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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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 およそ三ヶ月強更新が滞っていた。この三ヶ月何をしていたかというと、また、なにが起こったかというと、いろんなことがあって大変であった、の一言に尽きる。とりあえず防備のために

・大学院への進学を辞退した。(僕がモラトリアムを選んだ理由)
・両親からの深い愛情のようなものが常にそこにあったことに今更ながら気付き、その存在というよりは程度に無知であった恥じ入る。(自分の境界線)
・ベトナムに旅行した。(ベトナム旅行記)
・大切と思える人が表れた(ような気がする)

というのが大きな出来事である。それぞれについて思うところは多く、最近になってやっと整理ができてきた。一番大きな選択は大学院への進学を辞退したことであるが、これはやはりよい選択だったのではないかと思う。余裕があるときに()内にあるような題名で何かを書ければいいなと思うが、まぁ気長に。ベトナム旅行記は日記としては完成しているのだが、デジタルに変換する作業に手間取っている。最近の一連の出来事を通して、自分も愛情のようなものを誰かに対して持てるようになるのかもしれないと思えるかもしれないと思うようになった。これは大きな変化のように思う。

 そういえば、smapのくさなぎさんが公然わいせつで逮捕された、というニュースが大々的に報じられた。最初に思ったことが、ニュース作る人とかそれを見ている自分を含めた日本って暇なのか平和ボケしてるのかなんだかなということである。だいたいどのニュースでもトップか結構最初の方に報じられている。この“事件”を一般化したなら、1人の酔っ払いが公園で裸で叫んでいたということになる。ただそれだけである。確かに、夜叫ぶことは迷惑であるし、素っ裸になっていることはまぁ、日常的ではない。ただ、容疑者として逮捕されるほどのことなのかな、程度の問題なのではないかなぁと思う。このような場合多分最初は注意を受けるのではないだろうか(経験済み)。それでも聞かなければとりあえず署まで来てもらおうか(これもごねれば回避可能)、でやっと逮捕みたいになるのでは?と思う。というかとりあえず署までで、その後は、誰か引き取りにきてねくらいだと思われる。自分の古の記憶を辿ってみるとおぼろげだが、多分、公然わいせつ罪の保護法益はある特定の被害者ではなく、風俗とかそういった社会的法益だったと思う。そうすると被害者なき犯罪とも言えて、ここまで厳密に公式に取り締まる必要性があるのかということが疑問に思えてくる。確かにわいせつの要件は満たしていると思われるけど。おっと、素人がこっちの分野に足を踏み込んだらえらいことになるので、感じたことベースで。
 話を戻すと、この程度のことで騒ぐマスコミに辟易するということである。芸能ニュースならまだしも、NHKのニュースでアナウンサーが神妙な顔をしてくさなぎさんがうんちゃらみたいなことを言うのを聞くと、安物の喜劇だな。って思う。この件に対して激しい怒りのコメントを出したどっかの政治家の人も、その言葉遣いを見るにその人の低俗さが表れていると思った。そして報道番組でのコメンテーターがくさなぎさんを非難するその仕方にはどこか同属嫌悪みたいな感情が見え隠れしていたと感じたのは少し思い込みが過ぎるだろうか。まぁ自分は一連の報道を結局見ているわけで、悲しいかな、そういう意味では同じ穴の狢である。
 
 感覚的には服を着ていてもわいせつなものもあるだろうし、全裸でもわいせつではないものがあると思う。暗い夜道でコートの下が全裸の無名のおじさんがたまにボタン全開にしながら表れるというほうがよっぽど問題(あ、でもこれは強制わいせつ罪になるのかな?)だし、公園で必要以上に密着しているカップルの方が公序良俗に反している!(というひがみ)し、真昼間に女装とも言えないような汚いコスプレをして祭りのまん中、川を下るほうがよっぽど風俗的なものを乱している。また、無名の変態の全裸を見るよりは、アイドルの全裸は結構進んでみたいって人(ジャニーズファンとか)も多いのではなどと妄想を膨らませる。僕は、むしろ服を着るという行為自体が人類の歴史において育まれた歪んだ性的な表現で、その結果着衣という状態の方が徒に性的興奮を喚起すると思うのだが、それはややこしくなるので置いといて、この事件の場合、ただ騒いでいる愛すべき阿呆がいるというくらいなのではないだろうか。これは過去の自己肯定化以外の何者でもないと言われればそれまでだが、実際にこの時期の大学周辺には全国の警察力を総動員しても全然足りないほどの容疑者でごった返し、溢れかえっており、その様子はまさに一つの秩序を形成している(のかもしれない)。そこではむしろ着衣のほうがわいせつである(のかもしれない;)。そこに警察が総動員。こらー、公然わいせつ罪で逮捕する!という警察の周りに溢れる全裸の集団。銭湯に警察が乗り込んでくるような倒錯した感覚にとらわれる。想像するだけで面白い。ちょっとおふざけが過ぎた。
 
 くさなぎさんの場合、影響を及ぼす額と人の範囲が大きいからまぁ警察もマスコミもいろいろ複雑になるのだろうと一言で片付けられるくらいの些細な出来事としてここは個人的な感想を終わらせることとする。

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 小中学校での携帯電話持ち込みの可否についての議論が世間をにぎわせている。某府知事は声高に禁止を叫んでいた。正直この人はそろそろあぶらっこくて胃にもたれてきた。讃岐弁で言うのであればむつごい、の一言に尽きる。
 
 さて、本題に戻って。携帯持込禁止の趣旨はこうである。携帯いじめがある。どっか(多分厚労省か教育委員会)の調査によると携帯の利用度が高い人ほど学力が落ちるらしい。他にも授業中にメールをするなど。こうした状況をやデータを鑑みた場合、携帯の持込を禁止するという。福岡県の芦屋町でも同じような取り組みが行なわれるみたいである。その賛否については親御さんや生徒どちらからも様々である。いくつか挙げてみたい。理由付けはたくさんあるだろうが印象に残ったものだけを取り上げる。

①安全のため子供に携帯を持たせている。
 これはごもっともだと思う。子を心配する親御さんの気持ちは傾聴に値するであろう。ただ、子供と向き合いたくないから携帯を与えるというのはあんまり好きではないし、学校にいる子供に対してメールを送るのはちょっと違う気がする。
②学校に持ってくると携帯に依存してしまう。(某知事、生徒など)
 たぶんこれは依存が原因となって学校に持ち込むと言う結果を招いているので、禁止したからといって依存状態(仮にそういったものが現にあるとして)が解決されるわけではないだろう。”学校に持ってくる=依存”という構図はまだ分からなくはないが、因果関係を無視しては困る。
③携帯の利用度と学力の反比例関係
 確かに携帯を長時間利用すると一日は24時間しかないから、勉強のための時間(あるとすれば)は削られる。だから携帯の利用は勉学に差支えがある、という論理といかレトリックを取るのであろう。じゃあ漫画が好きな人とかゲームが好きな人、寝るのが好きな人、読書が好きな人、部活に打ち込んでいる人などそういった指標を元に統計をとったらどういう結果が生まれるのであろうか。そう大差ないでしょう。なにも携帯特有の問題ではない。相関関係であり因果関係とは言えない。

 まだ、各々の理由に対して批判したいことはやまほどあるし、理由にもなっていないと思われるものもある。ただ、話が進まないのでそこは目をつぶって、上記を根拠に、各学校で何らかの罰則規定が設けられたとして、この施策は果たして機能しうるのであろうか。また、教育上適切な処置と言えるであろうか。否である。今から対案を示しながら、その理由を述べたい。

 ”携帯持込自由、ただし授業中は机の右上に電源を切っておいて置くこと”

 これで万事解決な気がする。万事解決とまではいかないが、全面禁止よりいくらか効果的なのではないだろうか。携帯電話が発明されて、今後携帯電話の利用が増えることはあっても減ることはない。そうしたときに何を教えないといけないかというと、それが有害なものであるとすることではなく、その利用方法なのではないだろうか?その前提に立って、この対案を導入することの意義はまず、携帯電話の存在を前提として議論を始めているとこである。その完全禁止は時代に逆行するものだし、いささか懐古主義的といわざるを得ない。また、生徒に対する効果というのも疑わしい。禁止されればされるほど子供というのはそれをしたくなるものである。社会的に公的に禁止されるものというのは総じて魅力的なものに思えるのである。そうした意味でも、なんら禁止しませんよ、むしろ電子辞書とかと同レベルの便利なものとして扱いますよ、と言えばよい。禁止に対する反発力というのはそれ以上の圧力を持ってじゃないと沈静化できない。そしてそれはあまり好ましい手段とは言えないだろう。
 また、システム維持の面からしても、禁止の効用は疑わしい。発明初期の携帯電話ならまだしも、今は小型化が進んでおり、容易には発見できない。そのため、監視システムの脆弱に起因して、その罰則実施は公平さの面から困難になり(被監視者の反論は容易になり監視者の制裁はその論理的正当性を失う)、最後には規程の形骸化が起こり、むしろ事態を悪化させるかもしれない。
 それでは対案はパーフェクトなのかと言われればそれは否である。まずメリットに触れると、生徒が自分で考えて携帯電話を使うようになる可能性を残すということである。やはり緊急連絡に携帯は便利であるし、その使いすぎははた迷惑である。だから、その使用を公衆の目に晒すことで徐々に携帯のマナーを身に付けるのではないかということである。また、禁止を原則にしてその原則を緩やかに適用するという形態をとっているので、臨機応変な適用ができるし、新たな課題に面したときあらたな緩和や厳罰化を行いやすいと言うことも挙げられる。また、教師が授業中に携帯を鳴らしてしまうという事態にも比較的対応しやすい。
 以上がざっくりしためりっとであるが、それぞれのメリットは同時にデメリットを内包している。そもそもが生徒の善意に期待しすぎているのではないかということ。ひっきりなしに携帯が鳴るような環境になると、完全にこの対案は意味を成さない。この対案は全面禁止に対するいわば規制緩和であり、一旦緩んだものを締めるのは途方もない労力がかかるのである。携帯電話による学級崩壊が起こりうる。この対案は携帯が鳴るのが例外的に起こる状況を主に想定しているので、それが日常的に起こる場面では効力を発揮し得ない。そして、携帯の使用方法どころか学校教育の本来的な目標の達成すらもが危ぶまれる。
 
 このように全面禁止も対案も一長一短であるし、どちらがいいとは言えない。むしろ全面禁止のほうが効率的なのではないかとすら思えてくる。ただ、『親が子供に教えなければならないのは「転ばない方法」では無くむしろ人間は転んでも何度だって立ち上がれるということじゃないか?!』と漫画『はちみつとクローバー』で言われている台詞のように、教育とは禁止ではなく、政治的な影響をまぬかれ得ないものであるにしろ、その善悪の判断は置いておいて、ある種教化し導く側面があると思われる。また、教育は目標に対して合理的効率的にそのシステムが設計されるべきものでは決してないし、そんなことは不可能である(これについては内田樹や平川克美の論を自分なりにまとめなおす)。そもそも教育の目標事態が数値化不可能であるし、その性格は先行投資であり、それが学校に還元されることはまずないのである。そしてこれらのことを考慮に入れるならば、結果的に全面禁止になるにしろ対案になるにしろ、おそらくは措置に至る過程というのがもう少し慎重になされるべきである。そして、携帯の普及という時代の新たな様相に対して、のっけから全面禁止を叫ぶのは、いささか早急な判断であり、為政者や教育者の責任放棄に映るのである。
 今日は土用の丑の日だった。友達の前で今日って土用の節句だよねと聞いてしまった。なんだかな。
 
 そんな曖昧な感じだったのだがついついうなぎを買って食べた。今日の献立の予定は炊き込みご飯だったのであるが、昨日か一昨日か忘れたが買っておいたシメジがこの夏の熱さによって蒸されていたというか生煮えになっていたので予定変更した。ちょうど見ていたニュースでうなぎ偽装関連の報道があっていたのでそれにまんまとつられて近くのスーパーまでうなぎを買いに行った。例年よりうなぎは高かった。千五百円である。そしてうなぎの大きさによって百円前後の価格の開きがある。僕はそこでぷちりっちをした。千六百円のちょっと大き目のうなぎを買った。こういうときの百円と言うのは多分だがかなりの値打ちがあるように思う。その値段の割りに気分をセレブにしてくれる。僕はそんなりっちまんの気分の中帰宅した。
 話は変わるが、ドアというのはなんとも不思議な板である。その板一枚隔てた空間に移るだけで気分は一転する。たった数センチしか空間的には移動していないのに、である。とても不思議な板である。人はそこでオンオフを切り替え、内弁慶になり、シリにしかれる。たった一枚の板の向こう側で。ただの板という、シンプルこの上ないドラえもんのどこでもドアはこうした不思議さを昇華させたものなのかもしれないなぁと思った。要するにうなぎを買ったときのセレブ気分はドアを開けたら霧散して、千五百円もの出費にかろうじて耐えた財布がそこにもさっとあるだけだったのである。食べるときはきちんと半分にして、ご飯一合にうなぎ半分。2日はもつ計算である。

 
 今日、昼間は晴れていたのに、夕方から急に雨になり、びしょぬれになって帰ってきた。鏡を見たら伸びてきた髪のせいか、まるで浮浪者であった。明日、カットモデルなどという実験台になるのでまぁいいか。

 さて、今日僕はなぜびしょ濡れになったのであろうか。そんなこと問わなくてもわかっている、突然の雨だったからだろう。その通りである。だが僕は憎たらしい性格なので、ただ濡れただけなら、こんな問いかけはしないのでる。そう僕は性格がねちっこくていやらしいのである。

 昨日の夜中のことである。前日ペストを読み終え、なんとなく虚脱感に浸り、ぼーっとテレビを見ていたのであるが、そのとき、明日は午後から雨が降るでしょうという天気予報を耳にした。ここ2、3日思わぬ寒さに痛手を食らっていた僕は、天気予報にだけは目ざとくなっていたのである。そうして、今日起床し、新聞でもう一度天気予報を確かめ僕は晴天の中誇らしげに愛車に傘を携えて大学に向かったのである。

 そうして僕は今日、結構素敵な日々を過ごした。午後ずっとこもって、誰とも会話してないのだが、『冷戦‐その歴史と問題点』(J・L・ギャディス著)を読み終え、かなりの興奮で高揚感に浸っていたのである。そうして、外が暗くなってテンションあがって帰ろうと思ったときである。愛車に傘がない。結構ビッグサイズの傘がないのである。僕はいつも定位置に愛車を停めることにしているから、見間違うわけはない。しかしそこにあったのは、僕が乗ってきた愛車とは似ても似つかないものになっていた。想像して欲しい。マフラーのなくなったバイクをだれがバイクだと思おうか。僕の愛車からは傘がなくなっていたのである。

 しかし、今日大著を読み終え、半ば夢の中にいるような半ば夢遊病者のような僕はそこで近年まれに見る、発想の大転回を行なうのであった。

”たまには濡れて帰るのもいいか。”

 ここまで楽観的に物事を考えられたのはいつぶりであろうか。いや、そう遠くない。結構楽観的じゃないですか。そうです。まぁそんなこんなで僕は濡れて帰ったのである。雨に濡れて帰るのは、なかなかに気持ちいいものだ。小学生の頃台風で途中下校になったときのことをついつい思い出してしまう。最初の五歩くらいは母から買ってもらったお気に入りの靴が濡れないように気をつけて歩くのだが、ちょっと濡れてしまえばお構いなしなのである。眼前に常夏のビーチが広がるのである。日常の中に突如現れた非日常。その中で人はついその間を行ったりきたりしたくなるのである。先生が判断を出すのは決まって雨がやみ始めたときなのだが、大体の親御さんは帰ってきた子供たちを見て、なぜそんなに濡れているのか不思議に思われるだろう。傘すらも子供たちはなげうって駆け出すのである。そして帰ってきて泥にまみれた靴を見て、母のあきれた顔を見て、ちょっとさびしくなるのである。
 読後の高揚感も手伝って、僕はそんな気持ちでかなり遠回りしながら家に帰ってきた。なんとも楽しい一日だった。そして鏡をみて現実に引き戻された。おっと、周りから見てる人はこの様子を奇怪な目で見るであろう。

 さて、ここまではことの成り行きを追ってきたわけであるが、僕は結構楽しい帰り道を来たわけである。ただ、僕が今日残念に思ったのは、傘がぱくられたという事実そのものよりも、雨が降り出した時点でそのことを諦観とともに予期していたというその事実によってである。僕は雨が降り出して帰る頃になって、正確に言うと、図書館から出て駐輪場所に向かう途中において、あぁ、多分傘なくなってるだろうなぁ。と漠然と思ったのである。そして事実その通りになっていた。僕はそのことがあまりにも悲しいのである。
 
 なぜ悲しいのか。僕はまずそのときの状況を自分なりに想像してみた。おそらく、明るいうちにそんな大胆な行動に出れる人はいない。人通りはとりあえず多いのである。自分が乗らないちゃりから傘をとって別のところに向かうことは結構妖しい行為である。おそらくその人は暗がりの中できょろきょろし、そっと取っていったであろう。結構どきどきしながら。とまぁこんな状況だろう。ここでどきどきしない人はもう悲しいというか哀れなのでここでの対象には入れないことにしようと思う。哀れその一言である。

 さてここからはそのどきどきしながら行為に及んだ人を念頭に話を進めていく。その人は突然振り出した雨に驚き、濡れたくない気持ちから傘を取ったのであろう。それ以外にはない。その濡れたくない気持ちというのはその人にとってどの程度のものなのだろうか。僕はきわめて重要性の低い気持ちであると思う。些細な、どっちでもいい、言い切ってしまえば濡れても濡れてなくてもいいが、強いて言えば濡れない方がいいかなくらいのレベルであろう。そんな小さな気持ちからかなりギャップのある(少なくとも僕にはそう思われる)行為に至るのである。
 人間はここまでギャップのある行動を起こすだろうか。僕は起こさないと思う。重大事項(突発的な激情に基づく行為など)に関してはそういった可能性はあると思うが、帰路に雨に濡れるか否かの問題でそういったギャップを軽々乗り越えることは早々ないように思われるのである。だれだって何度かはそうした経験があるだろうし、結構日常的な出来事なのである。そうしたとき、なぜこうしたギャップを僕が感じたのにも関わらず、こうした事実が生じているのかということについて、考えられる原因は、二つである。一つ目は、そもそも行為の重大性が低い、すなわち、動機(濡れたくないという気持ち)からしたらかなりの大きな飛躍があると僕が思っている当該行為(傘をとる)が実はとても些細な行為であるということ。もう一つは、そもそも動機がその人の存在に関わるような重大なものであり、仕方がなく行為に及んだというもの。僕は後者に関しては起こる可能性が低いものだと思うし、もしそうであるならば別に構わないと思う。
 問題は前者である。後者のような場合にしかこうしたことが起こらないと思えるのであれば僕は悲しくならなかったであろう。しかし、現状を見るに前者(突然の雨のときに傘をあたかもそこに落ちているものかのように扱い自分のものにする)のほうが起こりやすいものであるような気がする。そして僕は、人(もしくは社会を取り巻く状況)はそんなものであるというその結論に容易に至ったその事実(傘が盗られたことはどうせ、今日食うものがないから盗みを働くというような相対的には重大な動機によるものではないのだろうと容易に結論付けてしまえるという事実)と、それを認め、いわば諦観とともにそれを受け入れてしまっている自分自身(そうした社会認識の下それになんら反応することもなく、ただ甘受している状況)に二重の悲しさを感じたのである。
 一昨日、下宿の裏山である大文字山にナイトハイクに行った。友人の何気ない一言での行動だったのだがそれがほんとうにきれいだった。大文字から見る京都市街の夜景はびっくりするほどきれいだった。

 発端は新学期始まってすぐの飲み会だった。
 ことの馴れ初めを語る前に前提を抑えておこうと思う。僕には大切な友達がいる。何回か前の投稿でサークルに失望し、自分自身に失望した話はしたのであるが、この友達はサークル内での友達ではない。一回生のときである。新歓が盛りを迎えている時期、クラスコンパの二次会でたまたま隣になった人と意気投合し、そこからまた人の輪は広がっていき、今の五人に落ち着いた。この仲間とは一回生のときほんと毎夜毎夜集まっては朝まで馬鹿話をしていたものだ。日本の未来についてなど熱く語っていたものだ。どんな5人かというと、とってもやさしい心を持った場を作り出す神様(要するに飲み会での特攻隊長)と将来音楽で食っていくと決めたまじめ誠実であるが故に超ネガティブなやつ、クールでおしゃれだけどいったん話し出すと一直線なやつ、ザ関西人と思いきややわらかさのある親しみやすいやつ、そして僕、の5人である。今後話題に出てくることが多くなってくるメンバーである。
 
 そしてその5人で新学期に飲んでいたのであるが、そこで楽しすぎて次回の日程を決めてしまった。そしてその前日くらいに、そのクールなやつが、太陽の塔読んだら大文字登りたくなったんやけど。と唐突に言い出したのである。そこはのりである。じゃあ明日登ろうぜ。そんな流れで登ることになった。登ってる間もなんかめっっちゃ青春で楽しくて、楽しくて。この5人はほんと好きである。自分を見捨てなくてくれてほんと感謝している。

 話はずれてしまったが、そんなこんなでほんとうにきれいで楽しい飲み会だった。そしてぼくは筋肉痛になった。
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1986/01/22
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自己紹介:
大学院で平和構築を勉強中。
スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
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