カーチェイスが行われ、クラクションが鳴り止むことはない、車線なんか無視で逆走のオンパレード。ワクワクしてくる。ドキドキしてくる。慣れてきてそれを普通と思うようになったことは、進歩といっていいのだろうか。

コルカタではボランティアをした。僕はボランティアが好きじゃない。している人がということではなく、自分がすることが嫌いだ。きつそうだし、面白くなさそうだと思うからだ。自分の醜い部分も見ないといけないというのも僕がボランティアから目を背ける理由の一つかもしれない。僕たちは道端で物乞いしてる人には冷たい視線を投げかけ、しかとする。でも一方で、すすんでボランティアをしている。このいはなんなのだろう。どこで境界線が引かれたのだろう。そんなことを考えたりもした。なんか自分がなにをしているのかがよく分からなくなってしまった。

JICA訪問が一つのきっかけとなった。とてもいい話が聞けた。いい話だった。人生を語ってくれた。その後、僕はちょっと楽になった。ひとつ今のところでの答え。ボランティアってなにかして"あげてる"なんて傲慢なものじゃなくて、自分が楽しむためにやるものだってこと。そう思うと楽になった。自分が日ごろしてることって自分が楽しむためにやってるでしょう?それと同じなんだなぁって思うようになった。一週間足らずのボランティアを体験し、JICAの人の話を聞き、ボランティアが前と比べるとちょっと好きになった。でも今のところ、自分からすることはないんだろうなと思う。それは、僕がハンドボールをするよりバスケットボールをすることが好きなように、ただ単に自分の興味の問題なんだと思う

ハイデラバード。ハイデラバードではお金持ちの人との交流が多かった気がする。インドアイセッカーはまさしく金持ちだった。他にも、日本語学校に来ている生徒や先生。この人たちは、高級そうなバーに連れて行ってくれたり、日本では高くては入れないような高級レストランに連れて行ってくれたりした。レストランでは生れてはじめて、子羊のステーキを食べた。舌の上でとろけるとはまさしくこのことだと、体中に衝撃が走った。

ハイデラバードでの豪遊を通じて、インドにそんなにいっぱい援助いらないでしょって思った。それはハイデラバードであった人が金持ちばっかりだったからかもしれない。たぶんコルカタだけだったら絶対援助必要!って思っていたと思う。でも、一方で農村部に行くとチャイルドレイバー問題がある。国家間だけではなく、国内の地域間でも広がる二極化。世界平和を謳いながら高級ホテルで立食パーティーをする人々。複雑な思いがした。

最後に、今回のスタツア全体を通じて際立ったのは自分の英語能力のなさと、話しかける勇気のなさ。びびってしまう。コミニケーションするのに必要なのは臆さない心だなぁとつくづく感じた。あともちろん語学力。あ、でも下ネタは世界の共通語だなぁと痛感しました。

 なんかスタツア楽しかった。

  

《国際協力を絡めて》

今回のスタツアを通じて、そもそも発展途上国で困っているのは誰なんだろうって疑問に思った。僕たちが思っているほど困っているのか疑問に思った。街で見かける人は、確かに自分たちから見ると、見た目は貧相かもしれない。けどなんか楽しそうにやってるなぁと思えた。道端でカードゲームにいそしんでいるおじさんたち。電線の間を器用に凧揚げしているスラムの子供たち。統計上の数字を実感することがなかった。二週間足らずの滞在で言えることでもないと思うけれど。でも衛生状態などはよくしないといけないと思った。

後日、貿易ゲームの話を聞いてから思ったのだが、村の人がもしバナナの存在を知らなかったら、村はああだこうだ言いながら仲良く続いていたのではないかなぁ。ようするに、“近代化”を一方的に押し付けるようでは混乱させるだけだということだ。能代さんの話を聞いて思った。はい、これあげますね、ではだめで、何に困っていて、どうしたらそれが解決するか・改善されるか、その手助けっていう風にすすめていくのがいいのではないかと思った。手間かかるだろうし、メキメキとした成果がでるわけでもないから、たぶんほとんど却下される。ちゃんとした成果が計れないことの難しさもあるんだろうなと思った。何年後かに成果が出ていることを期待して、今のうちから継続的にやっていくことが簡単に出来たらどんなにいいことだろうと、無責任に思ってしまう。

国際協力とか途上国援助とか言う際、先進国側に当たる僕たちは、途上国側が自分たちに追いつくことなんて望んでいるわけでもないし、そうなっては困る。そしたらなんで援助とかをしているのか。国家レベルで考えると、政治・外交面とかから間接的に国益になるから。個人レベルで考えると、誰かが喜んでいる顔見るのって嬉しいよね、くらいの理由しか僕には見つかりません。でも、これから考えは変わるだろうけど、とりあえず今は、それでいいんじゃないかなと思う。何もしないよりは、自分が出来る範囲でなにかをしたほうがいいと思うから、理由とか意義とか(もちろん考えるべきだけど)、ぐちゃぐちゃ考えすぎる前にやってみたらいいのではないかと思った。

スタツアに行って混乱が深まるばかりだった。先に言ったように、手段についてもそうだし、意義についてもそうだ。また、国内の二極化とかを感じるに当たって、なんで自分は海外にばっかり目を向けているのだろう、海外に行くことでしかこういう経験が出来なかったのだろうか、と疑問に思うようになった。確かにスタツアを通じてしか得られない経験はたくさんあったと思う。しかし、日本に目を向けることで考えるきっかけになるようなことはたくさんあると思う。僕は海外という、自分より、日本よりはるかに大きい漠然とした存在に目を向けることで、自分の眼前にある身近な問題から目を背けていたのではないかと思う。これもスタツアの経験によるものだといえばそれまでであるが。

 なにかの縁で少しばかり関係がある人がこの春フィリピンに行っている。今日はじめてその人のブログを読んだ。その中でフロムを引用しているものがあった。フロムを僕が読むきっかけになったのはその人と呑んだからである。はじめて呑みにいって最初は会話が続くかとどきどきしたわけであるが、なかなかに話が弾み。そこで僕の本棚に眠っていた『自由からの逃走』を掘り起こしてくれたのである。

 まぁ話を戻して。その人のブログの中で考えさせられる記事が書いてあった。勝手に拝借してみる。
 
”なぜこんなことをつらつら書き始めたかと言いますと、
とある人との会話で、(国際協力の分野で)なぜ高い志を持っている人ほど国連や外務省といった大きな組織に入ろうとしないのか、という話になりました。私はほぼ無意識的に
「逃げ」ちゃう?
と答えたわけですが…、”

 僕はこの言葉にまったをかけたい。どっちも逃げなのではないのかと思ってしまった。まぁどっちにも頑張る人と頑張らない人がいるよねってことなんだと思う。と、これは蛇足なので。というかこれについて自分でも考え続けたいと思ったのでここにメモ程度に記しておく。
 志の高さとはなにで計るのだろう。理想の大きさ?現実的な視点?それにかける熱量?多分全部がそろって志の高さになると思う。理想だけ持っとけばいいのか?NOである。突っ走ればいいのか?NOである。じゃあ冷静でいればいいのか?NOである。現場と大きな組織が二項対立的に二分論で語られることがまず問題だと思う。たぶん現場に行くことはかなり勇気の要ることで、大きな組織で蹂躙されながらがんばっていくのも同じくらい勇気がいることなのではないかと思う。双方が互いに、現場は大きな組織に向かって志が足りない(熱量・理想)といって、大きな組織は現場に向かって志が足りない(口先だけで現実的な視点)といって、お互いに自分らの適性のからにこもってその融和性がなくなっていく。現場は自分の影響規模の小ささに嘆き、大きな組織は個別ケアができないことにふがいなさを感じ。だからどうしたらいいかってのはすいません。
 
 あと、ぼくは現場至上主義がきらいである。というかこれは自己正当化の賜物なのであるが。そしてこれを書きながら言葉が自分の弱さを隠すために過激になっていっている。そしてそれを認めることができないでいる。大きな組織になった途端沸き起こる批判がきらいである。大きな組織では自分のしたいことができない、組織のなかで熱量を保つのが困難だ。これは大きな組織だけの問題ではない。むしろ現場にもかなりの確立で当てはまることである。小さな団体は対象が見えやすい。大きな組織は対象が見えにくい。そこで抽象度が高い大きな組織に批判は集中するのである。自分の火の粉が降りかかることを恐れて。大きな組織に口だけの批判を加えて、自分があたかも自分の道を行っているんだと何もしていない人が言うのが一番気に食わない。

で、この人のブログは
”今、原点を見つけることが一番大切のような気がしてます。
帰る所があれば、走り続けられるような気がします。この狂った世の中でも、狂気と正気の間を保てるような気がします。
現場に原点を置きたいから、NGOに行ってみよう!って発想なんだと思います。”
という結びで終わる。

 とってもいいなぁと思った。かなり刺激になりました。僕も原点を見つけたいと思いました。僕はこの人とは逆の発想で、大きな組織に入りたいと思います。それも結構ネガティブな理由とポジティブな理由のハザマで。
 まずネガティブな理由。自分の生活が無視できない。おいしいご飯は食べたいし、お酒も飲みたい。でも何かはしたい。特に戦争とか人が人を直接殺すのが嫌だ。その妥協の産物として、自分は守られて、なにか出来る場所だと思った。
 ポジティブな理由。国際協力というフィールドでなにかを行なう場合、ある程度の持続性というのは必要だと思う。理想を高々と掲げると同時にその実効性のためにある程度の組織的余裕は必要なのである。あと、世に出る批判のなかのいくつかをいい方向にも目を向けてほしいと思った。あと単純に結構でっかいことをしてみたい。
 でも根本的にネガティブな理由だと思う。僕には一番矛盾があるその場に一歩を踏み出す勇気がないのである。そんな人がいるから大きな組織はというか小さな団体もというか世の中はよくならない。
 
 閑話休題。
 内田樹さんの言葉に道徳律とは“人の立場に立つことではなくて、世の中が自分だらけになったらと想像することである”というものがある(細かい文言は覚えていない)。自分が自分の他人として存在していたらどれだけ壊れた社会になるのであろう。身につまされる。ブルーハーツの歌にも似たようなフレーズがある。

 あ、なぜこの記事を書こうかと思ったかというと、この人の結びがとても僕には羨ましくあり、そして自分を奮い立たせてくれるものであると思ったからである。

久々に更新しようと思う。12月に参加した国際学生シンポジウムについて感想文を書く機会があったのでこっちにもアップしておこうと思う。


 12
月下旬、僕は国際学生シンポジウムに参加した。一番大きな収穫は“あぁ、勉強せなんなぁ”と結構久しぶりに感じたことである。


 参加のきっかけはかなり偶発的なものだった。授業に全然でない僕が単位に関係ないのに唯一出ていた「政治思想史」という授業で国際学生シンポジウムの運営スタッフの人がビラを配っていたのである。それをたまたま手にし、そのまま応募した。ドラゴンボール集めたらどうするかという課題文に心が奪われ、そればっかりを考えて応募した。その頃、将来の進路について悩んでおり、ひとつのきっかけになればと思ったというのも動機の一つだろう。

 僕は大学の二年半を国際協力関係の勉強といより体験学習というか、要するにほとんどの時間を海外旅行、海外訪問に充てていた。行った国はタイ、マレーシア、カンボジア、インド×2、バングラディッシュ、インドネシア、中国×3。。。ほんとに多くの時間と労力を費やしてきた。いろんな人に会い、見たことのない現状を目の当たりにして。そんな中、日本のよさを感じる機会も多かった。そして、だんだんと、国際協力ばりばりで将来働きたいというよりは、日本という軸をもった上でそうした活動をしていきたいと思うようになった。自分の中に日本というものが結構明確な形で意識された。


 そんなこんなで分化会を選ぶとき開発と迷ったのだが、今まで完全に門外漢だった日本外交にすることにした。そこでは驚きの連続だった。自分の考えのまとまりのなさ、知識のなさ、とりあえずの行動しかしてこなかったことへの後悔、その他諸々。“勉強せなんなぁ”と思った。あと、もう一つ強く感じたのは、“戦争は、なんかいやだ”ってことだった。兼ねてから漠然とそういった思いは持っていたのだが、この言葉の無責任さを痛感し、だからこそきちんと強く持っていこうと思った。ここで無責任さを痛感するってことにかなり大きな意義があったように思う。

 
 シンポジウムが終わり、僕は図書館に行くようになった。参考文献を今更読み出し、その他自分が訪れたことのある国についての関連文献を読み、試験期間も間近だったので授業に出るようになって。そこで感じたのは、自分がもんもんと考えていることってのは既に見事に体系化してされていて、それが言いたかったんよ!と叫びたくなること多々あって。自分が漠然と行なってきた客観的説得力のない価値判断というものの不確かさを感じ、論理的裏づけの大切さを感じた。ただ、自分の目でみたいという海外放浪の根拠になった思いだけはやっぱり変わらず、走りまわりもした。鹿児島の祖父の家に行き、焼酎を酌み交わし、戦争の資料をかっぱらってきた。知覧に連れて行ってもらった。
 
 すごく散文的になったが、将来僕は、戦争がなくなるように、もし起こってもその被害を少なくするようにしたい。そうした仕事に関われればいいと思う。経験がないからこそ苦しみを知らないからこそ起こらないようにしなければと責任を持って思う。

 昨日、半年振りに僕がとても尊敬する先輩と呑んでいた。
 
 なぜ半年振りに?
 
 そこにぼくの大きな過ちがあったのだ。

 話をさかのぼること。あれは6月のことだっただろうか。
 
 いつものように僕は属している団体の中での愚痴、不満、不安をぶちまけていた。
 その先輩はそれを聞いて、いつももっと頑張ればいいんじゃない?というようなことを言うのだ。確かに足を引っ張られることもある、嫌いな人がいることもある。ただ、お前がもっとこうしたら、こう頑張ったら状況はよくなるんじゃないの?という風にいつも見上げさせてくれるのだ。
 決して満足させてくれずでも現状を認めないでもない。冷静に現状の僕を分析して、それにポジティブな方向付けをしてくれる。うつむいた僕にいつも限りない空を見上げさせ、希望と絶望入り混じったわけの分からない場所へと連れて行ってくれるのだった。

 その日も先輩と僕ははそんな話をしていた。恋愛話から顔差値、下ネタから政治問題。そして話は自分の将来のことに及んだ。僕は三年生で先輩は四年生。僕は将来国際公務員になりたいのだと、先輩は院に進学するのだと。僕は国際公務員になるためにまず外交官になり世界を知る。現実を知るということをするみたいなことを言った。その頃ちょうど佐藤優の『インテリジェンス 武器なき戦争』がはやっていたのでそれを例に出しながら先輩はらしくないことを言い出した。

 “今は薄給激務やよ。普通に就職してそれなりのお金を稼いで、休日は趣味にいそしむ。そんな生活でもいいんじゃない?”

 僕はそこで反射的に

 “なんかいやだ!!!!!”

 と言い放っていた。そこで会話は終わり。なぜ先輩がこんな発言をしたのかは今となっては分かるのだ。というよりそのときの僕が子ども過ぎた。ただそれだけだったのだ。
 というのも、僕は進路について二転三転していて、そのたびにもっともらしい理由をつけて、その先輩に話していたのだ。今回もそんな感じで話が進んで。でもそろそろ痺れを切らした先輩がそんな発言を僕にしたのだ。もっと考えろ。お前が本当にしたいことはなんなんだって突きつけられたんです。他にも“お前に国を任せたくない”など僕の甘さを指摘され。僕はそれを直視できず目をそらした。

 それから気まずくて会ってなかったのだが昨日無事再会しましたとさ。それは長くなるのでまた次回。

 今回は空白の半年についてちょっとまとめとこうと思う。

 

  
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1986/01/22
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スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
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