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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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 三浦しをんの著である。まほろ駅前多田便利店以前のこの人の作品をはじめて読んだのだが、こっちのほうが好みだった。というか今の気分にあっていた。そこには諦念があり、過度のかっこよさがない。雑草魂とかの美談ではなく、ただ存在することの泥の美しさがある。愛におぼれ、踊らされ、またあきらめしていく中で、どこか“あること”と“思うこと”の隔絶を描いている。一人のキーパーソンを中心に描かれる人間模様がときにはあることの矮小さを思うことのむなしさを。はたまたその逆をというふうに。われ思うゆえにわれありと言ったのはデカルトであるが、そんなに単純ではない。だから彼は近代科学の偉大な創始者にはなりえても偉大な思想家にはなりえなかったのである。ただ、デカルトは言うであろう。思想などとは私の懐疑からすれば不確かなものに過ぎないのだと。でも、その不確かなものに人々は心を病み、歓喜し、振り回されている。あることとと思うことの隔絶の間に必死にぶら下がって腕がもげそうになっているのである。

 今日、朝、二度寝をしてへんな夢を見た。中学校の授業中、僕は先生を貶める。徹底的に。しかし自分がそこで使う言葉や文法、その主張の一つ一つは僕が言葉を発するたびにどこか意味を失っていく。クラスのみんなが僕に次の言葉のアドバイスを求める。それを口にするたびに意味はなくなっていく。そんな感覚におぞましくなって目を覚ました。それと同時に“剥離”という言葉のなんともいえない甘美に浸っていく自分を確認した。あぁ、自由という言葉、正義という言葉正しいという言葉、責任という言葉。どんどんその意味が剥離してくと。言葉から意味が剥離していく様を感じて恍惚が僕を襲った。剥離という言葉はなんて心地いい言葉なのだろうと思っていた。

 一種の虚脱感にさいなまれ、気分は晴れずバイト先に向かい勉強をしようとしたのだが身が入らずこの本を古本屋で手に取った。こんな一説がある。

 雨の上がった日曜日、かわりに桜の花びらが、何かの重みに耐えかねたかのように一枚一枚剥離しはじめた。風に乗った途端に花びらは重さを忘れ、痙攣にも似た震える軌跡を描きながら地面を目指す。

 
僕はこの一説の衝撃に胸を打たれる。今日この本を手にとってよかった。
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 寝ながら学べる構造主義(内田樹)

 内田さんは大好きな学者である。以下はあとがきに書かれた文章である。

 レヴィストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、バルトは「言葉遣いで人は決まる」と言っており、ラカンは「大人になれよ」といっており、フーコーは「私は馬鹿が嫌いだ」と言っているのでした。

 これに尽きるなぁ。と思った。これに便乗させてもらうと、ロールズは「勝ったからといって思い上がるなよ、人には大差なんかないんだ」と言っているのかもしれない。

 もうひとつ。

 無知というのは単なる知識の欠如ではありません。「知らずにいたい」というひたむきな努力の成果です。怠惰の結果ではなく、勤勉の結果なのです。

 目から鱗である。
 学問とはなんであるか?

 この問いをめぐっておおよそ人文系の学問が学問にあらずとされたことがある。それはデカルト以来の経験科学や論理学などの勃興で経験や実験に基づいてその真理性が実証できないものは学問にあらずという実証主義的な背景による。これに価値相対主義的な考え方も相俟って、倫理学とか政治学とかは完全にその存在意義を疑われた。うちの大学に総合人間学部とかいう得体の知れない学部があるが人間科学部とかそういう得体の知れない学部が登場したのは文学部とか哲学とかそういったものの存在意義が問われたためとりあえず名前かえとこか的な流れがあったのである。倫理学では実証主義に抗うことができず、メタ倫理学へと流れ、政治学では特にアメリカにおいて行動論というのが起こった。ただこうした実証的な学問手法は現実追従的であり保守的である。実証主義というイデオロギーの賜物でしかないという過激な反論もちらほら見え始め、実証主義的な現実把握と規範的な理論構築をうまいことやっていこうやという流れがでてきた。それが今。いま、振り子は規範理論構築へと振れているような気がするが、これは危険である。あたまでっかちが世の中を動かすことほど恐ろしいことはない。頭でっかちは老人のように半ば厭世的な態度ですみっこでぶつくさ文句を言っているくらいがちょうどいいのである。もう構造主義とか出てきてよくわからん。みたいになっているのではないだろうか。中世キリスト教社会の崩壊が真理的価値の崩壊をもたらしたのであれば、今はアメリカンドリームの崩壊が世界的な真理の瓦解をもたらしている。真理はそこにあるものでもなくてたぶんフィクション的につくらなけばならないから、あと一世代分は混乱が続く。今の新たな価値を創造している世代が親になって自己欺瞞的に子供にその価値の大切さをその論理付けが難しいというかできないからすっとばして、若かりしころの意味のわからない熱い気持ちだけをなんか神秘的に語ることによって、その系譜学的な由来をしらない子供はあらたな価値規範の中でゆるりと生きていける。そしてまたその子供くらいで価値の崩壊が。だいたい混乱は一世代から二世代周期で起こっている。まぁそんなもんである。だから僕くらいの年の人はもっと価値を無根拠に信望してみてもいいのでは。大学という鳥かごの中でぴーぴー鳴いとけばいいのではないのだろうか。その価値が何たるかは個人的には、ノブレスオブリージ的な積極的な分相応というありきたりに落ち着く。それと坂口安吾の言葉を借りればきちんと堕落していくことである。坂口安吾はすごい。

 あぁ、学問とはなんであるか?ということであった。山田詠美の新作が「学問」である。大人の階段上る様子が描かれている。学問とはなんであるか。自分が知っていることに名前を与えることである。名前をしってそれを知ることではない。ということはそもそも学問の存在意義なんて人間循環的なものである。ようするになんとでもいえる。なんかそのような気がする。有体に言えば己を探求することかもしれない。性欲、食欲、睡眠欲に生きる思春期を切り取った作品である。おまえはもらしてもいいんだ、しょんべんじゃなくておしっこだから。それを言った本人は後におしっこの涙を流すことになる。

読んだ本
告白・・・これはとてもすきである。人間の感情のどうしようもなさを見事に描いている。それと過去に関する事実などない。あるのは記憶による解釈だけであるというような。それでひとつの出来事が立体的に質感を持って浮かび上がってくる。
 法とはなんぞやと考えていたらちょっと息が苦しくなってきた。ただ、今読んでいる本で、価値が多様化する中で議論の大切さをといているし、ハーバマスが理想的発話状況などと言っているのを読んで、少し自信がわいてきた。というのは二回生のときに自分が世界平和にいたるプロセスを夢想的に(めっちゃ必死だったが、およそ二ヶ月にわたり三時間睡眠くらいで考え抜いた)書いたものと一致点が結構見られるからである。
 
 その条件というのは
①いつでも討論を開始したり、継続したりできること
②主張について説明や正当化、あるいは意義の申し立てや反対論証がなされること
③各人が自ら正しいと思うことを偽りなく誠実に述べること。
④主張と反論の完全に対等な機会が保障されていること
があげられる。これは僕が二回生のときに書いたやつほぼ一致する。僕は二回生時、国際紛争解決(広義には国際問題)における対話(独自にそのプロセスを定義)の重要性とその意義をまとめた。その学問的な一貫性や精緻さは別として。ひとつ愚痴をあげておくと、そこで相手に対する忌憚なき意見を言えることという表現がほかのメンバーに受け入れられず訂正したが、これは今でも正しいと思っている。ただ自分が論じたのが一般論から開発援助に具体化適応するというものだったから開発に特殊なさまざまな問題点があったのだが似回生の僕からしたらそこまでの論理を形成するには実力不足だったということだ。そしてなぜ正戦論なるものを勉強しているかというと、自分の諸概念対する理解不足、その拡大解釈が悲しくなったから。その議論において使われる諸概念、言葉をもっときちんとしたもの手入れをした道具にしたいという考えからである。日常生活で使う包丁を料理人が使うそれに昇華させたいという意図がある。拡大する正義などの言葉を精緻化することでサイズダウンし、そうすることでこそその効用を増大させたいと思っているのである。
 話が脱線してしまったが、二回生のときの苦労は無駄じゃなかったと思う。ほかのメンバーが理解できなかったのは自分の力の不足とメンバーの理解能力の欠如。乱暴に言ってしまえば大学生の未熟さ。
 
 大学生はわかったつもりになる。大学院生になりわからないということがわかる、そして研究者は問題を確固たる諦念の元、社会に対して丸投げする。僕は確固たる諦念を持つにいたる過程をたどることをあきらめたい。と常々思うが、いつの間にか考えているのだからしゃぁないのかと。あぁ。そう、こう定式化すること自体が大学生特有のわかったつもりになっているという批判には目をつぶる。これは構造主義的な考え方からくる批判であり、構造主義というのはその名前とは違ってイデオロギー性を持っていない。一種の批判理論である。脱中心化とか言われるはそうするしかないからである。構造主義に立って物事を論じること自体が構造主義的に言うとよろしくないのである。だからその構造の中に囚われたままに脱中心化、脱構造化をしていくしかないのである。自由から自由になれない人間。なんとも悲しい存在である。

 ちょっとややこしくなってしまった。この投稿で書きたかったのは以下である。宇宙兄弟に出てくる一説。ラジオのDJがはがきに答える以下のせりふが漫画の主題的に言われているのではなくてBGM的に描かれている。そこがなんとも好きである。

・石は直径何センチになったら岩になるんですか?その答えは君の心の中にあるよ。
・レモンの汁が目に入っていたいです。どうしてですか?大概のものは目に入れると痛いものなんだよ。

僕はこの二つの言葉が難しい言葉でいっぱいになって深呼吸した瞬間に浮かんだのでそれを書き留めておこうと思ってパソコンの電源を入れここに書いた。
あぁ気分転換にならなかった。。。
 

 

 『飲み屋のトイレで友がくれた11件目のメールを読んだときだ。』

 この文章を立ち読みしているとき、僕は涙が出そうになった。ファミリーマートの雑誌コーナーで。
 
 冒頭の言葉は現在モーニングに連載中の宇宙兄弟という漫画の今週号のラストを飾るものである。JAXAへの合格を無事決めた主人公がいつその手に余るほどの合格という事実の重みを実感するのか。そのうれしさを厳しさを持ってこのほかでもない自分自身のものとして享受するのか。今週号には現実とそれに対する自分の感覚の関係の面白みが凝縮されている。事実と真実の違いといったら月並みで使い古された言葉になってしまうが、事実が文字通り現実のものとして自分に獲得された経験となるときのタイムラグを、そして現実に付きまとうさまざまなひだをその手触りを見事にあらわしているものであった。僕はこの漫画を連載当初から読んでいるのであるがなんとも好きな漫画である。

 この主人公は面接官に死ぬ覚悟はあるかと聞かれて、ないですと答える。これと似たようなやりとりは流浪人剣心やばがぼんどなどでも見られるいわば漫画ではお決まりのものなのであるが、宇宙兄弟ほどその言葉に温かみ、人間くささ(汚らしさも含めた)がこもったものはないように思う。こんなことを書いていると漫画を集めたくなってきたので、ここらへんでやめておこうと思う。


MEMO
最近読んだ本。
・重力ピエロ
・向日葵の咲かない夏
 

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1986/01/22
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自己紹介:
大学院で平和構築を勉強中。
スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
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