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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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先日、地震があった。

その被害の大きさ、甚大さについてどうだこうだと言えることはない。そして、その地に赴き、何かをしようと行動する人が存在することも研究室で異臭を放つだけの僕から比べればとても心温まる光景である。
政府は民間援助団体、NGOなどとの連携対策本部みたいなのを立ち上げた。迅速な対応だと思う。

僕は安全地帯にいて、それを生身の体で感じることは到底できないし、その安全地帯に偶然いたことを喜ぶべきですらあるかもしれない。そして、そのような僕が何を言おうと机上の空論になるきらいはまぬかれない。

ただ、違和感を感じるのは、お祭りと化した周りの、特にはメディアの反応である。皆が地震を一様に取り上げる。一定程度は理解できる。それだけの大きな出来事である。しかし、同じ映像、同じ写真を同じ時間に、多様な媒体がこぞって報道することに何の意味があるのだろうかと思う。
そのヘリコプターの一台を救援に回せばいいのに。スーツにヘルメットでニュースを読むアナウンサーの後ろの報道室ではふつうの格好をした男性がかけずり回っている。なんとも滑稽だ。
ニュージーランドでは上空のヘリコプター規制が行われたらしい。
天災には党派性がない。そのため、政治家におんぶだっこの日本のメディアは報じ方に気をもまなくてもよい。共通の悪に向かって皆で闘おう。とでも言わんばかりである。本当にそうだろうか?

他の地にいる人々の反応もあまりなじめない。みな被害を悲しみ、人の親切をはやしたてる。なぜ今回だけ?

人々は劇場という密室の中で、純粋な悲劇を目撃し、憤り、聖人となる。劇場の外には悲喜劇織りなす混沌が広がっている。
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現在、将来国連で働きたい人のためのトレーニングセミナーに一ヵ月ほど議事録バイトで入っている。

昨日、今日と面接対策みたいなのがあっているのだが、そこで候補者は自分の成功体験をかっこよくロジカルに語ることを求められる。こんな困難があってこのように解決した。これだけの規模のプロジェクトを実現させた云々。そして皆がなにがしかを持っている。

僕はその成功談の洪水に窒息しそうになって英語をタイプする手が止まった。

国連機関の一つのポストには世界中から云千人という規模の応募があるらしいが、単純計算すると、その全員がきらびやかな成功談を持っていてそれがマネージメントに関わることだと想像したら気が遠くなる。文字通りきらびやかに光る星の数ほどのマネージャーのもとで一体どれだけの人が実働しているのだろうか?いやいない。それだけの成功にあふれてて、国連のプロジェクトがもしくはNGOのプロジェクトが全体としてきらびやかに成功したと言えるケースはどれだけあるだろうか?いやそんなに多くない。個人的に国連の成果がないと言いたいわけではない。特に日本では国連についての報道などはないが、その活動が展開しているところではある程度の成果を残しているようには思うし、なかなか捨てたもんじゃないなぁと思うことも多々ある。NGOについては疑問が残るがまぁぼちぼちとしよう。

しかし、成功談の洪水にさらされた時、僕はめまいがしたのだ。
成功して失敗する。これは単なる言葉遊びであろうか。それとも個人成果と組織のアウトプットは往々にして比例しないとしたり顔で諭されるのだろうか。
僕はこのめまいの原因をもう少し考える必要があると思った。

ルソーは社会状態に置かれた人間と自然状態の人間の差として、ペルソナの出現を説く。その言葉を借りるなら、国連、ひいては平和構築のようなresult-orientedな業界において、それに見合う成功談を"持っているか、持っているふりをするしかなくなる"。『不平等起源論』p.146ということになるのだろうか。
ここ二カ月ほど本業で何をしていたか。

・主権論:先生の草稿を読む。近代以降の主権をめぐる議論が整理されていて、また、毒舌が如何なくはっきされていてとても面白く読んだ。ただめっちゃはーどだった・・・勉強せねば!

・コソボ関連の論文数本と無味乾燥な国連レポートなど国際機関の報告文章。
ほとんどこれに追われていた。二月の最初にプレゼンがあったのでもっぱらその整理をしていた。

・歴史とは何か、カー
現在感想を書いている。

・西洋哲学史ー古代から中世
先生の主権論を読んでいて、また、自分が正当性という流行りの言葉を使うと”間主観的”な概念を扱う以上、政治学的文脈を越えて、認識論のレベルまでしっかり基本を押さえなければと思い、読んでいる。古代から中世は読み終わり、現在続編の近代から現代へを読んでいる。近代になって、神が出てこなくなってやっと理解しやすくなった。
12月からブログの更新をしていたなかった。
何をしていたかと言うと。

12月におよそ一ヵ月弱コソボの選挙監視にっていた。そのあとトルコへ観光。また改めて書けたらいいが、少し時間がない。。。
一応、修論はコソボを事例として取り扱おうと思っており、その関係もあってとても有意義だった。フィジカルな経験をしておくというのはやっぱり違う。言葉に具体的なイメージが付与される感じがする。

そのあとは家族で上海にて年越し。母親曰く、こうしてばらばらだけど、どっかで集まるみたいなのが家族の理想形だと言っていた。なんか素敵な年越しだった。

その後、帰国するや否や、しばらく先生が外務省委託でやっている事業の議事録バイトとして働いている。一月中旬に東京へ二週間ほどの出張、二月の初めより広島にて。
東京では箱根に今年修士を終えた先輩と行ったり、高校来の親友と会ったりで久しぶりに友達と話した!!って感じだった。年々、人と適当に付き合うようになっているので得難い数少ない友人たちである。

議事録のバイトは3月11日まで。すべて英語でなされるため、英語のいい訓練になると納得させほぼ毎日行っている。三月5日に現時点での英語力を知るためIELTSを受けるためもっぱらその準備という感じである。

こうして書いてみるとめっちゃ慌ただしく流れている。

ただ、4月の初めに修論の大枠の発表があるのでそれに向けても文献を読まなければだし、まとめなければ。。。
 シュミットは友敵関係を政治とした。党派性といってもいいだろう。実存をかけた戦いがそこに含意されるべしとしている。ちゃんと論じるともっともっと深いがとりあえず。

内田樹さんがおそらくかなり分かりやすい感じで政治の本質を突いている気がした。かれの慈愛については共感しかねるが、

-どんな隣人でも愛するのですか。
対面的な状況では、隣人をそのまま愛することが可能です。でも、三人以上になると、そうはゆかない。私にとっての二人の隣人が確執し、一方が他方を迫害した場合には、理非を決し、いずれかに加担しなければいけない。それが社会正義というものです。けれども、正義の執行を要請するのは、もともとは不当に傷つけられたもの、奪われたものに対する慈愛の思いです。ですから、ひとたび正義の峻厳な裁きが下されたあと、私たちはまた「正義の名において罰を受けたもの」に慈愛をもって臨むことになります。正義と慈愛はそのようにして循環するのです。

けれども以下はある種の倫理的な問いかけになってくるが、3アクター以上になったときのこの党派性が政治の本質である。そしてどちらかに加担するということに意識的にであれ、無意識的にであれ嫌う人々が、なにかいやなものを形容するときに政治的だね、政治的な話はちょっとと言って政治という概念を貶める。その態度決定自体が一つの政治的決定であることを知らず。

誰がいったか忘れたが、そして忘れたことが致命的だと思い、恥じ入るばかりだが、

誰も政治から逃れることはできない。

ということなんだろうと思う。



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バータンQ
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男性
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1986/01/22
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自己紹介:
大学院で平和構築を勉強中。
スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
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