法とはなんぞやと考えていたらちょっと息が苦しくなってきた。ただ、今読んでいる本で、価値が多様化する中で議論の大切さをといているし、ハーバマスが理想的発話状況などと言っているのを読んで、少し自信がわいてきた。というのは二回生のときに自分が世界平和にいたるプロセスを夢想的に(めっちゃ必死だったが、およそ二ヶ月にわたり三時間睡眠くらいで考え抜いた)書いたものと一致点が結構見られるからである。
その条件というのは
①いつでも討論を開始したり、継続したりできること
②主張について説明や正当化、あるいは意義の申し立てや反対論証がなされること
③各人が自ら正しいと思うことを偽りなく誠実に述べること。
④主張と反論の完全に対等な機会が保障されていること
があげられる。これは僕が二回生のときに書いたやつほぼ一致する。僕は二回生時、国際紛争解決(広義には国際問題)における対話(独自にそのプロセスを定義)の重要性とその意義をまとめた。その学問的な一貫性や精緻さは別として。ひとつ愚痴をあげておくと、そこで相手に対する忌憚なき意見を言えることという表現がほかのメンバーに受け入れられず訂正したが、これは今でも正しいと思っている。ただ自分が論じたのが一般論から開発援助に具体化適応するというものだったから開発に特殊なさまざまな問題点があったのだが似回生の僕からしたらそこまでの論理を形成するには実力不足だったということだ。そしてなぜ正戦論なるものを勉強しているかというと、自分の諸概念対する理解不足、その拡大解釈が悲しくなったから。その議論において使われる諸概念、言葉をもっときちんとしたもの手入れをした道具にしたいという考えからである。日常生活で使う包丁を料理人が使うそれに昇華させたいという意図がある。拡大する正義などの言葉を精緻化することでサイズダウンし、そうすることでこそその効用を増大させたいと思っているのである。
話が脱線してしまったが、二回生のときの苦労は無駄じゃなかったと思う。ほかのメンバーが理解できなかったのは自分の力の不足とメンバーの理解能力の欠如。乱暴に言ってしまえば大学生の未熟さ。
大学生はわかったつもりになる。大学院生になりわからないということがわかる、そして研究者は問題を確固たる諦念の元、社会に対して丸投げする。僕は確固たる諦念を持つにいたる過程をたどることをあきらめたい。と常々思うが、いつの間にか考えているのだからしゃぁないのかと。あぁ。そう、こう定式化すること自体が大学生特有のわかったつもりになっているという批判には目をつぶる。これは構造主義的な考え方からくる批判であり、構造主義というのはその名前とは違ってイデオロギー性を持っていない。一種の批判理論である。脱中心化とか言われるはそうするしかないからである。構造主義に立って物事を論じること自体が構造主義的に言うとよろしくないのである。だからその構造の中に囚われたままに脱中心化、脱構造化をしていくしかないのである。自由から自由になれない人間。なんとも悲しい存在である。
ちょっとややこしくなってしまった。この投稿で書きたかったのは以下である。宇宙兄弟に出てくる一説。ラジオのDJがはがきに答える以下のせりふが漫画の主題的に言われているのではなくてBGM的に描かれている。そこがなんとも好きである。
・石は直径何センチになったら岩になるんですか?その答えは君の心の中にあるよ。
・レモンの汁が目に入っていたいです。どうしてですか?大概のものは目に入れると痛いものなんだよ。
僕はこの二つの言葉が難しい言葉でいっぱいになって深呼吸した瞬間に浮かんだのでそれを書き留めておこうと思ってパソコンの電源を入れここに書いた。
あぁ気分転換にならなかった。。。
その条件というのは
①いつでも討論を開始したり、継続したりできること
②主張について説明や正当化、あるいは意義の申し立てや反対論証がなされること
③各人が自ら正しいと思うことを偽りなく誠実に述べること。
④主張と反論の完全に対等な機会が保障されていること
があげられる。これは僕が二回生のときに書いたやつほぼ一致する。僕は二回生時、国際紛争解決(広義には国際問題)における対話(独自にそのプロセスを定義)の重要性とその意義をまとめた。その学問的な一貫性や精緻さは別として。ひとつ愚痴をあげておくと、そこで相手に対する忌憚なき意見を言えることという表現がほかのメンバーに受け入れられず訂正したが、これは今でも正しいと思っている。ただ自分が論じたのが一般論から開発援助に具体化適応するというものだったから開発に特殊なさまざまな問題点があったのだが似回生の僕からしたらそこまでの論理を形成するには実力不足だったということだ。そしてなぜ正戦論なるものを勉強しているかというと、自分の諸概念対する理解不足、その拡大解釈が悲しくなったから。その議論において使われる諸概念、言葉をもっときちんとしたもの手入れをした道具にしたいという考えからである。日常生活で使う包丁を料理人が使うそれに昇華させたいという意図がある。拡大する正義などの言葉を精緻化することでサイズダウンし、そうすることでこそその効用を増大させたいと思っているのである。
話が脱線してしまったが、二回生のときの苦労は無駄じゃなかったと思う。ほかのメンバーが理解できなかったのは自分の力の不足とメンバーの理解能力の欠如。乱暴に言ってしまえば大学生の未熟さ。
大学生はわかったつもりになる。大学院生になりわからないということがわかる、そして研究者は問題を確固たる諦念の元、社会に対して丸投げする。僕は確固たる諦念を持つにいたる過程をたどることをあきらめたい。と常々思うが、いつの間にか考えているのだからしゃぁないのかと。あぁ。そう、こう定式化すること自体が大学生特有のわかったつもりになっているという批判には目をつぶる。これは構造主義的な考え方からくる批判であり、構造主義というのはその名前とは違ってイデオロギー性を持っていない。一種の批判理論である。脱中心化とか言われるはそうするしかないからである。構造主義に立って物事を論じること自体が構造主義的に言うとよろしくないのである。だからその構造の中に囚われたままに脱中心化、脱構造化をしていくしかないのである。自由から自由になれない人間。なんとも悲しい存在である。
ちょっとややこしくなってしまった。この投稿で書きたかったのは以下である。宇宙兄弟に出てくる一説。ラジオのDJがはがきに答える以下のせりふが漫画の主題的に言われているのではなくてBGM的に描かれている。そこがなんとも好きである。
・石は直径何センチになったら岩になるんですか?その答えは君の心の中にあるよ。
・レモンの汁が目に入っていたいです。どうしてですか?大概のものは目に入れると痛いものなんだよ。
僕はこの二つの言葉が難しい言葉でいっぱいになって深呼吸した瞬間に浮かんだのでそれを書き留めておこうと思ってパソコンの電源を入れここに書いた。
あぁ気分転換にならなかった。。。
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