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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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 いわき市に救援物資を届けにこの週末行っていた。広島から東京をただひたすら走り、そして現地で情報収集をしながら、物資の分配を決めた。また四月に第二陣が出るようなので、参加することになると思う。平和構築を専門に研究を進めている身なので、今回の経験を大きなものにしないといけないと思う。
 思ったことをいくつか。

・必要の平凡さ
 個人的には免許取得後一回も運転していないマニュアル車というかマニュアルの2tトラックを運転したことがとても大きな衝撃だった。切迫した状況でできないとか言ってられないのである。するかしないか。そこでチャンスをつかめるかどうかがわかれている部分がある。
 まぁそこまで話の大きいものではないが、いわゆる現場で求められるのは特殊な技能、才能などではまったくないということである。運転技能、体力、物資を効率的に積む柔軟性など、極めて日常的な能力が日常的なレベルで求められているということでそれ以上でもそれ以下でもないということがあたまでっかちの大学院生からすれば大きな発見であると同時に、大きな安心である。体一つでもできることがあるということ。
 それではなぜ理論が必要なのか?たぶんそれは非常事態をあくまで日常の中で解決しようとする途方もないプロジェクトのためではなかろうかと思う。

・ネットワークとその入り口
 先ほど、体一つでできることがあると言ったが、体一つをどう活かすのか、ということは別問題である。逆説的に響くが体一つで行ったって何の役にも立ちやしないのである。むしろお金の方が断然役に立つ。体が活きてくるのはそれがネットワークと繋がったときである。そしてそのネットワークの接続口にアクセスできるかどうかというのは先ほどのするかしないかという、一見すると安易な決断に基づいていることがある。いや、というよりは、行く、やる、という心構えをしておくかどうか、というか、研究をしている身からすると、理論と実践のリンクをなんらかの形でいつも社交辞令ではなく真摯に考えているかということとも繋がっている気がした。高校のころ部活の練習で、練習のための練習ではなく、試合のための練習をしろとよく言われていた。やっとその意味がわかった気がする。
 見るまえに跳べ、なのかもしれない。

・日常で対応する
 行って思ったのは日本の行政の底力である。極めて効率的に物資を送るシステムが出来上がっている。確かに、一部不足、見落としがあるようだが、盲目的なNGOなどをうまく使い、そこら辺をカバーしている。NGOのパラドックスでも言えるものがそこにはある。NGOなどはいつも政府、行政を批判するが、そのお墨付きを結構自慢するのである。これはやはり政府組織、行政組織の正当性の高さを物語っているだろう。それらが完璧だとは決して言わないが、日本にはきちんと機能する行政が存在する。このことを過多にも過小にもならずきちんと評価したほうがいいと思う。そして、行政が行うのはあくまで”日常”として対応を行うということである。そこには決まりがあり、手続きがある。そしてそれゆえ、大規模に展開できる。多くの人のニーズはこれにて満たされているというのが現状だと思う。そして洩れたところをいわゆる市民社会が担うのだろう。そして、その漏れは今に至っては誤差の範囲内ではなかろうかと思う。
 ここで当然ながら、人の数を誤差で済ますとは何事だという批判が聞こえてきそうであるが、その批判者に問い返したい。その誤差をあなたはどう扱うのか?と。すでに誤差を誤差じゃなくするために、多くの団体が我先にと調査を開始し、プロジェクト展開を進めている。過剰ともいえる勢いで。NPOやNGOは集まった募金を分配してもらいやすくなっている。それでも行政の規模に比べた時のその矮小さに驚くだろう。そしてそれで十分な気がしてならない。身の丈に合った場所でしか活動はできない。そして身の丈をそれぞれがおこなうことが大切である。実際、さまざまな団体の調整会議も仙台などで開かれるようになってきている。
 物流も徐々に回復しつつある。物流の威力はすごい。ほしいものがほしい人にいきわたるというのはなかなかにすばらしいことなのだろうと痛感する。資本主義批判をする人はそこら辺をしっかり論駁できないと説得力がないのだろうなぁと思う。

・日常と平凡の埋めがたい差
 日常、日常と書いてきたが、それは平凡とは決定的に異なる。決して現地で起こっていることは平凡なことではない。しかし、私にとっても、彼らにとってもそれが非日常なんかではなく、過ごしていかなければならない、日常であることには変わりない。おそらく、支援物資が安定してきているなかで、その日常度合いは日に日に増していき、周りの関心も日に日に減っていくだろう。しかし、おそらくは、今からが一番しんどいのではないかと思う。日常の非平凡さが失われ、日常の平凡さが戻ってきたときに。
 しかしこの戻ってきた平凡さは以前享受していた平凡さとは似ても似つかないだろうと思う。そこには以前より膨らんだ需要と消費(特に車や建築関係)が見られることだろう。そしてそこには平凡な交換過程が生まれる。しかしその交換過程のアクターはもはや以前と同じ動機ではない。しかし、日常は過ごさなければならないのである。
 僕は被災地の方々をどう捉えているのだろうか。と自問したとき、やはり僕には関係が薄い、もしくはないと答えざるを得ない。というよりはやはり地震を経験した人はその経験の中で生きなければならないし、僕はそれを経験していない。加えて、彼らの名前を知らない。でもなんとなくなんかしたほうがいいんじゃないか、できるんじゃないかという思いはある。たぶん、僕も自分とは関係ない人に助けられたことが多々ある。それでいいのではというかそれしかないのかなぁ。よくわからない。じゃあ自分はなにをするのか。たまたま与えられた、中には自分で近づいて行った、環境の中でつかめるものをつかむことしかできない。つかまないことはもうしないことにした。

・身近な不信と諦念じみた信用、そして贈与
 おそらく、今回の震災に関して、いろいろなこという人がいる。そして、時に不信に陥りそうになる。僕はおそらく倫理的規範に厳しい方だと思う。それゆえ、その基準にのっとらない人を蔑む傾向がある。人をさげすむこと自体は倫理的にいいのか、自分の倫理規範の根拠はどこかというそういった話はここでは無視する。しかし、最近、あまりこだわらなくなってきたように思う。あくまで相対的にではあるが。。。
 こうしたときに、人を蔑んでいる暇はないし、そんなことをしても面白くない。自分はする。なにかが起こった時、それをどうにかしようと立ち上がる人が、考える人が世の中には一定数存在する。僕は人道的介入などを結構広義な意味で研究しているのでそのマイナスの効果も無視できないものだとは思うが。。。それでもその一定数によって少なくとも短期的に大きな失望を埋める努力がなされるのであれば少なくとも非常事態においてはそれでいいのではないだろうかと思う。その短期的援助がなければ成り立たない場所があるわけで。
 そうした一定数からの贈与によって何かが動き出したら、その後の趨勢は常に反省的に考えられ、実行されなければならないと思う。ここでやっと理論の登場である。確かに、その例外状態を日常に引き戻す、そこのタイムラグについてはもうちょっと考察しなければならないし理論化が必要であろう。しかし、少なくとも日本においてはそのタイムラグは無に等しく、強固な基盤の上に復興が行われている。これが紛争国などとの大きな違いである。

・自分の立位置
 先ほどと関連するが、それでは自分の立ち位置はどこにあるのか。僕はたぶん、個人の顔が見えると、何かをしたいなどと思わない気がする。いや、でも過去の経験からすると、結構無差別に顔が見えたからなにかしてきたような気もする。反面是が非でもこの人のためにとなることもあるが、それは極めてまれなケースである。顔がないからこそ、なぜか動こうと思う。ぼくにはこの理路が分からない。はっきり言って、多くの人を信じていないし、信じる気もない。しかし、そこに一定数信じれる、いや、崇拝さえしたくなるようなすばらしい人が存在しているのもまた否定できない。そして、僕はその自分が崇拝さえしたくなるような人の存在に賭けてなにかをするのではないだろうか?と思えてきた。それではその賭けが見込みがなさそう、成り立たなかったらどうするのか。気持ちよくこの世を去れるだけだと不謹慎な言葉がまず頭に浮かんでしまう。極めて危うい線上にいるような気がする。でも実際はそんなことは起こりえないこともどこかで分かっている。
 いや、反対に、自分が崇拝するような人はたぶん、自分で立って行けるから、これまで自分を頼ってきた人、自分を必要とする人にコミットしてきたということもできる。それが嫌いな時もあったにもかかわらず。これは向こうからの積極的働きかけがあったからだということができる。じゃあ今回は?働きかけはない。なぜ勇んで出て行ったのか。おそらく、震災地の人を思ってというよりは、近しい人の要請に応えたというほうが適切かもしれない。そして、近しく感じる人の多くがそのような贈与的行為を是とする人であるということだけである。しかしここでもう一つ難問が。みんなが是としていたとしても、円環が閉じてしまう。だれかが、その円環をどこかに接続しない限りは。今回はラッキーだったし、年齢的にももうしばらくはその円環の一部をなす役割が多いだろうが、先ほどの練習のたとえをしっかり肝に銘じておかなければならない。もし円環が閉じられていたら、そのとき自分が先頭に立つのかどうか。先頭などなくてもその場の間主観の作用で物事は動くと言われそうだが、現時点ではそれは気休めにもならない逃げ口上に聞こえてしまう。最初の一歩を踏み出すかどうかというところに自分の裁量の余地が大きく残されているように思えるから。
 
・課題 
 小学生以来の課題(当時は課題だと思わなかった)であり、おそらくは数多くの人に、特に、大学院に入ってから指摘される点である。そして、それは同時に、僕の成長の必要性を示している。しかも急務の。僕はたぶん、“人を信じたいけど信じられない”という矛盾に満ちた言葉で逃げようとしている問いにそろそろ本気で立ち向かわなければならないのだろうと突き付けられた。それは、コソボで出会った友人であり大先輩、今回の旅路で一緒だった院の先輩とフィールド志向の先輩などが示してくれたものである。
 言葉を借りるなら、したいこととできること、心地いいことと求められているものを冷静に見極めていく必要があるのだろう。

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大学院で平和構築を勉強中。
スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
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