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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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 世の中には、特に、学術書と呼ばれる類の本では、一部の人々にだけ必読書とみなされるような本があり、それは時にその分野について少しだけかじった人の日ごろの憤懣というかこう言っていいのであればルサンチマンを見事に発散させているものであったりする。そのルサンチマンの矛先がどこに向けられているのかは時に不明確であったりするのであるが。そして限りない自己愛の歪んだ表出であったりする。
 
 僕は一応専門はなんですか?と聞かれたら、国際関係論、狭くは、国際法と答えるようにしているが、厳密に言うと平和構築を主にやっとりますということになる。そして平和構築の分野で必読書だと言われる本が上記のような本である。
 
 "At War's End"、直訳すると、戦争の終わりにてということにでもなるのであろうか。この本は、ウェーバー的な国家による暴力の正当な独占という政治の概念を大学2年の時に知り、それとは鮮明な対置を見せる、人間間に働く力学という観点から政治思想史をはやりの言葉に従うならフーコー的な”生‐権力”の観点から政治を見ることに慣れていた僕が、ごりごりの法学部に特有の法実証主義的な法観に抱いていた疑念を見事に論証してくれるものであった。
 常々、法律を学んでいるときに感じる違和感というのが、赤信号みんなで渡ればこわくない的に誰も法律を守らなくなってしまったら、実証主義が掲げるいわゆる法特有の領域というのはどこへいってしまうのか?という疑念を持っていた。それは、自分自身の関心が、法を根本で担保しているのはみんなが赤信号を渡らないという信用が社会なるものにいきわたっており、赤信号を渡ることが逸脱として観念されうるところにあるという前提から出発して、それではなぜ赤信号を渡らないという信用が社会に浸透するに至ったのかというところにあったからである。
 大学三年生のとき、憲法ゼミに属し、いわゆる憲法制定権力について少しかじったが、そこで突き当たるのが、法の根本を論じる際に避けて通れないのが暴力に関する問いであるということであった。ウェーバー的国家観に従うなら、どのように暴力の正当な独占が可能になるのか、そのプロセスを描きだすことというのは法ではなく、政治の問いである、ということをそのゼミを通して学ぶことができた。そして関心は法的なものから政治的なものに移っていくことになった。これは個人的な体験というのが大きく働いているが、秩序の不在に秩序がもたらされるメカニズムに魅せられていったのである。

 そんな中、不勉強の中の限られた知識の中で国際政治では秩序の存在を否定する現実主義が幅を利かせているように見え、英国学派に出会い感動した。しかし、紛争地域とかに興味があったため、なんかしっくりこないものを感じていた。混乱が秩序に変わる瞬間、なにかが法律に変わる時、そこに働くメカニズムを説明することをなぜ多くの政治学者が論じようとしないのか、秩序を所与のものとして考えるのか。このメカニズムこそが論じられるべきだろ!という確信というか妄信だけがくすぶるのである。しかし、文献を探せばあるもので、その中でも一番今後の自分のためになるであろうものが、ATWARSENDであった。

 Parisはその中で、冷戦後幅を利かせている民主的平和論(パリスの言葉に従うのならウィルソニアニズム)の甘さを指摘する。確かに、実証的に民主国家同士は戦争をしないことがある程度はラセットなどによって示されているし、経験的にもどこかしっくり来る気がする。しかし、平和構築の分野においては、この理論から、だから国を民主的にすればよいという含意が無批判に適用されていることを批判する。

 ”Modern students of the liberal peace have taken a different approach. As noted earlier, they have tended to 'bracket' or ignore the question of whether functioning government exist.”p.50

 この批判、きちんと機能する国家の必要性は、なにも紛争後国への平和構築だけではなく、途上国へのIMFなどの政策などにも当てはまるであろう。そして、Parisはこの今のこの状況(機能する国家をいわば空気のように所与とみなし、その前提で議論を進める学問的欠点)を”the disappering Leviathan”と形容し、古典的な理論が持っていた思想的豊饒さを再評価するのである。しかし、絶対的なリバイアサンそのものを評価するのではなく、むしろロック的なそれゆえフェデラリスト的な思想を評価する。
 
 ”Lasting peace required both the protection of individual freedom and the existence of effective govermental institutions, since the alternative to effective government was untenable: the insecure of nature.”p.50

 こうした議論は正当性と合法性という文脈でも同様である。正当性が合法性に還元されてしまうとなると平和構築において時期尚早な”合法的な”選挙を通じて合法性を社会に創出すればよいとなる。しかしアフガンなどを見ればわかるように、事態は逆で、みなが正当であると認めなければ、すなわち、正当性が確保されなければ、法的領域のみで通用する合法性など無意味である。法律手続きに従って、100人を粛々と虐殺しました。これが機能している法だと言えるだろうか。また、だれも守らない法が法だと言えるのであろうか。正当性の後ろ盾があって初めて合法性が意味を持つのである。法がアプリオリにあるのではなく、正当な国家が法を作るのである。そしてパリスによるならば、正当な国家を作るということは選挙しましたで作れるほど簡単ではない。ということになる。フランスの政治哲学者であるクワコウは『正当性とは何か‐法、道徳、責任に関する考察』の中で、正当性を合法性に還元しようとする実証主義(positivism)を批判し、適切にも以下のように述べる。

 ”合法性への信念が法的秩序の正当性を前提としているという事実は、法の働きが、その形式的な適用条件よりももっと法が課する強制の妥当性の承認に依存するということに力点をおかせるものである。逆の考え方をすることは、結果と原因とを混同することになる。この混同は、制度化の程度の高い安定した社会に分析を限定している観察者に特徴的である。”(p.51)

 この観察者を民主的平和論を論じる者たちとしたら、パリスと同様の主張だということができるであろう。機能する国家、秩序が、そしてそれを担保する正当性が必要なのである。

 こうして正当性について考えるために、シュミットを読むことになる。

 先で述べることになるとは思うが、正当性を無批判に称揚することは実証主義と同様に危険である。前述のクワコウは実証主義批判から、共同体主義的議論を展開するが、正当性を論じるにはどうしても、集団もしくは一定の価値を共有する共同体の実在について論じなければならず、また、それゆえ、集団的心理の暴走とそれへの迎合という可能性を排除できない。また、共同体主義的になるが故、共同体の定義次第によっては排除の理論と機能してしまう。そこに正当性を論じることの困難であり、学者が嫌う点がある。すっきりと論じることができないのである。正当性概念に真摯に取り組み、その重要性と危険性をよくも悪くも示したのがシュミットであるので、まずシュミットから始めよである。そして、ヨーロッパの国際関係論者に存在するように感じられるシュミットアレルギー(ポジティブに引用されることがほとんどない)なるものを相対化するためにも一読しておかなければならない。
  
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