シュミットは友敵関係を政治とした。党派性といってもいいだろう。実存をかけた戦いがそこに含意されるべしとしている。ちゃんと論じるともっともっと深いがとりあえず。
内田樹さんがおそらくかなり分かりやすい感じで政治の本質を突いている気がした。かれの慈愛については共感しかねるが、
-どんな隣人でも愛するのですか。
対面的な状況では、隣人をそのまま愛することが可能です。でも、三人以上になると、そうはゆかない。私にとっての二人の隣人が確執し、一方が他方を迫害した場合には、理非を決し、いずれかに加担しなければいけない。それが社会正義というものです。けれども、正義の執行を要請するのは、もともとは不当に傷つけられたもの、奪われたものに対する慈愛の思いです。ですから、ひとたび正義の峻厳な裁きが下されたあと、私たちはまた「正義の名において罰を受けたもの」に慈愛をもって臨むことになります。正義と慈愛はそのようにして循環するのです。
けれども以下はある種の倫理的な問いかけになってくるが、3アクター以上になったときのこの党派性が政治の本質である。そしてどちらかに加担するということに意識的にであれ、無意識的にであれ嫌う人々が、なにかいやなものを形容するときに政治的だね、政治的な話はちょっとと言って政治という概念を貶める。その態度決定自体が一つの政治的決定であることを知らず。
誰がいったか忘れたが、そして忘れたことが致命的だと思い、恥じ入るばかりだが、
誰も政治から逃れることはできない。
ということなんだろうと思う。
内田樹さんがおそらくかなり分かりやすい感じで政治の本質を突いている気がした。かれの慈愛については共感しかねるが、
-どんな隣人でも愛するのですか。
対面的な状況では、隣人をそのまま愛することが可能です。でも、三人以上になると、そうはゆかない。私にとっての二人の隣人が確執し、一方が他方を迫害した場合には、理非を決し、いずれかに加担しなければいけない。それが社会正義というものです。けれども、正義の執行を要請するのは、もともとは不当に傷つけられたもの、奪われたものに対する慈愛の思いです。ですから、ひとたび正義の峻厳な裁きが下されたあと、私たちはまた「正義の名において罰を受けたもの」に慈愛をもって臨むことになります。正義と慈愛はそのようにして循環するのです。
けれども以下はある種の倫理的な問いかけになってくるが、3アクター以上になったときのこの党派性が政治の本質である。そしてどちらかに加担するということに意識的にであれ、無意識的にであれ嫌う人々が、なにかいやなものを形容するときに政治的だね、政治的な話はちょっとと言って政治という概念を貶める。その態度決定自体が一つの政治的決定であることを知らず。
誰がいったか忘れたが、そして忘れたことが致命的だと思い、恥じ入るばかりだが、
誰も政治から逃れることはできない。
ということなんだろうと思う。
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