“バラ仁丹”
なんのことかご存知であろうか。これは一昔前おじさんの必需品であったという仁丹(BY三浦しをん)のバラ風味のもののことである。私がこれに初めて出会ったのはおよそ二ヶ月から三ヶ月ほど前のことであった。親しい人とかふぇえなるものをしていたときのことであったのだが、そこでその人がなんとあろうことか例のバラ仁丹(正確には仁丹のバラ風味)をかばんから取り出したのである。その外見たるやそのまんまブレスケアと見まごうばかりのものである。三浦しをんのエッセイでその存在を知ってはいたものの現物を見たことのない私はもう少しグロテスクなものを想像していたのでその風貌に驚きを隠せなかった。
好奇心旺盛な私は早速食後のブレスをケアするためにブレスケアではなくバラ仁丹を二三粒口に投入した。
・・・少し時間が過ぎて。僕のおなかにはバラの花畑が広がっていた。その香りたるやおなかでは満足しきれず口から小さな吐息となって漏れ出てくるではないか。ほんのりとしたバラの香りが口から例のGEPPUというそよ風にのって下界へともれ出ている。おなかの中の神聖なお花畑の様子がなんとも明確に私の眼前に広がるようである。私はそのバラ風味にそこはかとなくめまいを感じた。げっぷとバラの香りという組み合わせのアンバランスさに、その斬新さに私の意識はついていけなかったようである。
話によると最近は雲子のにおいがバラの香りになるような食べ物まで発売されているらしい(バラの香り、排泄物などで検索するもヒットせず)。もしこれが本当ならどうなることであろうか。ひとつ仮想的な例を挙げて考えてみたい。これは最初に断っておくが人間の嗜好やひいては物事の認識がどれだけ環境に影響されうるかということを半哲学的に考察しようという認識論的に画期的な試みである。要するにおふざけである(ちなみにかの有名な開高健は便所のことを哲学小屋と呼んでいたなんともおしゃれなネーミングである)。
その例とはこうである。それを一粒飲めばたちまちすべての排泄物がバラの香りになるというバラローズ(直訳するとばらばら、こういうふざけたTシャツって巷にあふれているよね)を半永久的に飲み続けられるくらい保持している核家庭がひとつある。そしてその家庭では母親をはじめ家族全員がバラローズを一日三回毎食後に摂取している。そもそもの発端は母親が潔癖症で(こんな書き方をしたらフェミニストたちから非難ごうごうだろうがまぁスルーして)、雲子のにおいに嫌悪感を抱いていたとしよう。そこに現れたばらばら、じゃなくてバラローズ。ガーデニングが大好きな彼女は迷うことなくバラローズを購入。その日以降彼女の雲子のにおいはバラの香りである。その夫も最初は抵抗を感じていたものの人間とは慣れる葦である、ただただ風の吹く方向になびくだけなのである(BYらすかる・ゆう・ともきあ)の言葉からもわかるように、妻の執拗なバラ雲子攻撃(彼女は自分のなにをあろうことか夫の鼻先に持ってきてほらばらでしょという始末)にとうとう耐えかね、自分のお知りからもバラ雲子を排出するようになっていくのである。そしてこの夫婦の間にはかわいい子供が生まれる。そしてその子供はある日庭のバラをさしてこう言うのである。「お母さん、雲子がお庭に落ちてるよ」それを聞いた潔癖症の母親はあわてて庭に飛び出す。そこには庭一面のバラ絨毯が広がっていました。
これは非常に興味深い仮想的な例である。というのもバラとは何か?雲子とはなにか?といった問いに始まり、美とはなにかといった形而上学的な問いを喚起するものであるからである。ただこの例において、後で簡単に述べることになるのであるが認識論を論じるにあたってそもそも子供は嗅覚だけでバラを概念化しているわけではない、という人間知覚に関連した反論が容易になされよう。ただ、それに関してはこの文章が半哲学的論考であるのでスルーして独善的に自分の主張をごり押ししていこうと思う。
(つづく)
なんのことかご存知であろうか。これは一昔前おじさんの必需品であったという仁丹(BY三浦しをん)のバラ風味のもののことである。私がこれに初めて出会ったのはおよそ二ヶ月から三ヶ月ほど前のことであった。親しい人とかふぇえなるものをしていたときのことであったのだが、そこでその人がなんとあろうことか例のバラ仁丹(正確には仁丹のバラ風味)をかばんから取り出したのである。その外見たるやそのまんまブレスケアと見まごうばかりのものである。三浦しをんのエッセイでその存在を知ってはいたものの現物を見たことのない私はもう少しグロテスクなものを想像していたのでその風貌に驚きを隠せなかった。
好奇心旺盛な私は早速食後のブレスをケアするためにブレスケアではなくバラ仁丹を二三粒口に投入した。
・・・少し時間が過ぎて。僕のおなかにはバラの花畑が広がっていた。その香りたるやおなかでは満足しきれず口から小さな吐息となって漏れ出てくるではないか。ほんのりとしたバラの香りが口から例のGEPPUというそよ風にのって下界へともれ出ている。おなかの中の神聖なお花畑の様子がなんとも明確に私の眼前に広がるようである。私はそのバラ風味にそこはかとなくめまいを感じた。げっぷとバラの香りという組み合わせのアンバランスさに、その斬新さに私の意識はついていけなかったようである。
話によると最近は雲子のにおいがバラの香りになるような食べ物まで発売されているらしい(バラの香り、排泄物などで検索するもヒットせず)。もしこれが本当ならどうなることであろうか。ひとつ仮想的な例を挙げて考えてみたい。これは最初に断っておくが人間の嗜好やひいては物事の認識がどれだけ環境に影響されうるかということを半哲学的に考察しようという認識論的に画期的な試みである。要するにおふざけである(ちなみにかの有名な開高健は便所のことを哲学小屋と呼んでいたなんともおしゃれなネーミングである)。
その例とはこうである。それを一粒飲めばたちまちすべての排泄物がバラの香りになるというバラローズ(直訳するとばらばら、こういうふざけたTシャツって巷にあふれているよね)を半永久的に飲み続けられるくらい保持している核家庭がひとつある。そしてその家庭では母親をはじめ家族全員がバラローズを一日三回毎食後に摂取している。そもそもの発端は母親が潔癖症で(こんな書き方をしたらフェミニストたちから非難ごうごうだろうがまぁスルーして)、雲子のにおいに嫌悪感を抱いていたとしよう。そこに現れたばらばら、じゃなくてバラローズ。ガーデニングが大好きな彼女は迷うことなくバラローズを購入。その日以降彼女の雲子のにおいはバラの香りである。その夫も最初は抵抗を感じていたものの人間とは慣れる葦である、ただただ風の吹く方向になびくだけなのである(BYらすかる・ゆう・ともきあ)の言葉からもわかるように、妻の執拗なバラ雲子攻撃(彼女は自分のなにをあろうことか夫の鼻先に持ってきてほらばらでしょという始末)にとうとう耐えかね、自分のお知りからもバラ雲子を排出するようになっていくのである。そしてこの夫婦の間にはかわいい子供が生まれる。そしてその子供はある日庭のバラをさしてこう言うのである。「お母さん、雲子がお庭に落ちてるよ」それを聞いた潔癖症の母親はあわてて庭に飛び出す。そこには庭一面のバラ絨毯が広がっていました。
これは非常に興味深い仮想的な例である。というのもバラとは何か?雲子とはなにか?といった問いに始まり、美とはなにかといった形而上学的な問いを喚起するものであるからである。ただこの例において、後で簡単に述べることになるのであるが認識論を論じるにあたってそもそも子供は嗅覚だけでバラを概念化しているわけではない、という人間知覚に関連した反論が容易になされよう。ただ、それに関してはこの文章が半哲学的論考であるのでスルーして独善的に自分の主張をごり押ししていこうと思う。
(つづく)
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