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現在シュミットからいったん離れて、ルソー、ウェバーをしている。
というのは、合法性や正当性という僕にとってのキータームを考える上で、シュミット以前の概念史とでもいうべきものを自分なりに理解する必要性を痛感したからだ。

ということで現在、ルソーとウェバーについて論じている本を読んでいるが、それはまだ読了できそうにないので、とりあえず、不平等起源論を。ちなみに賛否両論あると思うが、中山元訳を。読んでてたぶん岩波のほうが厳密なのだろうなぁと思い、岩波で読み直す必要を感じた。原文で?ちょっとそれはもうちょっと先の話である。

”この論文の目的は、事態の成り行きのうちで、暴力の代わりに権利が登場し、事前が法に服するようになった瞬間を明らかにすること、そしていかなる奇跡の連鎖のおかげで、強者が弱者に奉仕することを決意できたのか、人民が現実の幸福を捨てて、観念のうちで休息を購うことを決意できたのかを説明することにある。”(p.51)

という衝撃的な、少なくとも当時は天地を揺るがしえたであろう(ルソーの思惑とは無関係に、実際に革命という形で揺るがすことになるのだが)、書き出しからこの不平等起源論は始まる。論文を書くときに、問いの重要性を教えられるが、この問いは二つの点において秀逸である。

①強者が弱者に奉仕するという逆説を鮮やかに宣言したこと。これはルソーの思想の基礎をなすものである。人間は鎖に繋がれてる云々が社会契約論からよく引用されるが、不平等起源論をルソーの自然状態の定義を理解することなくしてはこの鎖の逆説の鋭さは理解できない。

②観念のうちでの休息という表現によって、フィジカルな存在、自然状態にいる人間が社会状態になることでなにが変わるのかという彼のモチーフを端的に示している点。

【追加】個人的には自分のたぶん一生の研究テーマが暴力が法に代わる瞬間に関する探究であるので、個人的には一番最初の部分が好きだ~~~!
 
 この問いによって、ルソーは当時の時代への批判と、自分の主張を高らかに宣言したのである。ルソーの生きた時代というのは、象徴的な意味でホッブズから始まるとされる(突然変異でホッブズが出てきたわけではない)、社会契約論の全盛期であり、ルソーが不平等起源論で批判の対象としたのは、他でもないホッブズであった。ホッブズは弱者が強者に服従するという構図を持っており、そして、フィジカルな人間存在、アトム的個人からなる、機械論的な社会像を持っていた。しかし、ルソーが描いたのは社会になんらかの実存的紐帯を認めるような、有機的社会像である。ルソーは①によって社会契約の構図を、②によって、ホッブズの機械論的人間像をひっくり返そうとしたのである。この論考の肝は以上である。一般意思がどうたらこうたらという議論は社会契約論に譲る。

 この論考の中でルソーは文化人類学ともとれるような手法で自然状態を定義していく。そして極めて厳密に、人間が有する、社会的産物と、自然的遇有物を区別しようとする。ルソーは自己保存が人間の本質を形成することを認めるが、

”野生人が自己を保存しようとする配慮のうちに、社会の産物である様々な情念を満足させる欲求を持ちこむという間違いを犯した”p.100

としてホッブズを糾弾する。ホッブズの万人に対する万人の闘争に象徴される個人像はあくまでも社会的産物であり、自然状態ではないとする。ルソーにとって個人は、孤立した人間であった。一つ付言しておくと、事前状態の妥当性云々の議論に生産性はない。重要なのは仮説的自然状態において、その論者がどういった要素を差別化しようとしたかという点にある。ロールズは才能を公共物として観念しようとした。自然状態の妥当性ではなく、その根底にある価値のラディカルさゆえに称賛に値するのである。
 
 本論とはずれるが、ホッブズをここで必要以上に批判する気があるわけではない。あくまで文脈依存的に考えた場合、ホッブズは平和の思想家であった。彼の自然状態は彼の時代を戯画化したものであり、彼の論考は目的論的に解釈される必要もあるのである。こんなことを言うと、いや、本質を抜き取らなくてはなどと批判されそうだが、相対主義的な僕はそれに与しない。

 論を戻そう。孤立した人間がどのように社会的状態になるのか。このプロセスはルソーにとってそして学問としてもそうそう重要ではない。重要なのは自然状態との違いである。ルソーの答えは簡単である。それは”所有の観念の発生”である。所有はそして肥大する。

”一人の人間が他人の援助を必要とするようになった瞬間から、また一人で二人分の食料を確保しておくのは有益であることに気付いた瞬間から、平等は姿を消し、[中略]、やがて、隷属と窮乏が芽生え”p140、

”人間は他人の主人であるかのようにふるまいながらも、実はある意味では他人の奴隷となった”p.147

のである。この後、社会契約論的な議論が展開されるので、ここでは深入りしないが、ルソーは最後に”新しい自然状態”という概念を登場させる。これは社会状態に達した人間の行きつく先の描写なのであるが、これが文明状態と置換可能なのかというのがまだ自分の中でいまいちしっくりきていないし、置換不可能な気がする。いずれにせよ、もう少し考えなければと思う次第である。

【批判】
p.156。批判というほどのものではないが、戦争の惨禍という項で、国内類推が強く働いてる。やっぱり国際関係における正当性概念を考える上では過去の遺産を大きく超えていく必要があるなぁ。

p.257。自己愛と利己愛について。利己愛が社会的産物である点は理解できるのだが、自己愛、人類愛とも言い換えられるこの愛の存在証明はどうやって果たされるのか。曖昧である。ここにルソーのコスモポリタン的契機がある。
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