忍者ブログ
自分を探すというよりは確かめるための散歩。
[62]  [61]  [60]  [59]  [58]  [57]  [56]  [55]  [54]  [53]  [52
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

福岡伸一、『できそこないの男たち』

 光文社新書から出版されている生物科学者伝記とでもいうものだろうか。この人の本を読むのは生物と無生物のあいだ、世界は分けても分からない、動的平衡に続いて4冊目である。僕が文系にもかかわらず読めるのは物語形式であるのと、文体がとてもやわらかであるからだろう。

 内容は主に、遺伝子がどのように解明されてきたか、遺伝子レベルでの人間の性差はどのように発見されてきたかをその時々の学者の伝記風記述を通して説明するものである。ミドリムシとゾウリムシの違いがよくわからなくなって以来、生物学という分野に全く触れていない門外漢が内容について云々言うのも何なので、というかあんまり興味もないが、僕なりにこの本の真骨頂だともいえる、妄想だともいえる福岡さんの思想なるものについてここではちょっと触れさせてもらう。

 遺伝子レベルで、人間の性差がHOW、どのように生み出されるのかが科学の発達によって明らかになった。それによると、簡単にいえば、デフォルト状態である女をつくりかえて、もっと言ってしまえば急ごしらえで男が出来上がるのである。

 「男性は、生命の基本仕様である女性を作りかえて出来上がったものである。」p.166

 個人的に驚いたのは、男性器の裏側に走る、手術の跡のような一筋の線についての説明である。福岡さんによるとこの線は、ミューラー管によって生じた割れ目(女性器になるところ)を急ごしらえで閉じようとして残った跡だということである。何気にこの事実発覚には驚いた。というのも僕自身が幼いころに包茎手術を行っており(幼いころに好きでもない温泉に僕を連れて行って確認してくれた親には今更ながら感謝である)、物心ついたとき、というか自分の性器をまざまざと観察するようになったのは手術からだいぶあとでその時発見した例の線は手術によるものだろうとどこか自然に思っていた。なのでこの事実発覚はたぶんここ10年くらいで一番の新鮮さと動揺を持って僕にもたらされたのである。

 まぁ、個人的なプチカミングアウトは置いておくとして、男は遺伝情報の多様性をもたらすために美しい、生物の基本形である女性の間をぴよぴよと飛び回る存在にすぎない。まぁ、ここまではどこか風のうわさで耳にしたこともあったので先の一つの例外を除いては、ところどころにちりばめられたウィットに富む表現を楽しみながらふむふむという感じである。
 そんな流れで本は第11章「余剰」に入る。
 
 「これまで見てきたとおり、生物の歴史においてオスは、メスが生み出した使い走りでしかない。…(中略)…では今日、一見、オスこそがこの世界を支配しているように見えるのはいったい何故なのだろうか。それはおそらくメスがよくばりすぎたせいである、というのが私のささやかな推察である」p.262

 という現代の潮流に敢えて立ち向かうような記述にぶつかる。遺伝子の運び係のオスに、メスがその仕事以外の様々を要求した。福岡さんはそこに「余剰の期限」を見出す。そして、男たちは余剰をこっそりかくしておくすべを身につけていくのである。ここにはなるほどと思わされると同時に、ある種おとこのロマンチシズムがこっそり輸入されているように感じる。それはこの著作のところどころに見受けられるが。
 ここで対比すると面白いのが矢沢あいが『NANA』で登場人物の一人に語らせているせりふである。詳細があっているかは微妙だが、

 「ばかな男どもがあの海を越えようとするから争いが生まれるんだ。女のようにじっと家にいればいいものを」

みたいなことを語らせていた。福岡さんに言わせれば、それは女にせかされたからだというだろう。ただ、それだけでは説明できないものがあるようにも思う。まぁいずれにせよバカな男と上手な女という構図は個人的に居心地の良さを感じるわけであるが。ただ、この福岡さんの思想には自己卑下とある種の卑下の対象たる男のナルシシズムみたいなのが同居している感じがした。僕はそれをある程度好意的に受け取っている。
 
 もう一つの核は、加速覚に関しての記述だろう。福岡さんは動的平衡から連なる生命観に依って、生命の媒体を時間であるとする。

 「私たちにとっての媒体とは何か。それは、時間である、と私は思う。時間の流れとは私たちの生命の流れであり、生命の流れとは、動的な平衡状態を出入りする分子の流れである。・・・・(中略)・・・・いや、むしろこういうべきだろう。生命は時間という名の媒体の中にどっぷりと浸されているがゆえに、私たちはふだん生きているということを実感できないのであると。」p.275

 そして、生きていることを実感できるのが、その媒体である時間を追い越すときだ、そしてその時、一瞬でも時間を追い越せば、私たちは「時間の風圧」をかんじることができる。となんとも詩的な幻想的な表現で読者を動的平衡の世界から、こういうことが赦されるのであれば”人間の世界”にいる錯覚を起こさせてくれるのである。ただ、これを男性のエクスタシーの瞬間になぞらえることにはあまり共感できないが。
 
 三浦しをんは『風が強くふいている』でその「時間の風圧」見事に表現している。今、手元にないので引用できないが、それはそれはみごとな表現である。それから受け取る感覚は、自分が決して走ることによっては感じられないであろうという不可能性によって、それと同時に、とてもリアルにどこかで感じたことがあるという既視感の奇妙な混合物である。それゆえ、僕にとって「時間の風圧」という言葉はとても幻惑的に響く。

 

PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
mail
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
secret (管理人しか読むことができません)
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
バータンQ
年齢:
38
性別:
男性
誕生日:
1986/01/22
職業:
学生
趣味:
妄想
自己紹介:
大学院で平和構築を勉強中。
スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
ブログ内検索
アクセス解析
カウンター
FX NEWS

-外国為替-

Copyright (c)What am I ? All Rights Reserved.
Powered by NinjaBlog  Photo by Kun   Icon by ACROSS  Template by tsukika


忍者ブログ [PR]