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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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 今日、突然、コソボでの選挙監視で知り合った人から進路相談のメールが届いた。
 正直びっくりした。インターン中は結構しゃべったし、よく物事を考えているというか考え過ぎくらいの勢いの人だったので嬉しい限りである。

 そして、あぁ選挙監視から半年が経つのだなぁと思った。コソボ以降、何が変わったかといえば、なにか慌ただしく過ぎていった印象がある。そして、あの時感じた疑問を論文に反映させようと思っているが道のりは険しい感じがする。。。先生はコソボに行ったときに感じた問題意識がしっかり出ていますねと言ってくれたし、そこを僕の代わりに、ゼミ中に擁護もしてくれたのだが、まだぼんやりとは見えて消えての繰り返しである。。。
がんばるんば。

 あの時からすると英語は少ししゃべれるようになって、今行ったらもっとコミュニケーションとれるのにとか、コソボの事もあの時より勉強してもうちょっと話せるのにとかいろいろ思うことはあるが、そうした技術的なことじゃない面で、盛りだくさんの半年だったなぁというのがある。

 それとやっぱ案外人望あるな。とひとりごつを言ってみたり。
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 僕は学者を将来の進路として志望している。分野は何かと言うと、よくわからない。聞かれた人によって答えを変えることにしているが、研究テーマについては法律と暴力のはざまに興味があるというのが精確なところだと思う。それでは該当する学問分野は何かと問われれば、国際政治、国際法、国際関係論、憲法学、政治哲学、法哲学、法社会学、などが関連分野としてぱっと挙がってくる。現在、専攻は平和構築ということになっているが、それはそうした法と暴力の問題が極めてアクチュアルな様相を伴って立ち現れるからである。
 
 個人的な興味はこんな感じなのだが、専攻の性格上、そこにはユートピアニズムにどっぷりと浸かった人が一定数存在することもある。そこには、人が分かりあえる日を信じて疑わない人が存在し、時に美辞麗句で持って、その理想を語る。その姿は、対他的というよりは自己中心的で、説得的というよりは陶酔的である。学部のときから、そういった類の人から好かれる存在では決してないが、学部の時から変わったのは、そうした人を目の前にして、ある種のまぶしさを覚えなくなったことだろうか。当初はやっぱりカッコイイと思った時もあった気がする。
 しかし、彼らの一つの傾向性に疑念を抱くようになってから、そうしたものもなくなった。その疑念とは、「人は理解しあえると思っている人たちは、人とは理解し合えないと思っている人たちと、理解し合おうとしない」という傾向性に対するものである。理解できないと思っている人たちに彼らが向けるまなざしと言うのは、時に憐みであり、侮蔑である。そして、時には敵対的な視線である。そしてそうした視線は今の世界で、寛容という名の下の不寛容となって、ときには視線がミサイルに姿を変えて投げかけられることになる。まぁ、話を単純化しすぎたし、レトリックにすぎる言葉になってしまったが、そうした傾向性には注意を向ける必要があるだろう。
 彼らは"Conflict resolution"をあくまで目指すのであって、"Conflict management"なんぞいう悲観的な考え方を受け入れない。その姿勢があらたな"Conflict"の要因になるとはつゆ知らず。僕は前者には与しない。どんなに悲観的だと言われようと、争いは生じるし、それが悪いことだとも思わない。

 それではそうした原則を持って、学者としての立ち位置をどう考えているのか。これは二つ目の大きな問いである。今までのが、目的に関する議論だとしたら、今からのは手段に関する議論と言えよう。そして、手段としてなぜ、暴力と法のはざまの研究を選ぶのかということにもつながってくる。

 まず、学者は、道具を作るものだと思っている。だから自分の言説にはプロフェッショナルでなければならない。それではその道具の使用方法についてどの程度責任を持つべきか。それは取扱説明書を作るまでと言わなければなるまい。そのあとはやはり政治家なり、実務家の領域である。それでも、その誤った使用方法で批判が出たならば、甘受しなければならないと思う。その正しいと自分が思う使用方法を広めていくのもまた大きな役割であるように思うのだ。
 そして、現在の状況を鑑みるに、暴力と法のはざまにおかれた人間に用意された道具が極めて少なく、稚拙であるというのが現状に対する認識だ。リビア空爆を批判する人がいたら、それを説得的に果たして展開できただろうか?推進派ですらそれは怪しい。それではその効果は?また、日本において、政治の醜態が露見されるが、代替案を示す力と知性はいずこへ?こうした問い、法に従うでもなく、暴力に訴えるでもなく、そのはざまんで、その両者にぶら下がりつつ、なんらかの“正しい”もしくは“適切な”、“妥当な”方策を考える際の語彙が著しく少ない。特に日本において、そうした語彙は、要するに主体性を持った語彙はないに等しい。そして、それに形を与えることで、先の"conflict management"はもう少し見晴らしのいいものになるのではないか。こうした、動機によって、研究は進められている。

 AV女優、しかも単体ではなく、企画AV女優へのインタビューを綴った本である。
この最終章で『名前のない女たち』シリーズは終わっている。これは著者の置かれている状況の変化、ひいてはAV業界、アダルト業界が斜陽にあるということを原因としているようだ。
 
 AVやアダルト業界系の本を読むのは別にこれが初めてではなく、興味を持って定期的に読むようにしている。こうした性産業という言われるような領域の問題群には自分がその主な消費者であるということもあろうが、人間社会に存在してきた性を対象とした一つの現象として、結構時間をかけて考えたりしている。

 AV業界自体が斜陽にあるというのはどういうことだろうか。それはネットの普及によって、あらゆる種類のエロコンテンツが無料で手に入るようになったということと関係しているだろう。2chなどではユーザーによる自画撮りの画像と動画を投稿するスレが立っているようだし、tube8というような海外動画投稿サイトなどを見ていると、AV業界の生き残りの難しさを垣間見れる。
 
 そうした業界的な動きは素人目にはよくわからないが、

『現在、芸能人までもが登場するようになったアダルトメディアの中で、企画AV女優はもはや無価値に等しい存在になっている。よほど美しいか、性的に成熟していない限り、自分の生活を支えるだけのギャラを手にすることさえ困難である。~~最終手段を売ることを決意したにもかかわらず、その現実を知らないまま蠢いている企画AV女優は底なし沼の世界になっていた。』(p.3)

『アダルトビデオが市民権を得て女子の質が良くなっているということではなく、仕事が少なくなって志願者が増えて競争が激しくなり、怠慢な女の子はわれわれが存在を知る前にはじかれてしまっているということである。もう、不真面目な人間は企画AV女優にすらなれない時代なのである。』(p.115)

など、競争の激しさ、そして、にっちもさっちもいかない状況が記されている。

 この本の中に登場する一人の女優は

『生きていて大切なのは好きなことを追求すること。社会的なことなど二の次であり、自分自身には絶対になくてはならない好きなセックスを追求するためにポジティブにAV女優をしている女もいる』(p.188)

と言いきった。そしてそのあと、自殺している。

 日本では、二次大戦以降、従軍慰安婦問題と並んでRRAの設置など性の商品化に関する議論が一定程度の厚みの中で展開され続けている。日本のAVは海外のものと比べて、かなり異質だとも言われる。こうした性産業とどう関わるのか、もしくは関わらないのか。いつもそれは複雑な波紋を広げる。
 
 僕は学部生のころ、訳知り顔で、ネットでただでエロ画像、動画をみるのは失礼だし、きちんとお金を払ってAVを借りるなり、買うなりすべきだと思っている時期があった。何様のつもりだったのだろう。ただお金を免罪符として使いたかっただけではないか。


最近更新していたなった。と言っても先日子供云々をアップしたけれど。

4月はずっと、東北行脚の旅に出ていた。
4月5日から南相馬市で一週間ほどボランティアをした後、岩手宮城と、東北各県を視察し、適宜炊き出しの手伝いをしていた。

そして帰ってきたのが、確か4月の24日とかだったと思う。

ボランティアをしていて思ったことが、やはり、普通に働いていない人のクオリティは間違いなく低いということと、そういう人たちが吹きだまりのように集まるという傾向性があるということ。
ボランティアと言えば聞こえがいいが、震災当時に何もしていなかった人たちの集合体である。もちろん、すばらしい人たちもそこにはあふれているが、同程度いやもっと大部分がひどいものだった。

例をあげると、「おれはこんな仕事をしに、ボランティアに来たわけじゃない!!」とキレる人。おい、おまえは何さまだ。じゃあ帰れ。毎晩お酒を飲んで、次の日に二日酔いで作業をする人。そして、飲んでいることを注意されると逆切れする人。頼むから自分ちでやってくれ。
このような人がいるのもまた事実である。そしてこういう人たちにありがちなのが、自分たちは善意でやってきたのにその態度はなんだと、地元の人に言う始末。残念である。
南相馬市のボランティアセンターは恵まれていて、そこにはボランティアのためのボランティアが来ているくらいであった。どういうことかと言うと、ボランティアのために食事を作るボランティア、ボランティアのために、マッサージをするボランティア。僕は南相馬にいた一週間で頭が狂いそうになった。

それに比べて、東北行脚をした後の2週間は充実したものだった。それは自分の動機が、現地で何かをしたいというよりは、もっと観察とか調査というものに動機づけられていたからだろうが、大きいのは、メディアにあまり大きく取り上げられていないところを回ったからというのもあるだろう。南相馬は最初のうちは風評被害で人もあまりいなかったが、風評被害という報道がなされてから、逆風評被害ともいうべき状況だった。烏合の衆が集まってきたのである。それに比べると、岩手、宮城で行ったところはそこまでではなく、粛々と行われている感じだった。
スリランカに津波が来たときに現地の人が言った言葉は有名である。
私たちの国には、津波が二度来た。一度は水の波で、二度目は人の波だった。
スリランカが外国からの援助を嫌うことは有名であるが、その気質を差し引いても、注目に値する言葉であろう。

まぁ、そんなこんなで四月は過ぎていき、五月の初旬は道後温泉を含む四国へ彼女と旅行をしていた。香川件には小学生のころ住んでいたのだが、その小学校に行ってきたし、行きつけのうどん屋にも行けた。
楽しかった。

おお、忘れていた。四月の終わりに修論の中間報告を行った。感触は悪いものではなく、今後も引き続き頑張っていこうと思う。

最後に、東北の事業が今後も続きそうで、長期的に何らかのかたちで関わるというのはなかなかにできないことだし、いい機会に恵まれたと思っている。






4月8日にパソコンに打ち込んだやつをアップしてみる。


今、南相馬市にボランティアに来ている。

昨日までは戸別訪問をしていたのだが、今日から託児所での子供のお世話ということになった。

その託児所というのが、パチンコ屋の二階にあり、普段はパチンコ店の従業員やパチンコにくるお客さんのためのものであるそうだ。極めてクールないや、倫理的ともいえるパチンコ屋の戦略にぞっとした。そしてパチンコ屋らしく、その設備は豪勢そのものである。ゲームの量にはびっくり。

ただ、現在は地域住民に対して解放されていて、と言っても知名度が低いので大人数来るわけではないが、幅広い層の人々がやってくる。

 

被災地の現時点での役割は少なくとも三つほど考えられる。子供のケア、母親父親のケア、地域ネットワークの構築、促進である。ここで重要なのが子供のケアもだが、両親のケアである。子供を一定時間預けることで、避難生活の苦渋から一定程度解放される部分はあるようである。なのでボランティアの多くは、親御さんの話し相手ということになる。

 

では残った子供たちをどうするか。僕の出番が訪れた。僕はたぶん、子供の扱いには慣れている、というより、子供一般が僕の扱いに慣れているため、かなり打ちとけられやすい方だと思う。今日もご多分にもれず、その特性を如何なく発揮し、一日を過ごした。

僕の基本的な戦略は、子供の年齢層によっても違うが、子供にとっての共通の悪役を作ること、つまり、僕が子供内に派閥を作らせて、けんかさせるのではなく、僕という敵を子供が協力して倒すという構図を自明な形ではないにしろ、関係性の中に滑り込ませることである。そうすると、結構楽しく、やれる。しかし一つ大きな問題は、その悪役のキャパシティである。これを見誤ると信頼関係は一気に崩れるように思う。何人までなら引き受けられるか、どれくらいの強さの悪役になるか、これは歯ごたえがなさ過ぎてもいけないし、逆に強すぎてもいけない。こうした絶妙な塩梅によってというか、ほぼ一生懸命全力で子供に立ち向かっているだけなのだが。。。。だいたい仲良くなれる。

もうひとつ、重要なのが子供の視線の意味についてきちんと自分なりに解釈しようとする姿勢は見せなければならない。マストである。子供はいわゆる社会化がそこまで進んでいないため、人間関係の中でのグルーピングの基準が極めてシビアである。視線の意味が理解されないことをおそらく理解している、その姿勢を見ているような気さえする。それでは構って視線を出された時、すぐ近寄っていけばいいのか。いやツンデレであることの魅力も捨てがたい。云々。。。

いろいろ書いてきたが、結局そんなことじっさいにかんがえちゃぁいない。一生懸命楽しんでいるだけである。本当に楽しかった。アスレチックで遊んで、マリオカートして。お話して。

 

本題に入ると。

こうした被災地における子供のケアとはどうあるべきなのだろうかということについてとうとうと悩んでいる。

通常だと、こうした託児所には資格を持った保育士なりが常駐しており、ことは進められる。しかし、そうした人たちが軒並み避難してしまってスタッフがいない、ボランティアだけという状況において、子供が被る影響とはどんなものなのか。こうした問題群に僕は突き当たってしまった。

 

まず、ボランティアの問題は資格がないことはもちろんのこと、最大の問題は、アドホックであることである。人は初対面の時、緊張する。それが会話・ふれあいを通じて緩和もしくはその逆になったりする。たとえばそれが毎日繰り返されるという状況はどう感じられるだろか?実際に子供に起こっている状況である。今日来る人と明日来る人が違う。毎回ゼロから人間関係を始めて、そして終わる。その繰り返し。ストレスの発散の場としての託児所が深層部分で大きなストレスとして作用することはないのだろうか?

また、震災直後というこの特殊な状況の中で、子供たちに必要なものは他でもない安心感であるように思う。そうした場合、頻繁に入れ替わるメンバーというのは逆効果をもたらしはしないだろうか?人への不信感を深める方向に。おそらく、彼らは分かっている。どうせまた来ることはないし、いつかどっかに行くことを。しかし、大人が避難した状況の中で、ボランティアがそのアドホックさゆえに、不信感を加速させることはないだろうか?

ボランティアが彼らにとっての非日常であるために、彼らを必要以上に刺激してはいないか?高校の時、保育園に行ったが、毎日あなたたちのようなテンションで子供たちに接することはできないし、することがいいとも限らないと言われたことを覚えている。

こうした疑念が頭をぐるぐる回る。

あと、写真に向けた彼らの嫌疑的なまなざし。今日、最後に活動報告用に写真を取らせてもらった。団体からの出資で活動をしている以上、報告義務があるのだが、僕はどうも写真を取ることに抵抗を覚える。ただ、以前からこの託児所でボランティアをやっている人が僕なら快く子供達も受け入れてくれるだろうとお墨付きをくれたし、僕も記念に写真を取っておきたかったので、頼んでみた。実際子供たちに抵抗はなかったし、楽しい感じで撮影が終わった。しかし、そこに映っている顔は僕が最初に来たとき、コミュニケーションの最初に見せた、ないまぜになったものだった。こうした大人の事情を彼らは感知している、どこかで。それが嬉しいと同時にそれを見せなければいけないのがとても嫌だった。子供がピュアだと言いたいわけではない。ただ、関係性の中にそうしたものをしのばせるのが嫌だったのだ。そしてそうした写真が勝手に解釈されることが嫌だ。少女とハゲワシの写真のように。彼らのそのまなざしが容易に震災の苦しみの顕然であるかのように扱われるのが。

 

別れ際に彼らはとまどいながらまたねと言ってくれた。また明日ねと。そして、あ、週末はここが休みか。じゃあまた、月曜日ねと言ってくれた。しかし彼らのうちの一人がしまったという顔をして、ばつが悪そうにうつむいた。しっかりした女の子が言い直して、じゃあね、バイバイと言った。また月曜ね。と言うとみんながぱっと顔を明るくしてもう一回はっきりとまたねと言ってくれた。

 

僕は決して、日常的な安心感を与えられる存在ではないし、その必要もない。ただ、少しだけでもなにかへの不信を取り除くことはできるのではないだろうか。少なくともその瞬間彼らの心の中が混乱していたことは確かである。それでも、バイバイではなく、またね、が最初に出てきた言葉だったのがせめてもの救いである。それはばいばいを月曜日に先送りしただけなのかもしれない。そして中途半端な情は、かえってマイナスなものなのかもしれない。僕には分からない。分からない。でもまたねとばいばいの間で揺れ続けるしかない。僕はその間に立って訳知り顔で思考停止にはなりたくない。今度は一緒に遊んでいる時のような顔の写真を報告用ではなく彼らとぼくとの写真として取れればいいなぁと思う。
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