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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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 死とは絶望なのか。

 そんな言葉が頭にふと現れることがある。近しい人物との別れ際に死なないでねと言われた。死相でも見えていたのだろうか。僕はおそらく自分で自分の命を断つことはできない。自分の持つ繋がりの管をはさみで断ってしまうほどの勇気がない。その瞬間に訪れるであろう苦痛を想像して、おいしいお酒の味を想像して。人は時間的未来に起こると仮定できること(まったく妄想に近いもの)にすがって生きている。終わりが来たら楽になるからあと一踏ん張り。いつまで続くか分からないからこの幸福を享受する。
 
 もしいつ終わるとも分からない苦痛が終わることなくいつまでも続くとしたらぞっとする。もしいつ終わるとも分からない”幸福”が果てることなく続くと思うとその場で踊り狂って自分の終わりへとステップを踏むだろう。軽快に。苦痛の永続が”幸福”の連続よりも幸福であるのは、たとえそれがいくら深く長くても、その先に”幸福”という苦痛の終わりを想像することができるからである。”幸福”の連続の中で人はどうやって生きていくのだろう。想像がつかない。思ったとおりになれて、好きなことができる。幸福なときに使うエネルギーは苦痛のときに使うそれよりもはるかに莫大なものだろう。苦痛には耐えられる。幸福は享受しなければならない。終わりのない積極性は限りない消極性を招くこととなる。

 死とは絶望なのか。人が生まれて死ぬまでが苦痛であるのであれば死とは希望になる。それがもし幸福の連続でもそれは希望になるのでないのか?なにか静的な状態が続くことが不幸であるとするなら、幸福な状態とは動的な状態となる。ということは死は絶望であるのかという問に答えるためにはまず幸福であったり希望であったりがどういったものかを考える必要がでてくるのではないか。これは非常にめんどくさい。また日を改めることとする。ただこれだけは言える気がする。死はその絶対的絶望性によって逆説的に生きることに希望を投げかける。そういう意味では希望の源泉である。とするならば終わりのない苦痛を感じる今にその絶対的絶望性に希望を見出しそこに飛び込んでいくことはある意味で苦痛の終わりを意味するものであり、それはそれで説得力のあることなのかもしれない。

 さて、終わりということを死と連動させて考えるとどうしても考えが入り組んだものになってしまう。自分が言いたいことを言うためにもう少し具体的で身近な問に換えてみようと思う(別に死が身近ではないということが言いたいわけではない)。

 人が頑張れるのは終わりがあるからである。

 この命題は真か偽か。真である。もう少し分かりやすく言うと、人が何かに対して打ち込めるのはその何かが永遠的なものではありえなくて(たとえそれが宇宙のなぞを解き明かすということであっても人間の有限性により、その問題は有限的にならざるを得ない)、限定的で有限的なものであるからである。ということは概ね妥当であると言えそうだということである。とても曖昧な表現になってしまった。というのも書いているうちにそもそも有限存在である人間が無限を想像したところでそれが可能なのかという疑問が湧いてきたし、真であるからどうなのだということを考え出すとややこしいし、こうした表現を使うことで言葉が獲得する厳密性があまりにも厳密度を欠いており、あまり意味がないと思ったからである。自分の不肖のためである。
 こういうとき具体例を出してお茶を濁そうと思う。スポーツをしていたらそのトレーニングのうちのひとつとして触れることがあるかもしれないが、終わりを走者に知らせずに延々と(少なくとも走者にとっては半永久。終わりがないのだから)走らせるというものである。こうすることで走力と同時に精神力が鍛えられるらしいのだ。
 
 ここではとりあえずの結論として、人が頑張れるのは終わりがあるからであるということを真であるという前提の下話を進めたい。今までは人は一般に1人の人間として幸福や苦痛とどう向き合っているかということについて考えてきたのだが、同上人物か複数人になると話は複雑になる。ある一つのことを共同して行なっている関係性にいる二人を考える。その対象を片方が半永久的なものと考え、片方が限定的なものとして考えている場合、この2人の間に悲劇は起こる。一方にとってはその行なう対象は“耐えるべき(受動的傾向で臨む)もの”であるのに対して、もう一方にとってそれは“頑張って達成する(能動的傾向で臨む)もの”となりその関わり方において齟齬が生じるのである。ここで行うという能動的行為に対して受動的態度であることがありえるのかという矛盾が生じているように思うが頭が正常に働いていなくて眠くなってきたので結論を急ぎたい。ここでの2人が取り組む共同事務であったり、この2人の関係性がある程度公共性を備えたものであるのであれば、これは望ましい齟齬であり、摩擦・切磋琢磨の可能性を秘めているのであろうが、それが私的なものになると、ここで生じた齟齬と言うのは双方にとって必ずしも好ましいものではなくてむしろその2人の共同事業を頓挫させるものであるように思うのである。互いに互いが注ぐエネルギーに不満を覚え、均衡点が見出せる(妥協ができるレベル)の問題では終わらないのである。そしてその関係性は不可避的に終幕という希望であり絶望に向かうこととなるのである。
 
 しまった、最後のほうはぐだぐだになってしまった。前半部分が言いたいことであり、後半部分は愚痴であり、こじつけであり屁理屈である。 
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