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自分を探すというよりは確かめるための散歩。
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最近更新をしていなかった。
このブログをちょっとした書評的にしようと思っていたのだが、シュミットの圧倒的な迫力に圧倒されていた。
なんか11月は研究がすすんだというより、停滞していたように思う。なんか勉強してない錯覚に陥ってちょっと気がふさいだので自分を励ます意味でも読んだ本をちょこっと書いてみようかなと思う。

趣味で、リービ秀雄の『我的日本語』、サイード『知識人とは何か』

備忘のため。

政治的なものの概念
陸と海と
大地のノモス
パルチザンの理論

以上シュミット。読了。大地のノモスで初めて本格的に国際法史を学んだ。シュミットがすごいのは言っていることに同意するかどうかは置いておいて、えらそうにかっこよく過去のそして同時代の偉人達を論じ、論破し、生き返らせることである。次に述べるが、クラウゼヴィッツの戦争の定義についての評価である。少し無理くりながら自分の政治の概念に引きつけて再評価しているのである。圧巻の破壊力だなぁと思った。そして圧倒された。おもしろい。
自分へのメッセージ・・・自分のネタ帳を見よ!

Politics Among Nations, モーゲンソー。難しくてまだ途中。。。シュミットとの相互の影響が論じられているが、二人を決定的に分けているのはやっぱり、政治の概念ではなかろうかと思う。クラウゼヴィッツはあまりにも有名に、戦争は異なる手段で行われる政治の継続と定義した。モーゲンソーは代わりに、戦争と政治を区別した。そしてシュミットは独自の友敵理論に基づいて、クラウゼヴィッツを再評価する。これは政治とは何かということについてのマッピング。
それ以上に驚くのが、クラシカルリアリズムのニュアンス感である。モーゲンソーはリアリズムの理論家として論じられるが、モーゲンソーにはネオリアリズムが捨ててしまったよさを持っているし、構成主義的な記述も多くみられる。そしてなにより、シュミットやモーゲンソーと英国学派の距離はそこまで遠くないような気がしている。昔、読んで難しくて途中で放棄した、先生の論文をもう一度読み直さなくてはいけない。

というか、先生が現在執筆中の本へのコメントを頼まれたので、どちらにせよ、ここら辺の流れは抑えることになる。

正戦と内戦→大竹さんが書いた思想史の本。シュミットの決断主義ではなく、広域秩序について分量を割いている。ただ、読んでて思うのがシュミットは広域秩序の境界をどこに想定しようとしていたのかということがやはりきな臭い感じがする。いつかのエントリーで触れた共同体主義のきな臭さ。もう少しシュミットを読みすすまなければ。

先週の月曜日に指導教官の先生と面談したとき、正戦と内戦をすすめられたが読了だったので話が盛り上がった。

しかーーーーし、まだ僕はシュミットを理解できていない。し、全部読めてもいない。シュミットのリヴァイアサン解釈へと僕は歩を進める。というか、迷いにいくことになる。まだナポレオンが僕の前にはあらわれてくれない。

あと、授業の課題の英文がいくつか。

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 ここ二週間くらいいろいろ細々したことが続いていたのでしっかりと本の感想を書くことができなかった。

 昨日は一日に二つのプレゼンをするという大変な日であったが、今年博士を終える人からいろいろな締め切りの中で自分をマネージメントする大切さを言われていたので、ちょっと忙しい中に敢えてぶっこんでみた。
 
 一つ目はゼミで戦後日本の国連政策について書かれた本のサマリーである。担当したのは吉田首相のプラグマティズムがひかる1956年まで。理論的にいえば大戦後しばらく、日本という国は存在しないが。
 僕は、国連にフォーカスするのはいい視点であるが、国連にフォーカスしすぎることで、国連という実体があたかも独立した領域として存在しているかのような論じ方がなされていることに疑問を呈した。今でこそ、国連はそれ自体が巨大な官僚組織を持って、予算規模の大小はあるものの、いわば単独の単位として想定しうる。しかし、第二次大戦直後において国連を独立した単位として、国際法的に言うと主体として想定して、また日本も同様に主体として想定して論じることに無理があるような気がした。どちらにも主体性がないと言っているわけではなく、この両者にはアメリカという大きな独立変数が作用しているという大前提が論じられていないように思えたからである。確かに、戦後世界におけるアメリカの影響力の大きさは自明視されていて敢えて論じる必要もないのかもしれないが、スエズ危機の記述はそれにしても日本があたかも自由に外交政策を練れたかのように書かれていた。そこに違和感を感じたのである。
 ゼミで議論になったのは、というか僕が提起したのは、国連とはだれか?というシュミット的な主権者を巡る問いである。国連の自足性を自明視しすぎている議論に一石を投じたかったのである。戦後、日本にとって国連はアメリカだった。というのも、占領軍は一応、連合国軍の名のもとにあったからである。戦後、日本は連合国軍によって占領されていた。それがいつしか、アメリカ軍に変わり、アメリカの占領下におかれるという流れをたどることになる。
 そうすると、日本と国連の関係を論じるとき、不可避的にアメリカの持つ影響を評価しなければ、いくら国連との関係にフォーカスするといっても限界があるのではないか。という感じがする。
 まぁ、読んでてあんまりおもしろくない本だなぁというのが所感である。やたら、変な英単語使うし。

 二つ目。ガリさんが書いた「平和へ課題」および、「追補:平和への課題」のサマリー。
 これはおもしろかった。課題がというより、授業でなされた議論が。ガリさんは、この平和への課題において、冷戦後の世界において慣習レベル、もしくは国際実行において確立されつつあったPKOをしっかりと国連憲章の中に定義づけた。それにとどまらず、良くも悪くも、初めて平和構築という概念を示した。他にも平和強制活動の提唱や、非武装地帯の設定の推奨など、おもしろいことをたくさん言っているのだが、それらはまぁ今では行われていないので、スルーした。ただ、人道的介入や、PKOの多機能化、武力化の傾向を鑑みると、平和強制の提唱とその帰趨についてはもう少し現在のアカデミアが論じてもいいのではという感じはするが。
 いずれにせよ、僕がフォーカスしたのは平和構築の定義について。平和への課題においては、平和構築という概念に、極めてあいまいな定義しか与えられていない。それゆえ、現在の過剰ともいえる定義の氾濫と他の活動との境界線のあいまいさなど、いろいろ問題が生じているように思う。これはガリさんのせいではなく、すぐおれたちいいこと言ってるよね的な自己満に陥りがちな、国連コミュニティーとでもいうべきところの性格のせいでもあるし、あまり厳密な定義が求められていないという大人の事情を反映しているものでもある。
 いずれにせよ、平和構築を紛争をマネージできる持続可能な社会を構築することと定義した場合、考慮しなければいけない点はいろいろある。授業のなかで一番議論になったのが、予防外交と平和構築はどう違うのかということ。僕はここに本質的な差はないとした。しかし、大半は予防外交が紛争前で平和構築が紛争後の活動のことであるという意見を持っている。
 
 そして、先生も交え議論が続く。以下は主に授業でなされた議論をもとに、授業の後に先生とかわした議論のメモというか、備忘のためのメモである。先生もこうした定義の問題について僕と同じ方向性の考えを持っており、話が盛り上がった。まだ自分の中でもまとめきれていないが興奮冷めやらぬうちに。
 一点断わっておきたいが、紛争云々、平和構築云々を定義する前に現地のことを考えよという一見もっともらしい反論があるかもしれないが、これについては本当に現地に行ったことがある人はそんなことは言わないよ君、という反論だけさせてもらう。理論は現実を見るためのメガネであり、人が何かを認識するということはそのメガネを通してなのである。メガネが曇っていたら、現地に行こうが、何も得られず漫然と過ごすということもあり得るのである。役割分担的なことがあり、ちゃんとしたメガネを作るにはそれなりにしっかりした道具立てと組み立てが必要なのである。確かに現地で奮闘する人はえらい、しかし全員がえらいわけではない。

 さて、ここで考えるべきは、紛争とはなにかという問いである。また、持続可能なとはどれくらいの期間なのかということである。前者に関して言えば、紛争というのは明確な始まりと終わりががあるのかという一番重要な問いに答えることにつながる。持続可能という言葉をどういったタイムスパンで考えるのかということは一層複雑である。たとえば100年単位で考えたら、日本はいま平和構築の途上にあるのか、中国のとの予防外交に奔走しているのか。あいまいになってくる。
 紛争は簡単に潜伏期間、勃興期、絶頂期、収束期などに分けられるようなものなのであろうか。紛争構造の複雑さを考えると、定義上平和構築と予防外交を定義的に分けることで有意な含意は生まれそうもない。
 実践レベルにおいても、予防外交と呼ばれうる活動群が実際に効果的に行われることはないし、大衆民主主義化する世界において、予防外交のための予算を集めることも難しい。予防を正当化することは実際に起こらなかったことの被害の大きさを喧伝することになり、それはリアリティにかける。警句的に言うのであれば、常に予防は成功しており、その失敗は事後的にしか分からない。そのため、資源を動員できない。
 
 理想は紛争というものを広くとらえ、平和構築概念の事後的印象を相対化していくこと、また、そうした平和構築概念から現実を見た場合どういった事実が明確になるのかという点を詰めることなどが今後の課題である。ただ、広く平和構築をとらえることで相対主義に陥る危険性も無視できない。相対主義ゆえの理論化の放棄はよろしくない。完全な相対主義をいかに回避し、いかに定義付けを行っていくのか。とても長期的な問いである。
 
 そのキーワードは”焦点化”。紛争を時系列的に並べるのではなく、"given conflict"としてとらえなおし、その都度、相対化を回避しようと試みる。これは先生が授業後話してくれた構想であるが、まだ先生自身も明確にまとまっていないようで、今後の課題となった。そこで先生との話は終わったが、自分の現在地を知れた気がした。
 

 だいぶ前、どこかの新聞で読んだ記事に下のようなものがあった。

 ”うつ病者、自殺者の増加による潜在的経済被害規模が~~経済機関の試算によると○○億円に上ることが判明。~~が対策に本腰を入れる必要を認識・・・”

 かなり曖昧な記憶で本当に情けないが、まぁなんとなく概要は分かるかと思う。ふーむ。
 
 経済学の専門用語に機会費用というものがある。もっともらしく言えば、機会費用とは、「効用、利潤、または厚生を最大化するためにある選択肢をとることで失われた選択肢のうち、その効用、利潤または厚生が最大のもの」ということができる。分かりやすく言えば、もしもの世界で一番好ましい世界とでもいえようか。
 経済学が機会費用という便利な概念を発明し、人々は”たら”、”れば”の世界をも数値化することに「成功」した。そしてそれは法哲学の分野においても、法解釈を柔軟にすることに貢献したと言われる。確かにそうなのであろう。しかし、上の記事は機会費用という概念の使用方法とでもいうべきものに気を配る必要性を示しているように思われる。

 機会費用は、こうであったかもしれない世界を想定し、それと現実との比較を可能にすることで、より、効率的なベネフィッシャルな社会を可能にする。のかもしれない。確かに死者が消費活動をすれば、うつ病者が毎晩居酒屋に出かければ経済効果は上がるのであろう。だから、そうした人への対策をしようと。流れは理解できる。
 ただ、思うのは、その機会費用なるものに彩られた世界に嫌気がさした人がそれへのアンチテーゼをそこまでいかなくとも違和感を、身をもって示そうとしている人がおり、それがその人たちかもしれないという可能性である。そうした社会に意識的にであれ、無意識的にであれ、包摂されることに嫌気がさした人々を、当の社会の動機と手法によって解決しようとする。そのようなことが可能なのか?
 そこになんとも短絡的な発想のむなしさを見る。

 よく理論と実践にギャップがある、それは芳しくないことだ。というようなことがまことしやかに言われる。

 ただ、ここに存在するギャップはよろしくないものなのであろうか。もう少し実践にあった理論をといわれる。しかし、いわゆる理論というものはある種の一般化の産物であり、具体的状況における実践とはギャップができて当然である。もっと言ってしまえば、規範理論などはギャップを生み出すことそれ自体を目的にしている。l
 問題なのは理論と実践の間に生じているギャップが誰によって、どのように解消されている、もしくは放置されているのかという、その両者の間に働く力学を明らかにすることなのではないだろうか。ギャップの存在それ自体を議論するのはばかげていて、理論とは良くも悪くもギャップを生じさせることに使命があるのであれば、そのギャップの及ぼす波紋のようなものを記述することのほうが建設的な気がする。その結果理論と実践の双方が変容を遂げていくのではないのかなぁと思う。
 
 あれ、そうなるとギャップがあることを批判するのは建設的ということになるのか。
 
 あ、そうだ、ギャップの存在を理由に理論を否定する実践家が嫌いだということが根っこにあるから、そういう人に向けて書き始めたのだった。実践を否定する理論家も嫌いだけれど。そんな理論家に比べれば前者の法がましな気はする。

 エレベーターというのは不思議な空間である。見知らぬ人々が一堂に会し、外界の喧騒がうそのようにそこには沈黙が流れる。ある人は入口のボタンに手をやり、ジェントルマンを演じ、ある者は後ろ手でドアがしまらないうに抑えながら外界へと復帰していく。そこには役割の重複がある。効率的ではないが、人々の何気ない良心の重なりというのは見ていてほほえましい。
 
 とまぁ感傷的な文章はここまでにしておいて。

 僕には日ごろから人知れず心に留めるようにしていることがある。そして、人はそれを聞いて大抵、失笑混じりに変態と言い、ある人は露骨に気持ち悪がる。それはエレベーターに関係していることなのであるが、僕がエレベーターに関することに興味を持ち始めたのはまだ日が浅く、今年の5月くらいである。というのも、今年の四月から初めてエレベーターのあるマンションに住み始めて、デパートで乗ることしかなかったエレベーターが日常と非日常の過渡期にあったのがちょうどそのときだったからである。エレベーターが日常の中にある異物という感覚がぬぐえない中で、僕はエレベーターを観察するということを始めたのである。なので、同じことに気を留めている人がもしいたら僕などまだぺーぺーの新米ということになろう。

 それは一般に五月病と言われる、ただやる気がなんとなく出ない日であった。その日は図書館に向かい、誰とも会話がなく帰宅した。会話がないこと自体はなんとはないことなのであるが、その日読んだ本の寂しさが、僕を人の気配に敏感にさせていたのかもしれない。僕は上矢印のエレベーターのボタンを押し、その箱が降りてくるのを待った。そしてドアが開き、中に入るとふと人の気配を感じた。しかし顔をあげてもそこにだれかがいるわけでもない。正確には僕は人の気配を感じたのではなく、人の匂いを感じたのである。そこに誰かがいたという痕跡を僕は感じていた。それは憚らずに言えば、きれいな、少なくとも身だしなみに気をつけていそうな女性の匂いだった。実物を見たことはないし、見たいとも思わないが、それ以来エレベーターにうっすらとある人の残滓を観察するのが、日課になっていた。
 ある日はギャルっぽい香りがし、ある日は風呂に入っていない男子、またある日はがつがつしてそうな男、素朴な人、などその残り香はなかなかに僕を楽しませてくれていた。もちろん、毎日その残滓があるわけではなく、それは脱ぎたての靴下の香りのようなもので、しばらく経つと消えてしまう、薄らいでしまうものである。名誉のために断わっておくが、ときたま素敵な匂いに心休まることもあるが、なにも、匂いふぇちなのではない。ただ、あの日以来、観察することそれ自体が少し面白くなってきたのである。
 
 しかし、今日この日に、強烈なそれゆえトラウマになりかねない体験をした。そこにあったそれは僕に観察することを不可能にした。客観的距離をとるすきを僕に与えず、僕の芯にある主観的な感性に、こう言ってよければ、感覚に訴えかけてきた。研究室に向かうエレベーターの中に、それはあった。残っていたのではなく、残滓ではなく、たしかに現存在としてそこにはそれがあった。そしてそれは人なるものとは全く別物で、それでいて、人と無関係というわけでもない存在である。それは人から発せられ、発せられた瞬間に、その人から分離し、確かな実存性を持つようになる存在である。他者を寄せ付けない圧倒的存在感、そしてその威圧的風貌に似つかわしくない匿名性、すべてが僕を凌駕した。それは鼻から入ってきて、鳥肌を誘発する。4階に到着するまでの間、僕はそれに包囲され、翻弄された。4階に箱が到着し、ドアが開き、僕は外に出た。しかし、去っていく僕の後ろ姿を、背中を、それはすぐには放そうとはしなかった。エレベーターから降り、速足で右に曲がり5歩ほど歩くと、やっとのことで、それはもう霧散していた。

 人は、それをこう呼ぶ。「へ」、と。
 エレベーターの恐ろしさをざらざらとした肌触りのなかで感じた瞬間、いや、時間であった。

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1986/01/22
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学生
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妄想
自己紹介:
大学院で平和構築を勉強中。
スナフキン症候群にならないようにと日々励んでいます。
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