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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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 "the danger in reffering to an act of violence in some other way is that we can hide the fact that we are discussing something that does significant harm to indivisuals." (p. 20)

 暴力についてIRセオリーの中で赤裸々に語られることはない。われわれはもう少し、価値中立的な暴力の定義に関する議論を進めるべきである。これが著者の主な主張である。

 一般的にいって、現在、IRとかそういった学問分野に関わらず、暴力概念は拡散傾向にある。それとは裏腹に暴力概念の拡散を通じて論じられる、規範的主張の多様性は乏しい。というか一つの主張に集約されそうですらある。ポストモダンがリバタリアニズムの双生児であるかのよう(たぶん誰かが言っていたがだれが言ったかはちょっとわからん。要確認!)に、それは一切から“自由な”個人という幻想である。発話者の巧みな暴力概念の拡張の裏にある規範意識に注意を払うことが重要である。リバタリアニズム的個人像を規範意識とするならばなぜかくも多様な暴力概念が生成されるかがわかる。顔のない想像上の個人を、現実的な個人たらしめるその要員はすべて暴力として観念されるからである。暴力概念の拡張と、単一の規範意識、これが現在の言説状況である。

 著者は直接にはこうしたポストモダン的な流れに触れているわけではないもないしが、暴力が発話者の嫌いなもののごったまぜになってしまう状況を危惧している。
  
 話がずれてしまった。著者によると、IRにおいて、暴力概念の不使用とそれとは別に暴力概念の拡散は著しい。一方では武力の行使などの言葉によって暴力は隠匿される。国家による使用が暗に正当だと認められ、国家による”暴力”は暴力として記述されない。他方、ガルトゥングに代表される、間接的暴力の概念も問題である。この拡散によって、いったい何が問題なのかが見えずらくなる。この議論はバーリンの自由論なども参照されながら議論されなければならない気がするが、著者が規範レベルと分析レベルの区別、アクターとアクトの階層の区別、そして規範レベルを論じる語彙としての正当性の位置づけなど、大まかに暴力と規範を巡る議論の見取り図を示したことは評価に値する。
 
 そして、暴力概念を規範とは区別されるべきものとして提案するのである。

 "the definition of violence.... as being an intentional act designed to cause harm, which is direct and physical or psychological. It is instrument, a tool in order to achieve a particular aim."(p.20)
 
 規範的主張から一定程度自由な暴力概念の定義、そしてその定義は道具的であるべきだというのが筆者の大まかな主張となる。重要なのは、この結論に至るまでの、IRが黙認しがちな規範性の暴露であろう。それは"use of force"や"military"という言葉を使うことで、国際関係に生じるあらゆる暴力を隠そうとしているというのである。これをウォルツやブル、モーゲンソーなどの主著における"violence"の使用頻度や使用されたコンテクストから分析するのである。
 そうした分析、批判から導出される著者の暴力概念の定義は精緻とは程遠いが、暴力概念を分析概念として限定しようとした意図はすばらしいものであると思う。

【批判】
・ この論文において暴力と対をなして重要だと思われる概念が正統性であるが、その正統性概念についての考察が不十分であり、規範的言語と記述的言語の境界にある言語の分析の難しさをスルーしてしまっている。これは僕自身の研究の有用性を裏付けるものでまぁちょっと嬉しくなるが。一言に価値中立的な定義を目指すと言っても実際に規範的に使われている以上、その規範的使用の様子についてもう少し詳しくしないと、記述的用語としての暴力概念といっても説得力に欠ける。
・ 必ずしも必要ではないが、なぜ暴力概念を限定しようとするのかという次元での著者の規範的主張がぼんやりしている。著者が暴力概念を限定することの規範的含意についても述べないと、暴力概念の不使用や拡大をしている他の学者などと同じ過ちを犯すことになる。そこを自覚したうえで、尚、この中立化の試みが妥当性を有している、言い換えるのならば、その用語使用が著者の規範的立場にだけ有利に働くものではないもしくは、さまざまな事象をうまく説明できることを述べた方が説得力が増すのでは。結論部分で少しふれられているので個人的好みの問題だが。。。
・ particular aimに対する手段だと暴力の一面を定義するが、本当に目的に対する手段であろうか。暴力自体が目的と化する際のその行為は暴力概念からもれるのか?そうした行為は想定されえないのだろうか?定義って難しいなぁ。
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 いわき市に救援物資を届けにこの週末行っていた。広島から東京をただひたすら走り、そして現地で情報収集をしながら、物資の分配を決めた。また四月に第二陣が出るようなので、参加することになると思う。平和構築を専門に研究を進めている身なので、今回の経験を大きなものにしないといけないと思う。
 思ったことをいくつか。

・必要の平凡さ
 個人的には免許取得後一回も運転していないマニュアル車というかマニュアルの2tトラックを運転したことがとても大きな衝撃だった。切迫した状況でできないとか言ってられないのである。するかしないか。そこでチャンスをつかめるかどうかがわかれている部分がある。
 まぁそこまで話の大きいものではないが、いわゆる現場で求められるのは特殊な技能、才能などではまったくないということである。運転技能、体力、物資を効率的に積む柔軟性など、極めて日常的な能力が日常的なレベルで求められているということでそれ以上でもそれ以下でもないということがあたまでっかちの大学院生からすれば大きな発見であると同時に、大きな安心である。体一つでもできることがあるということ。
 それではなぜ理論が必要なのか?たぶんそれは非常事態をあくまで日常の中で解決しようとする途方もないプロジェクトのためではなかろうかと思う。

・ネットワークとその入り口
 先ほど、体一つでできることがあると言ったが、体一つをどう活かすのか、ということは別問題である。逆説的に響くが体一つで行ったって何の役にも立ちやしないのである。むしろお金の方が断然役に立つ。体が活きてくるのはそれがネットワークと繋がったときである。そしてそのネットワークの接続口にアクセスできるかどうかというのは先ほどのするかしないかという、一見すると安易な決断に基づいていることがある。いや、というよりは、行く、やる、という心構えをしておくかどうか、というか、研究をしている身からすると、理論と実践のリンクをなんらかの形でいつも社交辞令ではなく真摯に考えているかということとも繋がっている気がした。高校のころ部活の練習で、練習のための練習ではなく、試合のための練習をしろとよく言われていた。やっとその意味がわかった気がする。
 見るまえに跳べ、なのかもしれない。

・日常で対応する
 行って思ったのは日本の行政の底力である。極めて効率的に物資を送るシステムが出来上がっている。確かに、一部不足、見落としがあるようだが、盲目的なNGOなどをうまく使い、そこら辺をカバーしている。NGOのパラドックスでも言えるものがそこにはある。NGOなどはいつも政府、行政を批判するが、そのお墨付きを結構自慢するのである。これはやはり政府組織、行政組織の正当性の高さを物語っているだろう。それらが完璧だとは決して言わないが、日本にはきちんと機能する行政が存在する。このことを過多にも過小にもならずきちんと評価したほうがいいと思う。そして、行政が行うのはあくまで”日常”として対応を行うということである。そこには決まりがあり、手続きがある。そしてそれゆえ、大規模に展開できる。多くの人のニーズはこれにて満たされているというのが現状だと思う。そして洩れたところをいわゆる市民社会が担うのだろう。そして、その漏れは今に至っては誤差の範囲内ではなかろうかと思う。
 ここで当然ながら、人の数を誤差で済ますとは何事だという批判が聞こえてきそうであるが、その批判者に問い返したい。その誤差をあなたはどう扱うのか?と。すでに誤差を誤差じゃなくするために、多くの団体が我先にと調査を開始し、プロジェクト展開を進めている。過剰ともいえる勢いで。NPOやNGOは集まった募金を分配してもらいやすくなっている。それでも行政の規模に比べた時のその矮小さに驚くだろう。そしてそれで十分な気がしてならない。身の丈に合った場所でしか活動はできない。そして身の丈をそれぞれがおこなうことが大切である。実際、さまざまな団体の調整会議も仙台などで開かれるようになってきている。
 物流も徐々に回復しつつある。物流の威力はすごい。ほしいものがほしい人にいきわたるというのはなかなかにすばらしいことなのだろうと痛感する。資本主義批判をする人はそこら辺をしっかり論駁できないと説得力がないのだろうなぁと思う。

・日常と平凡の埋めがたい差
 日常、日常と書いてきたが、それは平凡とは決定的に異なる。決して現地で起こっていることは平凡なことではない。しかし、私にとっても、彼らにとってもそれが非日常なんかではなく、過ごしていかなければならない、日常であることには変わりない。おそらく、支援物資が安定してきているなかで、その日常度合いは日に日に増していき、周りの関心も日に日に減っていくだろう。しかし、おそらくは、今からが一番しんどいのではないかと思う。日常の非平凡さが失われ、日常の平凡さが戻ってきたときに。
 しかしこの戻ってきた平凡さは以前享受していた平凡さとは似ても似つかないだろうと思う。そこには以前より膨らんだ需要と消費(特に車や建築関係)が見られることだろう。そしてそこには平凡な交換過程が生まれる。しかしその交換過程のアクターはもはや以前と同じ動機ではない。しかし、日常は過ごさなければならないのである。
 僕は被災地の方々をどう捉えているのだろうか。と自問したとき、やはり僕には関係が薄い、もしくはないと答えざるを得ない。というよりはやはり地震を経験した人はその経験の中で生きなければならないし、僕はそれを経験していない。加えて、彼らの名前を知らない。でもなんとなくなんかしたほうがいいんじゃないか、できるんじゃないかという思いはある。たぶん、僕も自分とは関係ない人に助けられたことが多々ある。それでいいのではというかそれしかないのかなぁ。よくわからない。じゃあ自分はなにをするのか。たまたま与えられた、中には自分で近づいて行った、環境の中でつかめるものをつかむことしかできない。つかまないことはもうしないことにした。

・身近な不信と諦念じみた信用、そして贈与
 おそらく、今回の震災に関して、いろいろなこという人がいる。そして、時に不信に陥りそうになる。僕はおそらく倫理的規範に厳しい方だと思う。それゆえ、その基準にのっとらない人を蔑む傾向がある。人をさげすむこと自体は倫理的にいいのか、自分の倫理規範の根拠はどこかというそういった話はここでは無視する。しかし、最近、あまりこだわらなくなってきたように思う。あくまで相対的にではあるが。。。
 こうしたときに、人を蔑んでいる暇はないし、そんなことをしても面白くない。自分はする。なにかが起こった時、それをどうにかしようと立ち上がる人が、考える人が世の中には一定数存在する。僕は人道的介入などを結構広義な意味で研究しているのでそのマイナスの効果も無視できないものだとは思うが。。。それでもその一定数によって少なくとも短期的に大きな失望を埋める努力がなされるのであれば少なくとも非常事態においてはそれでいいのではないだろうかと思う。その短期的援助がなければ成り立たない場所があるわけで。
 そうした一定数からの贈与によって何かが動き出したら、その後の趨勢は常に反省的に考えられ、実行されなければならないと思う。ここでやっと理論の登場である。確かに、その例外状態を日常に引き戻す、そこのタイムラグについてはもうちょっと考察しなければならないし理論化が必要であろう。しかし、少なくとも日本においてはそのタイムラグは無に等しく、強固な基盤の上に復興が行われている。これが紛争国などとの大きな違いである。

・自分の立位置
 先ほどと関連するが、それでは自分の立ち位置はどこにあるのか。僕はたぶん、個人の顔が見えると、何かをしたいなどと思わない気がする。いや、でも過去の経験からすると、結構無差別に顔が見えたからなにかしてきたような気もする。反面是が非でもこの人のためにとなることもあるが、それは極めてまれなケースである。顔がないからこそ、なぜか動こうと思う。ぼくにはこの理路が分からない。はっきり言って、多くの人を信じていないし、信じる気もない。しかし、そこに一定数信じれる、いや、崇拝さえしたくなるようなすばらしい人が存在しているのもまた否定できない。そして、僕はその自分が崇拝さえしたくなるような人の存在に賭けてなにかをするのではないだろうか?と思えてきた。それではその賭けが見込みがなさそう、成り立たなかったらどうするのか。気持ちよくこの世を去れるだけだと不謹慎な言葉がまず頭に浮かんでしまう。極めて危うい線上にいるような気がする。でも実際はそんなことは起こりえないこともどこかで分かっている。
 いや、反対に、自分が崇拝するような人はたぶん、自分で立って行けるから、これまで自分を頼ってきた人、自分を必要とする人にコミットしてきたということもできる。それが嫌いな時もあったにもかかわらず。これは向こうからの積極的働きかけがあったからだということができる。じゃあ今回は?働きかけはない。なぜ勇んで出て行ったのか。おそらく、震災地の人を思ってというよりは、近しい人の要請に応えたというほうが適切かもしれない。そして、近しく感じる人の多くがそのような贈与的行為を是とする人であるということだけである。しかしここでもう一つ難問が。みんなが是としていたとしても、円環が閉じてしまう。だれかが、その円環をどこかに接続しない限りは。今回はラッキーだったし、年齢的にももうしばらくはその円環の一部をなす役割が多いだろうが、先ほどの練習のたとえをしっかり肝に銘じておかなければならない。もし円環が閉じられていたら、そのとき自分が先頭に立つのかどうか。先頭などなくてもその場の間主観の作用で物事は動くと言われそうだが、現時点ではそれは気休めにもならない逃げ口上に聞こえてしまう。最初の一歩を踏み出すかどうかというところに自分の裁量の余地が大きく残されているように思えるから。
 
・課題 
 小学生以来の課題(当時は課題だと思わなかった)であり、おそらくは数多くの人に、特に、大学院に入ってから指摘される点である。そして、それは同時に、僕の成長の必要性を示している。しかも急務の。僕はたぶん、“人を信じたいけど信じられない”という矛盾に満ちた言葉で逃げようとしている問いにそろそろ本気で立ち向かわなければならないのだろうと突き付けられた。それは、コソボで出会った友人であり大先輩、今回の旅路で一緒だった院の先輩とフィールド志向の先輩などが示してくれたものである。
 言葉を借りるなら、したいこととできること、心地いいことと求められているものを冷静に見極めていく必要があるのだろう。

今日、大幅にこのブログのカテゴリーを変えた。

カテゴリーというのはある目的に関して、存在するものなので、この変更は、このブログの目的が変化したことを意味するのだろうと、事後的に気付いた。まぁ、目的というほど、大層なものでもないが。

変更前は、センチメントな思いの吐露の場所だったように思う。これは今後も続く(笑)
ただ、大きな変更は研究のメモ書きが増えることだろう。これは一種のアリバイ工作として、また、自分への励ましとして機能してくれることを願う。

研究関係のエントリーが少ないのは、決して勉強が少ないからではないという言い訳をしておく。読んだ本をまとめるという行為をこのブログでしていなかっただけである。これからはここに積極的に載せていきたいと思う。
最近読んだ小説。
『クォンタム・ファミリーズ』
量子論SF。この手の平衡世界ものはやっぱりあんまり好きになれないなぁと思った。結局実存主義を克服できないのか。。。というのが感想。なぜそこまで称賛されるのかが分からない。おそらく、脳内妄想が好きな人々に受けるからだろう。

映画
『告白』
だいぶ前だけれど、なんか季節外れで安くやっていたので。松たか子がよかった。あと、最後以外は映像もよかった気がする。ただ、ドーン以降の展開がまずい。まずすぎる。なぜ、結末を、分かりやすい結末をつけるのか。

『ブレイブ・ストーリー』
うーむ。不覚にも平衡世界ものであった。平衡世界にいって成長するという物語。あくまで今を生きるしかないって感じの。やっぱりこういう物語というか、ちゃんと結末を用意する物語が好きじゃないみたい。途中までは少年心を楽しませてくれるのだが、最後の終わり方がほんと意味が分からない。なぜ、やつがいる!?って感じだった。原作もそうなってるのかしらん。

『愛についてのキンゼイレポート~Let's talk about sex』
コンサバアメリカにおけるセックス革命と赤狩り。史実ではアメリカのコンサバ具合を知っていたが、実話に基づくこの映画はおもしろかった。内容がユーモアに富んでいて笑える。
一つ気になったのが、日本語訳のユーモアのなさ。
先生:人体で100倍の大きさになるのは?
女生徒:答えられません。こんなmixed classでする質問じゃないと思います。
先生:瞳孔だよ。
ここまではいい。しかし次の日本語字幕は細かくは覚えていないが、男性器はそこまで大きくならないよ立ったと思う。しかし、英語ではこれもまた細かく覚えていないが、you may get into deep disappointment. だったような気がする。これは秀逸である。大きくならないよという訳では重要ななにかが抜け落ちている。
自分なりに訳すとすれば、「そんな妄想してっと、いざというときがっかりするよ」くらいかな。

現在シュミットからいったん離れて、ルソー、ウェバーをしている。
というのは、合法性や正当性という僕にとってのキータームを考える上で、シュミット以前の概念史とでもいうべきものを自分なりに理解する必要性を痛感したからだ。

ということで現在、ルソーとウェバーについて論じている本を読んでいるが、それはまだ読了できそうにないので、とりあえず、不平等起源論を。ちなみに賛否両論あると思うが、中山元訳を。読んでてたぶん岩波のほうが厳密なのだろうなぁと思い、岩波で読み直す必要を感じた。原文で?ちょっとそれはもうちょっと先の話である。

”この論文の目的は、事態の成り行きのうちで、暴力の代わりに権利が登場し、事前が法に服するようになった瞬間を明らかにすること、そしていかなる奇跡の連鎖のおかげで、強者が弱者に奉仕することを決意できたのか、人民が現実の幸福を捨てて、観念のうちで休息を購うことを決意できたのかを説明することにある。”(p.51)

という衝撃的な、少なくとも当時は天地を揺るがしえたであろう(ルソーの思惑とは無関係に、実際に革命という形で揺るがすことになるのだが)、書き出しからこの不平等起源論は始まる。論文を書くときに、問いの重要性を教えられるが、この問いは二つの点において秀逸である。

①強者が弱者に奉仕するという逆説を鮮やかに宣言したこと。これはルソーの思想の基礎をなすものである。人間は鎖に繋がれてる云々が社会契約論からよく引用されるが、不平等起源論をルソーの自然状態の定義を理解することなくしてはこの鎖の逆説の鋭さは理解できない。

②観念のうちでの休息という表現によって、フィジカルな存在、自然状態にいる人間が社会状態になることでなにが変わるのかという彼のモチーフを端的に示している点。

【追加】個人的には自分のたぶん一生の研究テーマが暴力が法に代わる瞬間に関する探究であるので、個人的には一番最初の部分が好きだ~~~!
 
 この問いによって、ルソーは当時の時代への批判と、自分の主張を高らかに宣言したのである。ルソーの生きた時代というのは、象徴的な意味でホッブズから始まるとされる(突然変異でホッブズが出てきたわけではない)、社会契約論の全盛期であり、ルソーが不平等起源論で批判の対象としたのは、他でもないホッブズであった。ホッブズは弱者が強者に服従するという構図を持っており、そして、フィジカルな人間存在、アトム的個人からなる、機械論的な社会像を持っていた。しかし、ルソーが描いたのは社会になんらかの実存的紐帯を認めるような、有機的社会像である。ルソーは①によって社会契約の構図を、②によって、ホッブズの機械論的人間像をひっくり返そうとしたのである。この論考の肝は以上である。一般意思がどうたらこうたらという議論は社会契約論に譲る。

 この論考の中でルソーは文化人類学ともとれるような手法で自然状態を定義していく。そして極めて厳密に、人間が有する、社会的産物と、自然的遇有物を区別しようとする。ルソーは自己保存が人間の本質を形成することを認めるが、

”野生人が自己を保存しようとする配慮のうちに、社会の産物である様々な情念を満足させる欲求を持ちこむという間違いを犯した”p.100

としてホッブズを糾弾する。ホッブズの万人に対する万人の闘争に象徴される個人像はあくまでも社会的産物であり、自然状態ではないとする。ルソーにとって個人は、孤立した人間であった。一つ付言しておくと、事前状態の妥当性云々の議論に生産性はない。重要なのは仮説的自然状態において、その論者がどういった要素を差別化しようとしたかという点にある。ロールズは才能を公共物として観念しようとした。自然状態の妥当性ではなく、その根底にある価値のラディカルさゆえに称賛に値するのである。
 
 本論とはずれるが、ホッブズをここで必要以上に批判する気があるわけではない。あくまで文脈依存的に考えた場合、ホッブズは平和の思想家であった。彼の自然状態は彼の時代を戯画化したものであり、彼の論考は目的論的に解釈される必要もあるのである。こんなことを言うと、いや、本質を抜き取らなくてはなどと批判されそうだが、相対主義的な僕はそれに与しない。

 論を戻そう。孤立した人間がどのように社会的状態になるのか。このプロセスはルソーにとってそして学問としてもそうそう重要ではない。重要なのは自然状態との違いである。ルソーの答えは簡単である。それは”所有の観念の発生”である。所有はそして肥大する。

”一人の人間が他人の援助を必要とするようになった瞬間から、また一人で二人分の食料を確保しておくのは有益であることに気付いた瞬間から、平等は姿を消し、[中略]、やがて、隷属と窮乏が芽生え”p140、

”人間は他人の主人であるかのようにふるまいながらも、実はある意味では他人の奴隷となった”p.147

のである。この後、社会契約論的な議論が展開されるので、ここでは深入りしないが、ルソーは最後に”新しい自然状態”という概念を登場させる。これは社会状態に達した人間の行きつく先の描写なのであるが、これが文明状態と置換可能なのかというのがまだ自分の中でいまいちしっくりきていないし、置換不可能な気がする。いずれにせよ、もう少し考えなければと思う次第である。

【批判】
p.156。批判というほどのものではないが、戦争の惨禍という項で、国内類推が強く働いてる。やっぱり国際関係における正当性概念を考える上では過去の遺産を大きく超えていく必要があるなぁ。

p.257。自己愛と利己愛について。利己愛が社会的産物である点は理解できるのだが、自己愛、人類愛とも言い換えられるこの愛の存在証明はどうやって果たされるのか。曖昧である。ここにルソーのコスモポリタン的契機がある。
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1986/01/22
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スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
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